★★この記事は執筆者の許可を得て伯学コラムに転載させて頂きます。★★
執筆者:田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)
北東部に華開いた砂糖文明 –植民地社会と人種関係の特質(As características da sociedade colonial e as relações raciais na
civilização de açucar florida do Nordeste)
北東部のRio Grande do Norte州からBahia州北部地域まで、海岸線に沿ったzona da mataでのサトウキビ栽によっては、16世紀半ば以降、砂糖文明の地へと変容させた。モノカルチヤーによるサトウキビプランテーションは、広大な土地と多くの労働力を要した。植民地本国は、ブラジルに渡ったポルトガル人に対して、開発を条件に世襲性による土地を分割して与えた。
世襲領地の受領者(donatário)になった貴族たちは大土地所有者(latifundiário)となる。こうした大土地所有制(latifúndio)の存在が、それ以降の北東部の社会的不均衡の要因となったことは認識する必要があろう。つまり、広大な土地所有者がいる一方で、他方には奴隷や土地なき農民などが存在していたのである。そうした大土地所有制の有り様は今もそう変わりないように思う。このことが、F•ジユリアンが農村貴族階級などの地方ボス(coronel)に対する告発の要因であったし、「農民同盟」結成の動機にもなっている。
北東部[社会]は砂糖文明の興隆によってブラジルの植民地経済を支える基盤となったものの、人種関係においてネガティブな意味において、消し難い非人道的な禍根を残したのみならず、国内でもっとも貧しい地域を生み出したのも事実である。次から、砂糖農園や製糖工場における白人、インディオ、黒人奴隷、混血児ムラト間の、人種関係について知見を披露したい。
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北東部の植民地社会の人種関係については、ブラジルのもっとも高名な社会史家にして人類学者のGilberto Freyre の手になる、ブラジル学の入門書的基礎文献であるCasa Grande & Senzalaを読めばある程度理解できる。彼の言説によると、ブラジルの社会と文化はポルトガル人とインディオ、アフリカ黒人が互いに調和的に融合しているとのこと。その上で、インディオと黒人の果たした役割を高く評価しているのである。
その点、フレイレの植民地開発者たるポルトガル人の、有色人種であるインディオとアフリカ黒人に対する見方は、あまりにも温情主義(cordialidade)に映り、彼らへの差別、偏見はむろん、虐待などの非人道性の歴史は看過されているように思われる。要するに、歴史を通じてブラジルの人種関係は、”人種デモクラシー ” (democracia racial)という言葉で象徴される塩梅であったと説いているのである。
が、現実の社会史、特に植民地時代を通観すると、いかほどにインディオと黒人奴隷がブラジルのためにポルトガル人のために犠牲になってきたかが、認識されよう。ところで、この国でもっとも早く起こった工業は製糖業である。もっとも、その発祥地は殷賑を極めたバイーア州やペルナンブーコ州のように考えられ勝ちであるが、マデイラから最初にサトウキビの苗が導入されたのは、サンパウロ州のSão Vicente 郡らしい。それもそのはず。16世紀初頭に到来したものの多くが、マデイラ島出身であったそうな。
ともあれ、少数でありながら砂糖農園主は、他に対して絶対的な支配権を保持していた。土地の所有者であるばかりか、砂糖工場、自分たちの住む大邸宅(casa grande)、奴隷小屋(senzala)の所有者でもあつた。その上に、そうした農村貴族階級は、礼拝堂まで手持ちで設えていたのである。ものの本※によると、各々の砂糖園には、所得の低い賃金労働者、40から60人の奴隷、分益農(parceiro)、アグレガード(agregado=奴隷ではなく自由労働者に違いないが、耕地に隷属する農民)などがいた。
白人は、当時の年代記者の指摘に従えば、社会階層から大土地所有者で貴族のNobreza 、神父などの聖職者clero、その他の全ての genteに別けられていたそうである。こうした階層化された社会では、階層を越えた交流は無きに等しかった。従って、結婚などは同じ階級に属する者同士で行われた。
※Carlos Garcia. O que é nordes brasileiro, São Paulo, Editora Brasiliense, 1995. 92p.
