執筆者:田所 清克 氏
京都外国語大学名誉教授

★★★本記事は執筆者の許可を得て「伯学コラム」に転載させて頂きます。(文化交流委員会)★★★

アマゾンの風物詩33 –アマゾン地方を代表する二大[野外]市場(os dois

maiores mercados [ao ar livre] na Amazônia–アドルフオ•リズボーア市設市場(Mercado Municipal Adolpho Lisboa) ①

 

マナウスは20世紀の初頭、ゴム景気に湧いて得た潤沢な金で造られた建造物がまだ残存している。すでに言及したTeatro Amazonas がその一例。学生さんや社会人の方を引率してマナウスを訪ねた折りには、必ず立ち寄っていたアドルフオ•リズボーア市場もしかり。ネグロ川に接する別名Mercadão[大きな市場、の意味]を持つこの市場のパビリオンを前にして、そのアール•ヌーボーの美しさにまず圧倒される。

 

パリのMercado de Le Halleに想を得た、レンガと溶かした鉄で作られ、ステンドグラスで飾られたそのパビリオンは、世界有数の建造物として「国家歴史芸術遺産」(IPHAN)にも登録されている。マナウスが” 熱帯のパリ “と言われる所以でもある。パビリオンは今でもそうであるか知らないが、魚、肉、パラーおよびアマゾーナス州コーナーといった具合に、パビリオンごとに商品が置かれている。

 

インディオの民芸品、薬草、マナウスのトリオとして名高いタピオカ、発酵させたキヤツサバの粉(farinha d’água)、フアリーニヤ• オヴイーニヤ(farinha ovinha)、北部の伝統料理に定番のトウクピ[mandioca bravoから採った黄色の汁]、装飾品なども目を引く。また中央のパビリオンにはレストランもあって、観光客には見逃せない場所かもしれない。ローカルカラー豊かな料理を堪能できるからだ。コンデンスミルクの入ったムングザー(munguzá)というトウモロコシの粥、純度の高いアサイー、アマゾン河流域の淡水魚であるtambaqui, pirarucu, tucunaré, pintado(=surubim), pau, jaraqui, matrixãなど、さらには、cupuaçu, graviolaといった地域特産のフルーツも味わえる。その意味で、マナウス住民の台所である市場で、彼らの食文化を知り味わうことは、異文化体験の貴重な場であるように思う。

 

アマゾンの風物詩33 –この地方を代表する二大[野外]市場(dois  

maioresmercados [a céu aberto] na Amazônia–ヴェール•オ•ペーゾ(Ver-o-Peso) ②

 

Mercado Municipal Bolonha de PeixeともMercado de Ferroとも、あるいはただ単にVer-o-Peso呼ばれる、ブラジルでもっとも古い公設市場の一つ。ラテンアメリカ最大の野外市場と見なされている。

 

ブラジルに出向けば常にアマゾンを訪ねていた私であるが、パラー州ベレンのこの市場には一回しか行っていない。しかしながら、1625年にPiriのイガラペーにポルトガル人が設けた昔の税関(Casa de Haver o Peso)の地に設けられたその市場の、農産物の集散地である性格からか、荷揚げや荷積みの光景と合わせて活況ぶりに深い印象を覚えたものだ。ちなみに、Ver-o-Peso[重さを見る、計る、意味]なる名称は、上述の通り、ピリの河口に税関が存在していた。そして、荷揚げされた物品に、重量によって税が課せられたことによる。

 

Mercado de Ferroの建設は1899年、Henrique La Rocqueの設計で始まり、1901年に完成して開設された。マナウスのMercado Municipal Adolpho Lisboa同様に、ベールエポックのアール•ヌーボーの様式で、亜鉛製の4つの鱗の塔に特徴がある。市場は薬種の類いの(droga do setão)などアマゾンの農産物が他の地域や海外に、あるいは欧米から商品が到達する商業の中心地である。400年を閲する市場はマナウスのそれと並んで、北部地域のgastronomiaのシンボルでもある。客と売り子との間の問答がかまびすしい雑踏のなかに、できればもう一度、身を置きたい気持ちに駆られることしきり。

アマゾンの風物詩 34 –ボリビアの領土だったアマゾン河流域の南東部の

アクレ州( o Estado de Acre que era o território da Bolívia)–

 

