執筆者:深沢 正雪 氏
(ブラジル日報編集長)
2024.7.2
★★この記事は執筆者の許可を得て、伯学コラムに掲載致します。★★
実は全国に150基以上もある鳥居大国
現役総理大臣として8年ぶりに岸田文雄氏が来伯する機会に、改めて「日系社会の今」をまとめてみたい。
「ブラジル」といえばサッカー、サンバ、アマゾンとのイメージが強いだろうが、実は鳥居大国でもある。サンパウロ人文科学研究所が2018年に発表した日系団体調査(1)では少なくとも150基以上ある。しかも大半にはお社(やしろ)がなく鳥居だけ。なぜそんなにあるのか―。
日本国外務省は4月、世界の日系人口は500万人で、うちブラジルが過半数で270万人と発表した。戦前戦後合わせた日本人移民数は25万人と言われており、1908年の移住開始から116年で10倍以上に。世代的には6世が20歳を超えて、いつ7世が誕生してもおかしくない。
同調査によれば全伯に地方日系団体は436あり、その総元締めがブラジル日本文化福祉協会(石川レナト会長)だ。うち255団体(58%)がサンパウロ州にあり、サンパウロ市内だけで44(10%)。2番目はパラナ州の77(18%)、3番目はマット・グロッソ・ド・スール州で23(5%)、リオ州19、ミナス州12、バイア州10、サンタカタリーナ州9、パラー州6。
会館を所有する地方団体は90%。所有地の合計は19キロ平米。日本で言えば全791市の744番目に大きな兵庫県芦屋市、18・5キロ平米より広い。
多くの地方文協は日本語学校を経営する。国際交流基金の2018年度調査によれば、全伯に日本語学校は380校ある(2)。こうした日本語学校をまとめる組織としてブラジル日本語センターがある。
これらを代表する組織が「5団体」だ。ブラジル日本文化福祉協会、病院を経営して職員を3600人も持つ最大の日系組織であるサンパウロ日伯援護協会(援協)、世界最大級の日本文化イベント「日本祭り」を実施するブラジル日本都道府県人会連合会(県連)、日伯文化連盟(アリアンサ)、ブラジル日本商工会議だ。
ブラジル日本商工会議所の加盟企業数約350社のうち、日本からの進出企業は200社余りと言われる。参加していない進出企業を含めれば、600社はあるかも。現地の日系人経営の企業はそれ以上に多い。会議所もサンパウロだけではなくマゾナス州都マナウス、パラー州都ベレン、パラナ州都クリチーバ、リオ・デ・グランデ・ド・スール州ポルト・アレグレ、リオ州にもある。
中でも特徴的なのは県連で、世界で唯一47都道府県全部の県人会組織がそろっている。一番規模が大きいのは沖縄県人会で約30支部がある。
各県人会が自慢の郷土芸能や郷土食を持ち寄る形で毎年7月に日本祭りが開催されている。3日間で約20万人の有料入場者があり、今ではアニメや漫画などのJpopカルチャーまで楽しめるイベントとなり、今年は第24回目を迎える。
渋沢栄一、岩崎久弥、武藤山治が夢見たブラジル
移民会社の「ブラジルには金のなる木(コーヒー)がある」という宣伝を信じて「5~10年ブラジルで出稼ぎして大金を貯めたら祖国に錦衣帰郷する」ことを夢見て、戦前だけで19万人が40~50日間の船旅を経てやってきた。「日本人の民族移動」という観点からもかなりの数字だが、日本の地理教科書に記述があるが、なぜか歴史教科書にはない。
1908年6月18日にサントスに上陸した第1回移民船「笠戸丸」は有名だ。実は名曲『石狩挽歌』(作詞=なかにし礼/作曲=浜圭介)の一説には《沖を通るは 笠戸丸 わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る》という歌詞がある。日本においては移民船というよりは、ニシン漁船としての方がもっぱら有名だ。