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[白人]
特に黒人人口と較べて少数であった階層の頂点にあった農村貴族の子弟たちの結婚相手は、同じ白人で、しかも同様の社会階級に属する者に限られていた。従って必然的に、近縁の者と結婚の契りを結ぶケースが少なくなかった。概して、農園を受け継ぐのは長男で、次男以下の子弟は、ポルトガルのコインブラ大学に遊学したり神父を目指すのが、当時の風潮であったようだ。上層の白人階級と社会の底辺にある異人種の間での交流がまったく閉ざされていたといえば、それは嘘になる。
ポルトガル人の血脈にはもともとGilberto Freyre が言うように、人種混交を通じてヨーロッパ北部のケルト系民族はもとより、アフリカのモーロ人に代表されるアラブ系や東南アジアの民族などの血が流れている。その意味において、彼らには他の民族と交わることに何ら抵抗はなかったし人種偏見はなかった。従って、そうした北東部社会の階層化が、農園主と黒人の女奴隷との間の、あるいは賃金労働者と女奴隷との性的交流を妨げるものでもなかった。その結果として、多くのムラトが誕生する要因となったわけである。
そして、生まれたムラトの多くは奴隷扱いされることもなく、賃金労働者や分益農などになった。
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[インディオ]
植民地化の最初のニ世紀、インディオはサトウキビで成り立つ北東部社会の形成に向けて参画しながら、重要な役割を果たした。ポルトガルの開拓者たちはスペイン人とは違って妻帯しないで到来し、しかも当地に白人が少数であったこともあって、歴史家たちが記しているように、いとも容易に身を委ねたインディオ女性と結ばれた。
その結果、両者の間でmameluco と称する混血児が多く生まれた。彼らはインディオによって育てられ、ある者はキリスト教徒となる。しかしながら、白人でないことに差別の対象ともなった。ともあれ、初期の植民地開拓者がブラジルで出会ったのは、原色的な農業段階の文明しか持ち得ない先住民インディオであった。彼らは定住性のない遊牧民であったことから、砂糖農園の労働力としては不向きであった。加えて、奴隷制にも激しい抵抗を示していたと言われている。それかあらぬか、土地勘のある彼らは森に逃亡、捕獲するのが容易でなかったらしい。しかし、砂糖農園での彼ら先住民の生活様式、文化面で及ぼした影響も計り知れない。タバコ、香料、薬草の使用、日々の入浴の習慣、ハンモックでの就寝などはほんの一例である。
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da sociedade colonial e das relações raciais na civilização de açucar florida do Nordeste)—4
[Negro] ①
インディオよりもはるかに文明度の高い黒人が、砂糖農園の労働力として強制離散のかたちで、順風に恵まれた時は15~17日の航海で、主に西アフリカの沿岸から到来している。多数に及ぶ彼ら黒人集団の北東部社会へ与えた影響は、他のブラジルのどの地域よりも大きい。前述の社会史家Gilberto Freyre は多くの著作や論文のなかで、アフロ系ブラジル人が国家形成に果たした役割と文化を高く評価しているが、その点で彼ほどの研究者を私は知らない。
ブラジルにおいての黒奴の歴史は優に300年を越える。その間、わけても奴隷制廃棄の1888 年まで、抑圧され続けた宗教や文化はむろん、彼らが当国の産業開発に寄与してきたかを学ぶのは興味ある研究題目である。私の研究は今おもえば、かなりの部分がアフロ系連関のものが占めていたような気がする。事実、論文や著作の少なからぬものが、そうした内容に時間を割いて言及している。
すでに触れたことであるが、北東部で砂糖産業が起こるにおよんで、暗黒大陸からの奴隷の輸入に拍車がかかった。彼らは人間扱いされず、部品もしくは商品なみのペツサ(peça)として算えられていた。アンゴラからの奴隷が多かったことから、ペツサ•デ•アンゴラ(peça de Angola)と呼ばれたりもした。砂糖農園での彼らの住居は、園主が住む広壮豪華な大邸宅(casa grande)とは違って、見るからに貧相なタコ部屋(senzala ou sanzala)であった。
