=「八代亜紀さんは日本の姉妹」= 知られざるブラジルとの深い絆
執筆者:深沢正雪(ブラジル日報編集長)
★★★この記事は執筆者の許可を得て「伯学コラム」に転載させて頂きます。(文化交流委員会)★★★
2024年1月16日この記事は、2024年1月16日付けでブラジル日報紙に掲載された記者コラムを同紙の許可を得て転載させていただいたものです。
「本当にショックを受けました。昨日は一日中、彼女との思い出に浸っていたの」
「昨日、八代亜紀さんが亡くなったのを知って、本当にショックを受けました。昨日は一日中、彼女との思い出に浸っていたの。まるで〝日本の姉妹〟のように思っていました。今でも気が動転しています」―10日、日系社会を代表する往年の名司会者で歌手の三宅ローザさん(78歳、2世)に追悼の言葉を尋ねると、眼を潤ませながらそう答えた。普段は米国フロリダに在住するローザさんだが、たまたま帰国していた。
前日9日付NHKニュースでは、《「雨の慕情」や「舟唄」などのヒット曲で知られる歌手の八代亜紀さんが12月30日、都内の病院で亡くなりました。73歳でした》などと報道され、ブラジル日系社会にも強い衝撃を与えていた。
というのも、八代さんが全盛期の1983年3月、日本移民75周年記念のサンパウロ市公演をアニェンビー国際ホールで成功させていたからだ。3日間、各2公演で計1万5千人が入場した。
サンパウロ公演を主催したのは奥原プロダクション(奥原マリオ社長)で、地上波テレビで毎週「イマージェンス・ド・ジャポン(以下IMJ)」という日系社会の超人気番組を制作していた。その社長夫人で、同番組の司会兼歌手をしていたのがローザさんだ。
八代さんは1979年に新境地を開いた男歌「舟唄」が大ヒット、翌1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞、この2年間連続で紅白歌合戦の大トリを務め、〝演歌の女王〟と呼ばれ始めた頃だ。この2曲はまさに代表曲となった。
一方、ローザさんは司会をやる以前、1960年代には歌手として幅広く活躍しており、ブラジルの人気音楽番組『ジョーヴェン・グアルダ』の常連出場者で、「a bonequinha da Jovem Guarda(ジョーヴェン・グアルダのお人形)」として若者層に絶大な人気を博していた。また、1967年にTVTupiでドラマ『Yoshico, um Poema de Amor(ヨシコ、愛の詩)』で主演を務めたブラジル初のアジア系女優としても注目を集めた。
この「ジョーヴェン・グアルダ」は単なる番組名だけでなく、ブラジル人若年層の音楽を中心とした文化運動を示す言葉となった。当時世界的に高まっていたプロテストソングの流れを汲み、1965年から始まった軍事政権への暗黙の抵抗という側面が強かった。
70年代、同じく奥原マリオ社長が経営していたラジオ・サントアマロでは、ジョーヴェン・グアルダの中でも突出した人気を誇った歌手ロベルト・カルロスを出演させ、その際にローザさんが「SUKIYAKI」(坂本九の「上を向いて歩こう」)を日本語で歌うように指導したという逸話も残っている。
ローザさんは日系社会だけではなく、ブラジル社会全体で人気を勝ち取った最初のアジア系歌手として多くのブラジル人の記憶に残っており、引退した今でも強い存在感を保つ人物だ。
大成功だった八代亜紀サンパウロ公演
IMJ番組では、1979年から1997年まで大みそかのNHK紅白歌合戦の衛星中継をしていた。そのため奥原マリオ社長、妻ローザ、息子の純3氏は紅白歌合戦の前に日本を訪問し、本番の2、3日前に行われる舞台演習では、出演歌手10人ほどを別室に特設したスタジオに来てもらい、ブラジル向けのメッセージを撮影するという仕事をしていた。
その際、「八代亜紀さんはあの頃、紅白のトリを務める花形。毎回、メッセージをお願いして登場してもらっていたのよ」とローザさん。当時は訪日するたび、奥原マリオ、妻三宅ローザ、息子の純の3人家族は帝国ホテルに宿泊していたという。
そんな1983年3月、IMJが主催してサンパウロ公演を行った。「私たちは演歌の女王が来るんだからって、何部屋あるか分からないような大きなスイートルームをとって、泊まってもらったんです」。当時有名な日系五つ星ホテルシーザーパークだった。
1983年3月29日付サンパウロ新聞記事「八代公演は大成功」によれば、《アンコールに応えた八代さんは八二年度NHK紅白歌合戦のトリで出場「海猫」を熱唱したときの純白ドレスに鳥の羽根を配した豪華衣装で登場、歌合戦の舞台を再現した。このあと再開を願って「もう一度逢いたい」を全員総立ちになって合唱、ハンカチを高く降り涙ぐみながら別れを惜しむ人の姿も会場のあちこちに見られ、泣かない八代で知られている八代さん、こみあげるものがあるのかライトに照らされた目がにじんで、唄声もかすれがちだった。
舞台を去る八代さんに舞台側まで押しかけた聴衆たちはいつまでも八代さんの名を呼び別れを惜しんでいた》と感動的な公演当日の様子が生き生きと描写されている。
八代亜紀の自宅に招待されて宿泊
そのあと、紅白の衛星中継の仕事で年末に訪日した際、八代さんと話していて「あら、ホテルに泊まっているの。そんなのキャンセルして家に泊まっていってよ」と誘われ、中目黒のご自宅に1週間以上泊めてもらったんです」と思い出す。以来、5年間ほど、毎年それが繰り返された。
