2024年5月17日
執筆者:末吉 業幸 氏
(盛和塾ブラジル創立会員)

 Cunhaクーニアはどこにありますか。
-CUNHAはサンパウロ市からDUTRA国道をリオ・ デ・ ジャネイロに向け車で行くと200㎞地点にGuaratinguetaがあり、右にまがり海岸山脈を登ると約50㎞にある海抜1000m,五つの部落からなる人口約4万5千の農村です。途中サンジョゼ ドス カンポスには世界航空機メーカーランク3位のEMBRAEL本社・機体組み立て工場、EMBRAELを支えているブラジル最難関ITA工科大学(5年生完全寮制)、VW、FIATの工場、他にINPEブラジル航空宇宙研がありましたがアマゾン近郊マラ二オン州に移転した。舌を噛みそうな(笑)Pindamonhagabaは、現ブラジル連邦政府副大統領の出身です。
Cunhaはブラジルが植民地時代にミナス州で採掘された金を漁村パラチ輸出港からポルトガルへ運ぶ宿場街になり、宿場人が住み小さな農村になり、乳業・チーズ工場がつくられ近郊の街に売り、生計を立てていました。その貧村に日本人女性陶芸家2人・日本で陶芸修行をしていたポルトガル人が1975年、1978年に移り住み、ブラジルになかった登り窯をつくり陶芸の街につくりかえた、ということです。ブラジル語で金採掘者をガリンペイロと呼び、CUNHAはガリンペイロ、金運び屋の宿場から農村になり、現在は陶芸の街・避暑地に生まれ変わったということです。

さて、これから本題に入ります。
-ある日、陶芸家の美恵子さんの工房室・ショールームを訪れた後、“末吉さん、家でカフェを飲みましょう”と赤レンガ2階建ての家の一階サロンに案内された。カフェを飲みながら、名古屋で看護婦長をしていたが陶芸をする夢を捨てきれず、また諦めることが出来ず陶芸をしていた旦那とブラジルに行くことにしたとプライベートのことを語ってくれた。
-他の動機は何でしたかと聞くと
日本ではユーカリが手に入らなくなる、また手に入ったにせよ値段が跳ね上がり、いずれ陶芸はできなくなるだろう、それを考えると好きな陶芸をするために日本を出てブラジルに行くことにしたと、しみじみと語ってくれた。美恵子さんは私と同じ団塊世代で同じ歳、わかる気がした。
-日本を離れブラジルで陶芸をする、陶芸家として生きると決めたのは何でしたかと聞いた
実はポルトガルから来日し陶芸の修行をしていた友人Robertにブラジル行きを話したら、俺も連れってもらいたいと告げられた。知人もいない見知らぬ世界、何が起こるか、また陶芸する街に辿り着けるか、分からないが日本に戻らない覚悟で行くとRobertに話したら、笑いながら、友達もいない日本に来たが美恵子さん夫妻と知り合いになったことで道が拓けた、ブラジルはポルトガル語、私の国の言葉、言葉のことは心配することない俺れに任せろと、、逆に励まされたと。
ポルトガルから来日したRobertと3人で行くことが決まり、揺らいでいた心が勇気と自信に変わったということでしょうか。美恵子さん夫妻はスーツケース2個、Robertは一個に最小限必要なものを入れ、空路でサンパウロへ飛び立つ。
-もう一人の女性陶芸家末永さんとはいつ知り合いになりましたか
そうですね、美恵子さんと知り合いになったのはたしか、1984年。末永さんと知り合いになったのは一年後の1985年だったと記憶しています。私は1977年に東京からサンパウロに移り住みましたが末永さんは一年後の1978年です。末永さんは益子ですでに陶芸家の道を歩んでいましたがダンナがブラジルのCunhaから陶芸修行に益子に来ていたので知り合い、ユーカリの心配がないCunhaに移り住むことにしたと工房のカフェサロンで話してくれました。益子を出る前に結婚をすることは決めていたらしいです。
-美恵子さん夫妻とRobertさんはサンパウロに着いてからどうなりましたか。
ある一世日本人から避暑地で有名なカンポスジョルドンを知らされたので行ってみたが、何しろ交通が不便、すぐ諦めました。ある人がアチバイアで陶芸をしている日本人男性がいると教えてくれたので会いに行くことにした。コロニアでは名が知られた陶芸家でサンパウロの陶芸に詳しい方。彼がCUNHAに日本人はいないが小さい赤レンガ工場があるので、陶芸に使う粘土があるから陶芸が出来るのではとアドバイスされた。
翌日バスで出かけ街を一回りしたが、外から来た人には冷たい土地柄、何しろあのジャポネーズ、何しに来たのかと相手にしてくれない。小さな赤レンガ工場を訪ね、粘土について情報を集めた。どうやら、陶芸はできるらしい、しかし、誰も知らないCUNHAで陶芸をしていけるか、見ず知らずの土地に陶芸で生きていけるか、決断ができなかつた、また所持金は減り少なくなっていた。
サンパウロのホテルに戻り、他を探す余裕がない、その窮地を救ってくれたのが市長、体育館がある、陶芸ができるまで何時までも住んでいいと、何ともうれしい助け舟の一言で、CUNHAに骨を埋める、そう決めたとき日本から出たことが正しいかったと。
約5ヵ月体育館で寝泊まりし、陶芸が出来る登り窯と作業小屋をつくり日本を出てから6か月後に初釜開きが出来たとカフェを飲みながら話してくれた。しかしそこで難題ができた、旦那はここでは陶芸はできないと、日本に戻り美恵子さんは一人残される身になった。看護婦長に今さら戻る気持ちもないし、陶芸を捨てる気持ちにもなれない、さてどうするか。一晩考え辿り着いた結論がCUNHAに踏みとどまり、陶芸で身を立てる、30代半ばの女性が一人で決めた、まさに驚くべきことですね。
登り窯が出来女性助手を一人雇い、作った陶芸品はCUNHAで売れないから、リオ・デ・ジャネイロへ行商をしながら生計を立てた。市長に助けられたが今度は リオ・デ・ジャネイロの商人から “作ったもの全部俺が買うからもつてこい”と励まされ、2度もブラジル人に助けられたと。
-益子からCUNHAに移り住んだ末永さんはどうなりましたか。
いい粘土はどこにあるか、陶芸に混ぜる妙薬の仕入れ先、5段登り窯をつくる作業員など必要なことはダンナが知っていたから、順調に進んだらしい。しかし陶芸に関しては益子で実積がある末永さんがダンナより格段の上、末永さんが工房を軌道に乗せた、そういうことが言える。
-美恵子さん、末永さん、お二人の陶芸、どこが違いますか
そうですね、美恵子さんはどちらかというと美術陶芸で量産はできないから、美術品として高く売る、末永さんは益子で美術陶芸+日常陶芸・暮らしの陶芸、量産の仕方、どうすれば売れるか、体験してきました、それと地元CUNHA出身のダンナがいますから陶芸をする環境は整えられ恵まれていた。美恵子さんはどちらかというと不遇の環境から生まれた美術陶芸、末永さんは益子で得た陶芸のキャリアがありましたからそれをバネにし短期間に軌道に乗せたと言えますが、陶芸で身を立てる、そこには違いはなかったと思います、お二人は団塊の同世代、専門は違いますが生き方から学ぶところがありました。異性ですが良き隣人がもてたと、、。
ーお二人に共通しているのは何ですか
CUNHAのためとか、何々のためは何一つ考えず、好きな陶芸をする、その結果が今のCUNHAということでしょうか。CUNHAに陶芸展示館をつくり、陶芸学校をつくりました。貧困から抜け出し、いい暮らしをして欲しい、そういう願望があると思いますがそれを語らない人柄と思っていますね。
ところでポルトガル人はどうなりましたか。 美恵子さん。末永さんは街のど真ん中に工房を作りましたがRobertは街はずれの部落、10件ほどの家がある山の斜面に工房をつくり、ホソボソの陶芸、言葉は通じるが陶芸に取り組む気迫は美恵子さん、末永さんが先を歩んでいました。子供が生まれたので誕生祝いに子供の洋服をプレゼントしたが気迫は薄れた感じがしました。
Robertの工房はマタドール、ポルトガル語で殺し屋、部落の俗称が殺し屋、それを工房の名前にしたと話していた。Robertに元気がなくなったのはお二人より年齢が一回り上だったこと、またポルトガルに残した奥さんを日本に迎えることができなかったこと、ブラジルで再起を考えていたが年齢には勝てなかった、そういうことでしょうか。
-美恵子さん、末永さんと知り合いになれたのは偶然でしたか
ピネイロスの台湾系中国飯店の常連でした。ある日店主から長女、中学の授業料が一年滞納し、明日まで払わないと学校から出される、CUNHAの土地を貴方のものにしていい、助けてくれと頼まれた。店は繁盛しているのにどうして滞納しているのか、不思議に思いながら土地を見ないで立て替えた。後でわかったがあちこちから金を借り、返さず裁判になっていることが分りました。以後中国人はすぐ信用しないことにしましたね(笑)。