苛酷な農園での労働に反して抵抗するものは、残虐な刑罰が課されていた。そこかしこに設けられていたペロウリーニヨ(pelourinho=石柱)。そこに反抗したり脱走したりした者は、見せしめとして住民の前で鞭打ちが行われていた。Salvador の一番の観光名所ペロウリーニヨ(Pelourinho)の広場はまさしく、凄絶な虐待が行われていた場所であったのだ。 処罰はそれだけではなかった。その例を二、三次の回に紹介したい。
※写真は、Souza, Marina de Mello. África é Brasil Africano. São Paulo, Editora Ática, 2006. 175p.より借用。
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黒人 ②
砂糖農園での反抗的で従順でない黒奴に対する体罰は、pelourinhoにくくられての鞭打ちの刑にとどまらなかった。歯を金槌で叩き潰されたり、逃亡を企てあるいは逃亡の末に捕獲された者は、逃亡者の意味するポルトガル語の頭文字Fの烙印を押されたりもした。このように、正視できないほどの虐待であった。
砂糖農園を象徴する事物は、農園主の住む豪壮な構えのcasa grandeと、奴隷たちが暮らす貧相なタコ部屋(senzala)に他ならない。他方、この砂糖園の典型的な人間像と言えば、農村貴族階級の頂点にある園主(senhor)、農園を管理•監視し無情なまでに奴隷を酷使するフエイトール(feitor)、逃亡した奴隷を捕獲する役割を担うcapitão de mato、園主の用心棒ともいうべきカパンガ(capanga)、それに耐え難き馬車馬のような苛酷な労働を強いられ、人種無視の商品か部品扱いされた奴隷になるだろう。次は、その奴隷の有り様と他の人間像との関係について言及したい。
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[農園主の家族と奴隷]
農園内で絶対権力を持つ園主であったものの概して、奴隷に直接指図•命令することはあまりなく、わけてもサトウキビ畑(eito)でのそれは、農場管理人(feitor da fazenda)に任していた。その点、園主およびその家族が住むcasa grandeで働く奴隷と言えば、料理人、家政婦、子守り(mucama)、乳母(ama-de-leite)役の女性や、園主一家を護る用心棒に限られていたのである。
放縦な園主といえば、手当たり次第、性の対象として奴隷女を相手にもて遊んだ。結果として、白人と黒人の混血児ムラトが多数生まれ、混血社会たる北東部を特徴づけるものとなった。ついでながら、多くの場合農園主の子弟は女奴隷によって育てられたと言われる。北東部の文学や人文、社会科学の文献を読むとそうした言及に出遭う。してみると、心性面での彼女らが今日のブラジル人に与えた影響は測り知れないものがあるように思われる。
事実、育児を任せられた黒人奴隷女は、祖国アフリカのおとぎ話や迷信、(原始)宗教観さえも語り伝えていたようだ。思うに、他のどの民族に較べてもブラジル人に人種偏見や人種差別の類いがあまりないのは、そうした人種間の密なる接触に加えて、混交の度合いが深かったからではなかろうか。
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[黒人奴隷 versus feitor(砂糖農園の管理•監督者)]
エンジエーニヨ(engenho)と呼ばれる砂糖園では、前回述べたように、畑で働く奴隷と園主とが接触することはあまりなく、実質的に直接関わったのはfeitorであった。言うに及ばず、砂糖農園の社会では、自由を求めて闘う側の黒人奴隷にとっては、望むべくもないきわめて不遇な状況にあった。後述することとも重なるが、feitorに常に監視され、指図や命令に従わないで抵抗の姿勢•態度をみせれば、鞭打ちの処罰を受けることは必然であり、それが日常茶飯事であった。
こうした酷い仕打ちに耐えきれず、命を賭して逃亡をはかり、いわゆるキロンボ(quilombo)と称する逃亡奴隷集落を作ったり、そこへ舞い込む農奴も多数いた。
彼らにとっては、大西洋を隔てて対岸に位置するアフリカ大陸の祖国を思い出しながら、奴隷制に甘んじている悲痛を歌や自らが信仰する原始宗教で慰撫するしか他になかったのである。
※今回使用した写真の一部は: Souza, Marina de Mello. África é Brasil Africano. São Paulo, Editora Ática, 2006. 175p.
