★★この記事は執筆者の許可を得て伯学コラムに転載させて頂きます。★★

執筆者:田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)

北東部の風物詩 ④ –ノルデスチーノ(北東部人=nordestinos)—

 

人口を抱える北東部は、サンパウロやリオが所在する南東部(Sudeste)に次いで、二番目に人口が多いところである。が、人口分布は下位区分される場所によって違いがみられる。言うまでもなく、人口密度の高いところはzona da mataである。海岸線に面して湿潤な気候で、多くの労働力を要するサトウキビ栽培と製糖が昔から行われていたことが、その要因になっている。

人口構成の点で圧倒的に多いのは、白人と黒人の混血児であるムラト(mulato)のようだ。zona da mataとsertão の遷移地帯に位置するagresteは、小土地規模の家内農業が主流を占めることもあってか、zona da mata程でなくとも人口は多い。これに対して、内陸部のsertão は半乾燥で旱魃の被害を受けやすく、しかも、あまり労働力を要しない、大土地所有形態の牧畜が主なので、人口は希薄である。

奥地の人(sertanejo)と呼ばれるその地域の人間像は、牧童vaqueiro であろう。最南部のRio Grande do Sul の牧童であるgaúchoとよく比較される。sertanejo の大半は、mameluco もしくはcabocloと称される、インディオと白人との民族的な混血からなっている。※写真は全てWebから借用

北東部の風物詩 ⑤ –旱魃に起因する貧困で苦しむ奥地のvaqueiro たちの宗教性[メシア信仰]と、抑圧された者としての弁証法な革命思想—1

 

植民地時代から奥地の重要な産業である牧畜。搾取•収奪されながらも、牧畜主を底辺から支えているのは、牧童でありセルタネージヨである。彼らは不定期的に発生する旱魃のみならず、一握りのアリストクラートによる乱暴な扱いや差別に、塗炭の苦しみを味わってきた。つまり、北東部社会には常に、富める者と貧しい者との間の格差、白人に対する黒人、混血児への民族的、人種的偏見、差別の構図等が存在していたのである。

 

であるから、Bandeirantes e Pioneirosの作者であるViana Moogの言葉を借りれば、バイーアの文化•精神風土を例外として、北東部には<1930年代の小説>が雄弁に物語っているように、階級闘争を生み出す、非常にポレミカルで扇動的ともいえる革命的な風土が存在していた。既に前に取り上げた、エウクリーデス•ダ•クーニヤの手になるルポルタージュ色の強い『奥地』(Os Sertões)が扱う<カヌードス戦争>などは、そうした事例の典型かもしれない。他方、『重いくびきの下で』の作者自身がある土地なき農民を主導しながら、「農民同盟」結成を手助けして農園主を告発しているのも、この社会特有の病理を暴き蜂起しようとする、革命思想がうかがえる。

 

旱魃に打ちひしがれ、農村貴族階級に抑圧された不可触賤民たるセルタネージヨの多くは、宗教にすがる他はなかったのである。狂信的なAntônio Conselheiro に先導されてカヌードスの邪教徒たちが政府軍に対して立ち上がったのもおそらく、宗教心に燃えていたからであろう。次回は、社会の底辺に生きてきた、そして生きているセルタネージヨのその宗教心について言及したい。

北東部の風物詩 ⑤ –旱魃に起因する貧困で苦しむ奥地のvaqueiro たちの宗教性[メシア信仰]と、抑圧された者としての弁証法的な革命思想—2

 

ユダヤ教伝来のmessia信仰。これがポルトガルでは、セバスチアニズ(Sebatianismo)のかたちで、まことしやかに信じられていたのは、あまりにも有名である。ポルトガル軍を指揮•統率していたDom Sebastião は、アフリカのAlcácer-Quibirでの闘いで1578年8月4日に落命した。そのポルトガル国王が倒れ死んだのを誰一人として見た者はいなかった。そのことから、王が再び生きかえってくるという、いわゆるSebatianismoの伝説なり神話は広まった。ユダヤ教で言うところのMessianismo が、Sebastianismo に置き換わったと見てもよいだろう。

 

16世紀の第二半期以来、ポルトガルを席巻したSebastianismo 信仰は、ブラジルわけても北東部、それも奥地では、避けがたい旱魃を被った貧民に対して何ら救済措置も講じない政府の放擲、無策ぶり、地方ボスなどの抑圧、不正に対する憤りや反発などが、暴動や反乱のかたち発現した。荒涼たるセルトンの原野を跳梁跋扈して、富める者から略奪したlampiãoやcangaceiro、カヌードス戦争を引き起こした当事者たちの思想の根底には、かたちは違えどもSebastianismo があったことは疑うべくもない。

 

例えば、カヌードスの住民を戦争へと駆り立てた狂信的邪教徒の主導者Antônio Conselheiro は、<海がセルトンに変わり、殺伐として干からびたセルトンが海に変わって、Dom Sebastião が国を救う>、と彼に追従する信奉者たちに説いている。そして、神の力で政府軍との闘いに勝利をおさめ、共和制の打倒が叶えられる、とも喧伝するのである。このように、19世紀の北東部では社会の周縁にある住民には、Messianismo とSebastianismo の宗教[的概念]が深く根を下ろしている。そうした宗教的フアナチズム(fanatismo)に社会主義が結びついて、北東部の奥地ではvaqueiro に代表される民衆の間に、空想上のシンボルとして弁証法的な革命の風土が醸成されたように私は思う。

北東部の風物詩 ⑥ –<1930年代の小説(romance de 30)>–

 