ローザさんは「私が居間にいたら、突然、八代さんがパジャマ姿で上から『ねえ、ローザ、なんか食べようよ』って降りてきて、バナナとかフルーツを二人で食べながら、たわいのない世間話をしたの。夢のような時間だったわ」と目に涙を浮かべながら思い出す。
「なんというかすごく気が合ったの。日本の姉妹のような感じで、よく夜中までおしゃべりしたわ。お母さんとか家族の話とか。八代さんは飾らない人柄で、根が純朴な人。とても愛情深くて、お年寄りへの敬意が強い人だった」
八代さんから聞いた中で、最も印象的だった話を尋ねると、「八代さんからあるとき、しみじみこう言われたの。『苦労って悪くないの。昔の苦労した時代があるから、今の私があるの。今思えば、あの苦労した時代は大切な時代だったんだって、今なら思えるの』って。あの演歌の女王にもそんな時代があったなんて、なんだかジーンとしたわ」と下積み時代が長かった演歌の女王だからこその言葉に心底しんみりしたという。
「八代さんは『ねえ、ローザ、またブラジルに行きたいわ。遠くからわざわざ聞きに来てくれ、涙を流しながら聞いてくれるお客さんの前で歌えるなんて、歌手冥利に尽きるわ』とか言ってくれて本当にうれしかった」とも思い出す。
ローザさんの息子純さん(49歳、3世)も「八代さんはとても優しい人で、日本のチア(親戚のおばさん)のような存在だった」と悲しむ。一番印象に残っていることを尋ねると、「新宿コマ劇場1カ月公演を見に行ったときのこと。歌だけでなく、剣劇とか、とにかく迫力がすごかった」と思い出す。
『ねえ、ローザ、みんなでカラオケ行かない?』
1984、5年頃、「八代さんはある時、『ねえ、ローザ、みんなでカラオケ行かない?』って誘ってくれたの。実はそれまで私はカラオケに行ったことなかったの。八代さんと付き人、マネージャーと私たち家族で行った。あの頃、カラオケボックスなんてないから、お店まるごと貸し切りなの。八代さんから『ローザはどんな歌が好き?』って聞くから、『演歌、八代さんの「なみだ恋」が一番好きです』って答えたの。そしたら『じゃあ、それを歌って!』って言われちゃったの。どうしよう、どうしよう、って困ったの。まさかそんなつもりで言った訳じゃなかったから。本人の前で歌うなんて、考えてもみなかった」とつい昨日のことのように思い出す。
まさかのことが起きてしまった。「小さなステージに上がって、ライトを浴びながら、心臓がドキドキ、足がガクガク震えたの。でもこんな機会は二度とないって、勇気を振り絞った。『夜の新宿、う~ら通り――』って歌い始めたら、彼女の顔がエッという表情になったのを覚えているわ。でも足が震えて、震えて、『早く座りたい』って思いながら、なんとか歌い切ってホッとして、八代さんの方をみたら、なんと拍手してくれていたの。おまけに『私の歌はけっこう難しいのよ。ローザは上手に歌ってくれたわ』ってコメントまでくれた。あの時は本当に感動したわ」
ブラジル人の若者に絶大な人気を誇ったジョーヴェン・グアルダの歌姫も、演歌の女王の前では、ただのファンだった。「あまりに感情が揺さぶられて、あの後、心が落ち着くまで時間がかかったわ。八代さんも目の前で歌ってくれて、本当に楽しい時間を過ごした。最後に八代さんは『ローザの歌、もっと聞きたいわ。また行こうね~』って言ってくれた。本当に一生の思い出になった」。ちなみに2度目のカラオケでは、本人の前で『雨の慕情』を歌ったという。
ローザさんはブラジル社会ではビートルズ世代のポップス歌手として知られていたが、サンパウロ州リンスで生まれ育った日系人としての生活環境から、個人的には演歌に強い愛着を持っていた。
「ある時、八代さんから『ローザ、コンサートの前のマイクのセッティングの仕上げを確認したいから、ステージで歌ってくれない?』と言われて、スタッフの皆さんの前で本番さながらに『なみだ恋』を歌ったわ。本当に夢のよう、楽しかったわ」と一気に語り、「このカラオケの話は、今まで誰にも話したことがなかったわ。はじめてよ」と付け加えた。
当時、NHK紅白歌合戦の生放送が終わると、八代さんから「ローザ、一緒に年越しのお参りに行こうよ」って誘われて、神社で新年を祝ったという。「IMJではいろいろな日本の有名歌手をブラジルに招へいしたけど、八代さんが一番、付き合いが深かった。その後も、八代さんとは頻繁に個人的に電話をしていた。新しい曲が出たといえば、レコードやCDを送ってくれた」
隠れた日伯音楽交流史の1ページ
八代亜紀さんは2011年11月にも2度目の来伯公演をした。この時は、童謡など日本伝統音楽の伝承に努める「にほんのうた実行委員会」、国際交流基金、サンパウロ新聞が共催するチャリティーコンサート『Nihon no Uta in Brasil』に出演した。もちろん、ローザさんも付き添った。
「たしか最後に話したのは2022年の初めごろ、パンデミックのまっ最中に八代さんから電話が来て、『ローザ、今、私ユーチューブをやっているのよ。見てくれてる?』って、すごく元気そうな様子だったのよ。いつも健康にはとても気を付けている人だったわ」
IMJによるNHK紅白歌合戦の衛星中継は当時としては画期的なことで、日系若者の脳裏に日本歌謡を強く刻み込んだ番組であり、80年代から現在にまで続く当地カラオケブームの原点ともいえる番組だった。
その紅白のトリを飾った演歌の女王が聖市公演をした縁で、ブラジルの歌姫とひそかな交流を長年保っていた。日伯音楽交流史の隠れた一ページではないか。(深)