15万2千平方キロメートルを有するアクレ州は、800㎞と離れているものの、ブラジルでは太平洋にもっとも近い。州都であるRio Brancoにはトランジットで一度だけ立ち寄ったことがある。アマゾンの熱帯雨林を護るために立ち上がった、ゴム採集人のChico Mendes が暗殺され世界的に耳目をひいた地であったので、感慨深いものがあった。

 

ともあれ、90%強がいまだ熱帯雨林に覆われ森林伐採の指数が少ない、生物多様性に富んだ意味で注目されている。この森林から20世紀の初頭以来、ラテックスやカスターニヤが採取されていることも特筆される。その一方で、孤立した先住民がいることでも知られる。この地の唯一の舗装道路は国道BR-364線で、中西部まで延びている。

 

20世紀のはじめ、ブラジルのゴム採集人たちは、当時ボリビアの領土に属していたのが自国領になるよう立ち上がり闘った。武力戦の末、ブラジルとボリビアの双方は、Petrópolis条約に署名して休戦した。その条約とは、ブラジル側がアクレを200万ポンドで買い取り、Madeira-Mamoré鉄道をボリビアのために敷設する約束を負うものだった。

アクレ州がボリビアの領土であったなんてつゆ知らなかったし、それを知ったのは恥ずかしながら、アマゾンに関心を持って研究を進めるようになってからのことである。

 

ブラジルの風物詩 35 –環境[森林]保護活動家シツコ•メン デス(Chico  

Mendes)–

アマゾンの熱帯雨林の保護とゴム採集人たちの権利のために主導的な役割を果たしたChico Mendesを、この国について知ろうとする人なら黙過し得ないだろう。1970年代はじめから連邦政府による経済政策は、アマゾン地域の開発、なかでも農牧畜、木材産業の振興にあったように思う。この振興策を通じて多くの牧畜業者が他の地域から流入、広大な原始林を購入•占有してかけがえのない密林を牧場に変えた。この政策は、森で暮らす住民やゴム採集人に直接影響を及ぼすこととなった。歯止めのかからない森林伐を阻止しようと、ゴム採集人とその家族は手をつないでアピールするが、部分的にしか食い止めることが叶わなかった。

 

Chico Mendesをリーダー格とする保護団体は1977年、シヤプリのゴム採集人労働組合(o Sindicato de Seringueiros de Xapuri)を結成し対抗するものの、焼け石に水といった状態だった。そして挙げ句は、1988年12月22日、自宅にて暗殺される。同様に30人の同僚も落命するこことなった。アマゾン開発と森林伐採を巡るこの一大事件は、こうして世界の耳目を引くことになる。前政権から較べれば、この地域を保全しようとする政策は垣間見られるが、持続可能な環境開発という名の下に、焼き畑などによって貴重な自然が蝕まれ続けているのは現実だ。

 

トウクルイー(Hidrelétrica de Tucuruí)—

 

アマゾン流域には大河以外に、支流とは思えない規模の巨大な河川がいくつもある。このことは原子力発電に頼る必要もなく、無尽蔵ともいうべき水力発電の潜在能力を内包している。が、他方において、その建造によって広範囲の自然はもとより、貴重な生物多様性は失われ、環境破壊の要因となる。

トウクルイー発電所の建造前から、開発か環境保全かを巡っては、熱い議論が国および地域レベルにおいて交わされてきたが、結局は開発の道を択び建造された。トウクルイー市の歴史を塗り替える一大事件と捉えてもよいだろう。トカチンス川を活用して造られた発電所は1984年、まず12基あるタービンの1基のみで操業を開始した。30階に匹敵する100mの高さにして7,5㎞におよぶダムの全容は、壮観そのものだ。

 

1950年の時点ではわずかに2448人しかいなかった、castanha と林業を生業としていた地域住民であったが、この巨大プロジェクトの実現によって、3万もの人が他地域から1980~1984年の間に流入したと言われている。そして現在のトウクルイー市の人口はほぼ6万に膨れ上がっているのである。

 

電力会社Eletronorteが市に払うローヤルテイーによって地域の経済は潤い、住民の日常も様変わりしているとのこと。かけがえのない自然を犠牲にして造られた水力発電所。経済優先か、それとも自然環境保全か、と問われれば、私はどう応えるだろう。まことに悩ましい問題である。ちなみに、世界の水力発電所の中でもブラジルのそれは五本の指に入るItaipu[Paraná州、14000メガワット]、Belo Monte[パラー州、11233メガワット]、São Luiz do Tapajós [パラー州、8381メガワット]、Tucuruí[トカチンス州、8370]。

 