いま扱っている北東部の社会とそこに生きる人々を理解する方法は、1930年前後にブラジル文学史に大きな足跡を印した、北東部の地方主義小説に触れることかもしれない。公になって90年以上経っているにもかかわらず、その北東部の文学作品のほとんど全てが今もなお光芒を放ち、この国を代表するものになっていることには変わりはない。

 

ネオリアリズムの視座から、北東部がかかえる諸問題や、そこに生きる人間性、自然•文化景観の有り様を描写、中でも社会の宿痾ともいうべき病理性に焦点を当てた作品群は、ある意味において、ブラジル諸問題の縮図でもある。従って、北東部の文学を読めば、この国の理解につながることは言うまでもない。

北東部の風土的特性 ① –中北部(O Meio-Norte)—

 

最後の下位地域である中北部。ここはセルトンの半乾燥気候と、マラニョン州と一部のピアウイー州を含むアマゾン林の赤道気候の、遷移地帯に当たる。従って、気候はセルトンから西の方向に向かうにつれて、ますます湿潤となる。と言うことは、カアチンガは場所を譲り、遷移地帯の植生面の特徴である、カルナウーバ(carnaúba)やババスー(babaçu)といった椰子樹(cocoais),へと徐々に変化する。そして、アマゾン林へと移り変わる。

マラニョン州とピアウイー州を支配するセラードでは、牧畜が盛んである。と合わせて、上述の典型的ともいえる椰子の採集がなされる。

 

中北部の最西は、北部と同じように赤道気候を呈している。高温で、降水量[年間、およそ2千mm] も多く、大気に多くの湿気をもたらし、アマゾン林の保全に欠かせない。

※carnaúbaとbabaçuについては、つぎに説明する。

写真は全てWebから。

北東部の風物詩⑥ –捨てるところがない有用植物carnaúba とbabaçu–

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北東部に限りなく出向いたのは、まるで “羊水 “のような根源的な母親のような心の拠り所を感じる、ただそれだけではない。 私のみならず、北東部の、緑なす海の沖の潮路を帆走するジヤンガーダ(jangada)、白砂の浜辺にそよぐ椰子など、白砂青松ならぬその絵画的な光景をみた人ならば、魅せられること請け合いである。梅の花とウグイスのように、椰子樹と海、それも北東部の海との場景はよくマッチしている。ことに、セアラーとマラニョンの海辺の光景は、一番すきである。

 

前回述べたMeio-Norte地帯は、半乾燥のSertãoと赤道アマゾンの遷移するところに位置する。そのために降水量にも場所によって違いがみられ、地味は痩せている。マラニョン州の米作、セラード地域のピアウイー州の牧畜に限られている感じがする。気候のせいで、この遷移地帯の典型的な植生は記述の通り、carnaúba とbabaçuである。いずれも捨てるところがない、住民にとっては貴重な有用植物になっている。

 

拙訳『イラセマ』の劈頭の部分に描かれるcarnaúba 。それはどんな椰子なのだろうか。文献で調べてみると、北東部半乾燥のvárzeaに典型的な植物で、学名はCopérnico pruniferaだそうだ。Pará州やGoiás州でも見かけられ、成木は10mに達し、なかには15mにもなるものもあるという。トゲのある葉柄(pecíolo)の葉は扇子状をしている。実からは油が取れる。同じく若葉からはグリス、滑剤、蝋燭、ワニスの材料となる蝋が抽出される。また、枯れ葉は小屋の屋根や壁のみならず、帽子などの民芸品、さらにはカゴ、ヒモにも用いられる。セアラー州のSobralでは、それで作った帽子はつとに有名で、ブラジル全土に向けて売られている。

 

すこぶる興味深いことは、インディオは昔、carnaúba の根を焼き、灰から食べ物に塩味するための塩を獲ていたそうだ。度々訪ねたPantanal にもよく似た椰子がある。現地の人に尋ねてみると、同じ種類ではあるが、カランダ(caranda)[Copérnico australis]といわれるものらしい。

北東部の風物詩 ⑥ –捨てるところがない有用植物carnaúba とbabaçu—2

 

アマゾンのManaus へ向かう時に私は通常、北Pantanal の玄関口であるCuiabáあるいは南の玄関口であるCampo Grande からが常であった。その点、リオから北東部海岸に沿って北上してManaus に行った経験は、たったの一度か二度しかない。がしかし、その数少ない旅で、機上からSão Luís 付近のbabaçuが点在しながら群生している光景を眼下に目にして、深い感動を覚えたものであった。

 

前回扱ったcarnaúba と共に、babaçuは中北部、わけてもMaranhão 州を代表する椰子の木である。この州都に逗留中に私は、babaçuが植生する群落(babaçuzais)を間近に観察することができた。学名Orbignya speciosaを持つbabaçu は、ブラジル北部原産の植物で、高さは平均20mにも及ぶ。全土に存在すると推定される1800万ヘクタールのババスー林のうち、その1000万ヘクタールはマラニョン州に集中する。このことからも州を象徴する植物であるのが理解できる。

 

carnaúba 同様に、多方面に活用される。屋根、壁以外に、幹は建造物に、固い殻で覆われた実からは乳や粉が取られ、またその油はバター、石鹸、蝋となる。一本のbabaçu は一年につき、2000の実をつけるそうだ。椰子の実の取り出し作業は概して女性の仕事らしい。だから、その作業に携わる女性のことを “quebradeira “[quebrar=砕く、割るの意味から、「割る, 砕くひと(女)]と呼んでいる。他方、厄介なことにこの椰子は、そこらに蔓延り席巻してしまう。それで現地の人は「牧草地の雑草」(praga dos pastos)のように捉えている。