★★この記事は執筆者の許可を得て、伯学コラムに転載させて頂きました。★★
執筆者:田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)
2024年6月19日
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽等の理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性①
はじめに
周知のように、ブラジル文化の基底は、ポルトガルとインディオとアフリカ的要素から成り立っている。
一翼を担うアフリカ文化が、奴隷を介して与えた影響はその意味で、測り知れないし看過できない。社会史家にして人類学者のGilberto Freyre が力説している通りである。
人種構成面から見ても事実、黒人はおよそ7,5%を占め、黒人の血が色濃い褐色系(pardo)の43,4%を含めれば、いかにブラジル人が混血の民族であり、黒人の血脈を持った人が多いことが理解されよう。
してみると、この国の宗教、言語、音楽、料理(法)など文化全般に亘って、アフリカの影響は思っている以上に刻印されているように考えられる。
であるから、先ずは黒人奴隷のアフリカの民族的出自と、ブラジルでの当初の導入先[居住分布]について、次回以降、概説する。
※写真はÁfrica é Brasil Africano[Marina de Mello e
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽等の理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性 ②
今日、ブラジルの黒人は文化をはじめ、国家のどの面においても重要な役割を演じている。が、奴隷制の残酷きわまりない犠牲となり、非人道的な扱いを受けた。その過程で、彼らの民族的アイデンティティーともいえる言語、宗教、民俗などは、ことごとく圧殺され禁じられていた。そのため多くの物質および精神文化が消滅の危機にも瀕した。そこで彼らが採ったのは、隠れキリシタンや、イベリアのスペインとポルトガルにおいて、宗教裁判(inquisição)からのがれる目的で、セフアルデイ系のユダヤ教徒がカトリック教徒に表層上は転向したかに見せかける「面従腹背」の姿勢か、あるいはシンクレチズモ(sicretismo=習合主義)さながらの窮余策を講じたのである。
ともあれ、過去および現在の、アフリカに淵源を持ちあるいはそこに根差している黒人文化は、ブラジル文化という全体の枠組みの中で、いかに位置づけてきたのであろうか。
ブラジル社会とその文明の基本的性格と傾向を、明確に描き出すパラダイムすら確立されていなかった過去の学問的情況と照らし合わせながら、この国の文化の一翼を担う、出自も異なる多様なアフリカ黒人集団の個々の生活様式、思考様式、慣習など、文化にまつわる事象を識ることは意義があるように思われる。
そのためにはまず第一に、奴隷たちの、基本的にバントウ系、スーダン系、ギニア•スーダン系に分類されるアフリカの出自と、ブラジルに導入された彼らの居住分布[地域]を押さえておく必要がある。
※グラフは、拙著『ブラジル カーニバルの国の文化と文 学』、1990年。
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽等の理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性 ③
[黒人奴隷制のはじまり]
ポルトガル語で「ぼろい商売」のことをnegócio da Costa da Mina[多くの奴隷を送り出したミーナ海岸]あるいはnegócio da China[中国の商売]と言う。
前者の言葉がいみじくも物語っているように、奴隷売買(貿易)はさほど苦労もなく、手っ取り早く途轍もなく儲かる仕事であった。
安価に労働力としてはや1580年頃にはすでに黒人奴隷導入して以来、ほぼ300年に亘ってブラジルの植民地化のベースは、奴隷労働から産み出された農産品の輸出によって成り立っていたといっても過言ではない。
余談ながら、ブラジル理解の礎石的な文献とみなされるCasa Grande $ Senzala の著者ジルベルト•フレイレが、自国の社会を生物学的には人種混合、社会学的には諸文化の相互浸透と合わせて、経済学的には奴隷による生産システムによって形成されている、と観ていることからも合点がゆく。
ところで、ブラジルに商品としての黒人奴隷が搬入される以前の1440年~1580年頃の間は、ガンビア川地域のAlta Guinéと呼ばれていた奴隷たちは、密林を切り開くあるいは金鉱の労力としてアフリカの他の地域で働かせられた。
また、奴隷商人であったことからポルトガル人は、リスボンにおいて召し使いや運搬作業などにも使った。のみならず、大西洋の島々でのサトウキビ栽培に従事させる一方、占拠していたCabo Verdeでも労働力として用いた。片や、銀を産出するスペイン系アメリカにおいても、採鉱面で重要な労働力となったようだ。