明治の日本経済界を牽引した「近代日本経済の父」渋沢栄一もブラジル移民事業に関わっていた(3)。渋沢栄一は1913年、桂太郎首相の後援により、自ら創立委員長となって伯剌西爾(ブラジル)拓殖会社を設立。ここが主体となってブラジル最初の永住型植民地のイグアペ植民地計画を進め、最初の場所には首相の名を取って「桂植民地」と名付けた。他にアマゾンに日本人植民地を拓いた南米拓殖株式会社、移民の教育を目的とする海外植民学校などに関わり、それ実現するために尽力した。
三菱財閥3代目総帥の岩崎久弥氏は1927年、ポケットマネーでカンピーナス市に東山農場を創設した。三菱財閥の2代目総帥の岩崎弥之助氏の曾孫・透氏は、昨年6月に同農場で亡くなったばかり。その透氏の呼び寄せで2001年にブラジル移住した大野恵介氏(4)が現地法人社長になって2012年に第1号店を開店したダイソーは大躍進を遂げ、3月時点で148店舗をブラジルで展開している。
「日本の紡績王」と呼ばれた武藤山治氏も南米拓殖株式会社の設立に深くかかわった。その南米拓殖が1929年に設立したトメアスー移住地が戦後、胡椒の病魔に苦しむ中でアマゾン熱帯雨林と共存する農業として森林農法を生み出し、来年パラー州で開催されるCOP30に向けて注目されている。このように明治の政界や経済界にとって、ブラジルは希望の土地だった。
終戦時の宰相を務めた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)と明治天皇の第9皇女である聡子内親王(としこないしんのう)の間に生まれた多羅間俊彦氏(旧名、東久邇俊彦王)も特異な存在だった。1947年に皇籍離脱した4年後の51年にブラジル移住した。移住当時の邦字紙では「昭和の天孫降臨」と呼ばれ、日系社会では「殿下」と親しまれてきたが、2015年に亡くなった。
小説家の谷崎潤一郎氏の実の妹・林伊勢氏も家族と共に1926年にブラジル移住した。その娘の後藤田怜子さんは谷崎の文才を引き継ぎ、吉川英治著『宮本武蔵』のポ語版『MUSASHI』(1999年、Editora Estação Liberdade)の翻訳を手掛けた。上下巻計1800頁の大著にも関わらず10万部という空前のベストセラーとなり、現在も第8刷の3巻セット特別版が販売中だ。
田中龍夫、田中角栄、福田赳夫、麻生太郎、小泉純一郎、安倍晋三ら政治家の足跡
日本の政治家と日系団体とのつながりはあちこちに残っている。例えば県連事務所の看板は麻生太郎副総理が揮毫したものだ。イビラプエラ公園の開拓先没者慰霊碑(5)の揮毫は田中角栄総理だ。
田中義一首相の長男・田中龍夫(たなかたつお)代議士は長らく「日本海外移住家族会連合会」の会長を務め、世界各地に旅立つ日本移民とその家族の支援に尽力した。同家族会連合会の初代事務局長だった藤川辰雄氏が、自分が送り出した移民の実情を知るために視察に来た際、多数が夢半ばに斃れて無縁仏になっていることを知り、彷徨える霊を慰めるために仏門に入り、この開拓先没者慰霊碑建立に尽力した(6)経緯がある。
藤川氏は1986年9月、アマゾン地域で亡くなった日本移民の無縁仏の供養をする巡礼の旅の途中で行方不明となり、入水自殺したとも言われる。岡村淳監督のドキュメンタリー映像作品『アマゾンの読経』(7)に詳しい。
田中龍夫氏の選挙地盤は河村建夫氏が継承し、河村氏は後に中南米日系人支援議員連盟会長に。また麻生太郎氏(日伯国会議員連盟会長)は1975年頃、麻生セメントのブラジル子会社社長として聖市に1年間ほど駐在した経験がある。
文協庭園には、小泉純一郎総理や安倍晋三総理の揮毫による記念碑、群馬県高崎市と姉妹提携する聖州サントアンドレ市には福田赳夫首相の揮毫による「拓魂」碑と福田康夫首相が揮毫した石碑という親子碑が揃う(8)。小泉首相が2004年にヘリコプターで突然訪れたグァタパラ移住地にはそれを記念した碑がある。
TV番組や小説にもブラジル日本移民が多数登場
日本にはない当地独自の集まりとしては、移民船ごとの同船者会(NHKスペシャル『移住10年目の乗船名簿』になったあるぜんちな丸など)、同じ地方から聖市に出てきた人の集まり移住地同窓会(バストスやアリアンサなど)がある。