アマゾンの風物詩37 –天然(鉱物)資源の宝庫であるアマゾン(Tesouro dos recursos naturais [minerais]na Amazônia) と出来する公害[環境汚染]の問題–

 

昨今、豊かな鉱物資源に恵まれた国との、いわゆる資源外交が活発になっている印象を否めない。あの資源国と見なされているロシアや中国ですら、安全保障の文脈以外に、豊富な資源を有するアフリカとの関係強化に躍起になっている。ところで、大陸規模のブラジルもその意味において、鉱物資源の宝庫であることは言を待たない。留学時にミーナス州の鉄鉱石の露天掘りをみただけでも、この国が資源に恵まれいる事実を痛感したものである。

それかあらぬか、外国の企業までもがブラジル、とくにアマゾンの天然資源に1960年以降着目し始めた。1967年に地質学者がCarajásにおいて、世界的にも有数の埋蔵量を誇る、およそ180億㌧の鉄鉱石を発見すると、鉱物資源の採鉱に拍車がかかった。ちなみに、同年にカナダの鉱業会社が同じパラー州で、30億㌧のボーキサイトを発見している。

 

70年代に入るとラダム•ブラジルプロジェクト(Projeto Radam Brasil )が推進され始める。これによってアマゾン地方の資源地図も作成されるようになった。まさしくこの時期に、パラー州のPelada 山地で集中した金鉱がされた。結果として、この地はゴールドラッシュに湧き、多数の砂金およびダイヤモンド採掘のために他の地域からも流入した。

 

アマゾン地域での鉱物採掘は抑制なくなされたので枯渇を早めもした。その好例は、アマパー州のNavio山地のマンガン鉱だろう。アメリカの鉱業会社によって採鉱されたそれは、50年足らずで堀尽くされ、街も無人化したそうだ。アマゾンではガリンペイロのよる金やダイヤモンドの採掘の歴史も新しくはない。前世紀にはすでに、Romaima 州でのダイヤモンド採掘を手掛けている。そうしたガリンペイロたちがアマゾン各地で、金獲得のために大量の水銀を利用してきた。その結果、川岸に住むribeirinhoたちや先住民インディオたちが河川汚染から第二の水俣病に苦しんでいる現実にももっと目を向けるべきかもしれない。

アマゾンの風物詩 38 –アマゾン河支流によつて異なる水の色

(os  diferentes tipos[cores] de água) ①

 

最初にアマゾンを訪ねた時に私は、ネグロ川に接する名高きマナウスのTropical Hotelに宿泊した。3日間逗留中、コーヒー色のネグロ川を一望しては、対岸がぼやけて見えるほどの川幅に驚いたものである。ちなみに、そのネグロ川と周辺の樹林を展望すべくヘリコプターで上空から観察したことが、今でも記憶として鮮明に残っている。

 

ところで、アマゾン河流域の特性の一つは、河川の水の色の多様性にあるようにも思う。支流の各々が、植物相、動物相、さらには、植民地化の諸相などを反映し、結果として異なる水の色を呈するに至っている。河川の水の色は、ネグロ川に典型の黒い水(água preta)、白い水(água branca)、それに透き通った透明の水(água clara ou cristalina)に大別される。先ず黒い水について言及しよう。

 

黒い水の源は地質学上もっとも古い地域の一つである、ギアナからブラジル北部の盾状地で、従って土地は容易に分解せず、河川は大量の懸濁した沈殿物を運ばない。有機物の分解に起因する黒い水は酸性の度合いが高く、多少の開きはあるが、pH3,8~4,9程度。それかあらぬか、ネグロ川には、他の生物については存ぜぬが、蚊が思った以上に少ない。

学生さんを引率してのアマゾン旅行では、マラリアを恐れてネグロ周辺の観光が主で、蚊の多いSolmões川には一回きり行っただけである。

 

 

アマゾンの風物詩 38 –アマゾン河支流によって異なる水の色(os   

diferentes tipos de água) — 白い水色の河川(rios de água branca)②

 

比較的に新しい地層のアンデス地域に源を発するので、浸食作用を受けやすい。アンデスの岩石はいとも容易く分離•分解し、そのかけらは雨に溶け河川に流される。その時大量の懸濁(suspenso)したカルシウムやマグネシウムのごとき固形物が運ばれるのである。それが黄土色を呈した川の水色の要因になっている。

 