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽の理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性 ④
[Angola からのバントウ系の民族のブラジルへの流入]
1560以降、アフリカのいくつかの地域からブラジルへ本格的に奴隷が導入されるようになった。と言うのも、北東部の砂糖産業には不可欠な、インディオに代わる労働力を求めていたからである。
その点、アフリカ沿岸を拠点にして植民地活動を展開していたポルトガル人にとっては奴隷貿易は収益性の高いものとなり、ブラジルへの流入が顕著なものとなった。
1580年から1690年の間、中央西アフリカのアンゴラは奴隷売買の中心地となり、この一帯に居住していたバントウ系の民族が奴隷の身となり、ルアンダ港からポルトガル人によってブラジルに送られた。
自らの領土に侵入するポルトガル人と部族との戦い(guerras angolanas)で、多数の部族が捕虜となったこと。加えて、ブラジルの北東部が砂糖生産の絶頂期に向かいつつあったことなどが、アンゴラからの奴隷拡大の背景にある。
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽の理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性 ⑤
[奴隷を介してのRio de JaneiroとAngola、Salvador とCosta da Minaの間の緊密な結びつき]
1690年から奴隷貿易の終わりを迎える1850年の間、アンゴラの港からもCosta da Minaからもブラジルへ奴隷が提供され続けた。結果として、バントウ系民族を主として受け入れた南東部のRio de JaneiroとAngola、スーダン系民族(sudaneses)を導入した北東部とCosta da Minaとの関係はよりいっそう深まった。
スーダン系民族は広大な西スーダン(Sudão ocidental)出自と一般にはみなされているが、その下位民族集団とも言うべきものは実に多様で、フォン(fons)、マンデインガ(mandingas)、フラーニ(fulanis)、ハウサース(hauçás)以外に、バイーアで強い影響力を持ち存在感のあるヨルバ系の集団からなっている。
バントウ系、スーダン系の黒人奴隷双方ともに、リオおよびサルヴァドールの港から再分配されたようである。
ブラジル北部には、マラニョン州のSão Luís港やパラー州Belém 港を通じて、北部ギネー(Alta Guiné)、とくにBissauとCabo Verdeの奴隷が入って来たことのこと。アンゴラからの奴隷もあったようだ。
奴隷貿易禁止なか、厳しい英国による監視があったにもかかわらず、Zanbésia からも奴隷の提供がなされた。距離やコスト高の問題はあったものの、いかに労働力としての黒人が貴重であったことが理解出切る。
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽の理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性 ⑥
[バントウ系民族集団のアフリカでの 居住分布地域]
ブラジルに導入された黒人奴隷のなかでバントウ系民族は、現在のCongo、Angola、Moçambique を出自としていた。その主たる民族集団の中にはangola、caçanje 、benguelaなどがいる。
このバントウ系民族は16世紀末期から19世紀に至るまで、絶え間なく導入された最大数の奴隷である。しかも、とりわけMinas Gerais州 やGoiás 州も含めて、ほぼブラジル全土の海岸部および内陸部に搬入された。
結果として、この後論じるように、ブラジルの文化だけにとどまらず、ブラジル人の心性などにも大きな影響を与えた。
ブラジルの芸術文化、宗教、音楽等理解に向けて、アフリカから強制離散された黒人奴隷の出自を識ることの重要性 ⑦
[ギニア•スーダン系を含む、スーダン系奴隷のアフリカでの居住(分布)地域]
西アフリカからの奴隷は、現在のナイジェリア、ベニン(Benin=前のDaomé)およびトーゴ(Togo)に居住していた。ヨルバ(ioruba)もしくはナゴー(nagô)族[ケトー(kêto)、イジエシヤー(ijexá)、エグバー(egbá)族等に下位分類される]、ジエジエ(jeje)族[エウエ族(ewe)もしくはフォン族(fon)に下位分類]およびフアンチ•アシヤンチ族に代表される。
スーダン系にはまた、例えば、ハウサー(haussá)族、ターパ族(tapa)、ペウル族(peul)、フーラ族(fula)、マンデインガ族(mandinga)などのイスラム化したものも、上記の民族と合わせてバイーアやペルナンブーコ州のサトウキビ栽培地域に導入された。
この点においてバイーアはとくに、スーダン系の民族が集中して、文化面で他のブラジル地域とは異なる様相を呈するようになったのである。
西アフリカからのスーダン系の奴隷の搬入は主に17世紀の半ばに行なわれ、19世紀の中葉まで続いた。
以 上