北東部の砂糖文明
—植民地社会と人種関係の特質(As características da sociedade colonial e das relações raciais na civilização de açucar florida do Nordeste)
[capitão de mato(奴隷捕獲人)、 capanga(用心棒) versus 黒人奴隷]
砂糖園での酷使や残虐きわまる体罰などに耐えきれず、多くの奴隷が自由を求めて逃亡を謀った。が、奏功することも少なく再び捕らわれの身となり、農園を脱するのは稀であった。目立たない森や山岳部のようなところに逃げ隠れするのであるが、追っ手のcapitão de matoに捕まるケースの方が多かったからである。
農園から脱走を試みた奴隷には、さらに酷い仕打ちがまつていたのは、前述の通りである。一方、謀反や暴動を未然に防ぎ、園主一家を守るために、殺し屋の役割を果たす用心棒が、casa grande の近くには絶えず監視していた。その意味ではengenhoは農奴にとって、牢固な水も漏らさぬ刑務所さながらであったのだ。
北東部の砂糖文明 –植民地社会と人種関係の特質(As características
da sociedade colonial e das relações raciais na civilização de açucar florida do Nordeste)–[engenho での黒人奴隷流の抵抗:奴隷制廃棄や 自由
の身に向けての闘争] 1
アフリカ各地で捕らわれの身となり強制離散される際すでに、奴隷商人は奴隷たちが謀反•暴動するのを恐れて、民族や文化、特に共通する言語話者を分離•分散することに注力した。ブラジルに搬入[奴隷=人ではなく商品、部品扱い]された折りにも、極力共通の民族的アイデンティティー出自の奴隷は避けて配耕された。
結果として、奴隷たちは自らの国や地域の文化の多くを喪い、また捨象することを同時に強いられもした。彼らが信仰する原始宗教やカポエイラ(capoeira)などはその典型例だ。天誅を下す意味のマクンバ(macumba)などの黒魔術の利用や、格闘技capoeiraは主として、園主とその取り巻き連であるfeitor などの命を落とす手段にもなったのである。
ともあれ、engenho、わけてもサトウキビ畑(eito)における奴隷たちの抵抗。それは、奴隷制の撤廃や自由を求めた、また時には、抑圧、顔を覆いたくなるような惨たらしい体罰などに対するものであった。概して彼らの抵抗の有り様は、抑制された控え目のものであったり、過激な手段に訴えたものであったように言える。静かな抑制の効いた抵抗の例としては、①仮病を装って仕事をずる休する。②道具を壊して仕事を遅らせる。③交渉して苛酷な仕事から免れる。④命令などに従順になり媚びをうることで、良い扱いを受ける。等々。
※写真はWebから。
北東部の砂糖文明 –植民地社会と人種関係の特質–
[engenhoでの黒人奴隷流の抵抗 : 奴隷制廃棄と自由の身となるため
の闘争] 2
どちらかと言えば、控え目な消極的抵抗とは異なり、より過激な、時には園主やengenho経営にもダメージを与える黒人奴隷による抵抗運動も他方にあった。それらの具体例は、①奴隷自らが自裁すること。②命をかけて農場から脱走を謀り、逃亡奴隷集落キロンボ(quilombo)に逃げ込むこと。③園主が恐れるアフリカ原始宗教を介して園主を呪い、天誅を下すのに躍起になったこと。また、capoeira によって農園主家族やその一味を殺害する試みをしたこと。ちなみに、格闘技capoeira は昔、両足にシャモの闘鶏さながらにナイフをくくりつけて闘い、命を賭けた勝負であった。④反乱rebelião)、暴動の類いを企てたこと。
園主や農園管理者などを殺害し、農園を占有して権力を奪還する目的の、奴隷による暴乱はほとんど常に事前に制圧されることが多かった。この種の反乱は18世紀にミーナス地方でしばしば発生した。北東部で生起したのは19世紀の初葉のRecôncavo Baiano[バイーア周辺の広大な大地]でのものが知られている。多くの奴隷反乱分子が農園やcasa grandeを焼き払い、園主はもとよりfeitorなどを殺し、警察が鎮圧するまで普段の怨念を晴らした。その際、他の農園の奴隷たちも加担したようだ。ブラジル史に刻印された、もっとも重要な奴隷による最大の反乱は、1835年にSalvador で起きたマレースの乱(Rebelião dos Malês)だろう。イスラム教徒の600人にものぼる奴隷たちによる暴乱であることから、その名がついている。