実際は、近くから見れば土色しているが、遠くから眺めると、白色に見えなくもない。だから、この国の文献を紐解くと、濁水した黄土色ではなく白色と定義している塩梅。この種の河川の代表例として、Solimões 川、Madeira 川、Branco川などが挙げられよう。これらの河川は、懸濁した状態での有機物を含んでおり、pHは6,2から7,2程度である。

水の色が白いこともあつて、引例した上述の一つがBranco川と名付けられたのも合点がゆく。

 

アマゾン観光でマナウスを訪ねれば、Negro川とSolimões 川の合流する、マナウスの港から10km 下流の地点(encontro de águas)に出向くのが定番になっている。マナウスに行かれた方ならば、その合流点に足を向けられたに違いない。水質、水温、水流の速度等によって、アマゾン河になった合流点から下流の約10km まで、交わることもなくツートンカラーの状態で流れる様には見とれてしまう。

 

アマゾンの風物詩 38 –アマゾン河の支流によって異なる 水の色

(os diferentes tipos de água)– 透明に透き通った河川 ③

 

ブラジル中央高原(Brasil Central)の盾状地に源を発する河川の地域も地質学状は古く、浸食作用があまりみられない。ネグロ川と同じく懸濁した粒子はあまり含んでおらず化学的に多様性を呈しているが、水の色は透明である。pH4,5~7,8ほどで、酸性~アルカリ性を有している。

 

アマゾン河流域の無色透明の河川の例としては、いずれも大河であるタパジヨース(Tapajós)とシングー(Xingu)と言われている。実際に私は見たことがないので、自分の目で確かめたいのは言うまでもない。雨期になるとしかしながら、川の水の色が変色したりすることもあるようである。つまり、雨の量が多ければ、浸食作用も多発して懸濁するからである。

アマゾンの風物詩 39 –タパジヨース(Tapajós)の布教村からパラー州の主

要な都市へと変貌したサンタレーン(Santarém)—

 

ベレーンとマナウスとの間のほぼ真ん中に位置するサンタレーンは、パラー州西部の放散的な機能を持った重要な拠点都市である。州都ベレーンから船で2日もかかる。この地に16世紀にヨーロッパ人として初めて到来し、現地の先住民トウイウ族(tupaiu)と接触したのは、Francisco Orellanaであった。ちなみに、tupaiu 族は、農業を営み狩猟に長けていた。

1661年、João Felipe Bettendorf 神父によってそこにタパジヨース布教村がされるのであるが、奴隷化、戦争、流行病などによって消滅する。その村は1758年、町へと格上げされて、Pedro Álvares Cabralが眠るポルトガルの都市Santarémに敬意を表してサンタレーンと命名された。

 

住民の多くがCabanagem[1835~1840年の間、多くはインディオとカボクロ、加えて都市や河川周辺(ribeirinho)の町の貧しい住民、黒人たちが、社会変革を訴えた民衆革命。彼らはカバーノ(cabanos)と称されていた]に参戦するなどの政治的動乱や種々の伝染病にもかかわらず、町の人口は都のベレーンを凌ぐほどに膨れ上がった。結果として、Santarémは1848年、Jerônimo Francisco Coelho大統領によって市のカテゴリーに位置付けられた。

アマゾンの風物詩 40 –ポルトガル人と勇猛に戦ったマナオ族(manao)の英

雄アジュリカーバ(Ajuricaba)—

 

1750年頃、ネグロ川上流に居住する先住民族のおよそ2万人が奴隷化されたそうである。彼らは強制的にベレーンおよびマラニョン州のサン•ルイースに連れて行かれ、働かされた。そんななかでマナオ族は数少ない、敵のポルトガル軍に立ち向かったインディオとして知られている。彼らは武器を手に激しく抵抗した。

 

当時、主要なリーダーであつた族長のアジュリカーバ(Ajuricaba)は、ウクライナを侵略したロシアさながらに、自分たちの土地を侵略した植民地主義者のポルトガル人に対して、およそ30もの部族を結集させる意味でも尽力した。彼らはギアナやオランダ人から武器、弾薬などを入手したと言われている。当初、アジュリカーバとその追従者たちは、ネグロ川中流のポルトガル人の野営地を攻撃するに及ぶ。このことの報復としてポルトガル軍は無情にも、インディオの集落をことごとく破壊するに至ったのである。

 

当然のことながら、アジュリカーバは捕らわれの身となってベレーンに送致されることとなるが、鎖に繋がれながらも自ら川に飛び込み自裁する。伝えられることによれば、彼の遺体はまったく見つかってはいないという。そして今では彼は、抵抗と自由のシンボルとなっている。