立て替えた次の日曜日に出かけ土地を見に行くとCUNHAから15㎞先の山奥にあるCOMPOS NOVOという僻地。小屋、土地はあるが支払い中の教会分譲地、ダマされたことがわかり苦労した。騙されたが美恵子さん、末永さんと友達になれたことで別壮に改造し、また農場を買い約20年週末休日に利用しました。手放すまでいろいろなトラブルがありましたがそれは省略します。トラブルはありましたが15年別荘のカギをあずけた市の水道工事職人、奥さんバカ正直でしたね。15年、スプーン、ホーク一本もなくなることはありませんでした。毎月管理費を払いましたが。ある日キッチンのテーブルの上にカネを忘れたことがありましたが奥さんが掃除のとき、見つけて返してくれました。自分のあやまちから偶然にお二人の女性陶芸家と知り合うことになりました、いい体験をしたと思っています。美恵子さんは市民名誉賞が授与された後、銀行で働いていたブラジル人を伴侶にし、ようやく人並の暮らしができたと、ある日話してくれた。僻地の農場別荘は脅迫、また農場への不法侵入があいつぎ手放すことにした。手続きを終えた後美恵子さんの工房の近くのレストランで美恵子さんと伴侶にCUNHAラザーニア料理を昼食でもてなしたことがありました。2025年に二人の女性陶芸家がCUNHAで陶芸始めて50年を迎える、市主催の記念行事が行われるとの風の便りがある。コロナ前後にもお二人にお会いしていない、また陶芸家が約50人いたが、どうなつたかわからないので訪ねてみたいと思っている。写真の花瓶は陶芸展示・出版を手伝ったお礼に美恵子さんから頂いたもの。5段登り窯前での末永さん、大きな壺、陶芸品は末永さんの工房に展示されていたもの。美恵さんの写真がなかったので出版された本のなかにあるので転写し別の日に紹介したい。伯学コラムを書き終わる前に気が付いたこと、お二人は陶芸で異国のブラジルを良き友に転化し、ブラジルとともに歩んでこられた、そう思いました。