やはりNHK特集で扱われたユバ農場も特徴ある存在だ。武者小路実篤が白樺派文人を集合して1918年に〃新しき村〃を創設した運動に触発されて、1935年に第1アリアンサに、弓場勇が仲間達と共に作った共同農場だ。「祈り、耕し、芸術する」を目標に現在も約60人が共同生活を送っている。
NHKはブラジル日本移民100周年だった2008年に、「放送80周年記念 橋田壽賀子ドラマ」と銘打って『ハルとナツ 届かなかった手紙』(全5回)を制作して話題を呼んだ。収録の際、岩崎家の東山農場が主なロケ地になった。
文学作品としても、無名時代の石川達三氏は国策会社「海外興業株式会社」が発行する雑誌『植民』編集部で働き、1930年には移民船「らぷらた丸」でブラジルへ渡り、神戸の海外移民収容所の様子に衝撃を受けて、帰国後に中編小説「蒼氓」を発表。1935年に第1回芥川賞を受賞した。
戦後は、作家の北杜夫氏がブラジル日本移民の歴史を描いた長編小説『輝ける碧き空の下で』を新潮社から1982年に第1部、1986年に第2部を刊行。同年日本文学大賞を受賞した。
垣根涼介氏は〝緑の地獄〟に入植したアマゾン移民の無念を、エンタメとして昇華したクライムノベル『ワイルド・ソウル』を2004年に発表し、第6回大藪春彦賞、第25回吉川英治文学新人賞、第57回日本推理作家協会賞の三冠を制した。
最近では葉真中顕(はまなかあき)氏が、終戦直後に日本移民を二分した「勝ち負け抗争」を題材にした小説『灼熱』を発表し、2022年に第7回渡辺淳一文学賞を受賞。さら今現在、水村美苗氏が月刊文芸誌「新潮」で、南米の日本人移民に関連した小説「大使とその妻」を連載中だ。
移住団体、進出企業、病院、福祉団体、農協
移住関連団体で現在も活動しているのは、移民の送り出しを行った「力行会」。「コチア青年連絡協議会」は、日本の全国農業協同組合連合会が農家の二男三男をブラジルに送り出し、コチア産業組合中央会が引き受け団体となって海を渡った2508人のOB会だ。
「南米産業開発青年隊協会」は日本の建設省が作った産業開発青年隊制度によって、農家の二男や三男が建設や土木の専門技術を身に着ける制度で、326人が南米まで派遣された。他に「工業移住者協会」「外務省研修生」「東山研修生」などいろいろある。
「日系病院」として一番規模が大きいのが援協の日伯友好病院。皇室の御下賜金も受けて1939年に落成した最も伝統あるサンタクルス日本病院、アチバイア市のノーヴォ・アチバイア病院、パラナ州クリチーバの杉沢病院、パラー州ベレンのアマゾニア病院などもある。「福祉施設」は援協(あけぼのホーム、さくらホーム、サントス厚生ホーム、イッペランジア・ホーム)、憩の園、子供の園、希望の家、和順会老人ホームも。
日系農協は、南米最大といわれたコチア産業組合や、南ブラジル農業組合などの中央会が90年代につぶれた後に低迷。だが現在も、アマゾンで生産したカカオを明治製菓に納めているトメアスー農協、インテグラーダ農業協同組合、バルゼア・アレグレ農牧協同組合、パウリスタ柿生産者協会など10団体ほどある。
柔道、野球、剣道、ゲートボール、ラジオ体操も
スポーツでは、日本移民が伝えた柔道は、1972年ミュンヘン五輪で戦後移民・石井千秋さん(帰化人)が獲得した初メダルから数えて、計22の五輪メダルをブラジルにもたらした。全150個中の15%を占め、最多メダル獲得種目に育ち、競技人口は50万人を数える。他にも空手、剣道、相撲、野球などの各種団体が健在だ。
ブラジルゲートボール連合会にはブラジル全体に支部が24もあり、そこに所属する地方文協のチームは200もあり、計1万人が愛好している(9)。マレットゴルフではサンパウロ州には30の競技場があり、約1千人の競技者がいる。
ブラジルラジオ体操連盟は2018年に60周年を迎え、サンパウロ州のほかにマット・グロッソ・ド・スール州やミナス州などに計48支部あり、会員は3千人以上と言われる。
ブラジル健康表現体操協会傘下のグループは65もあり、会員数は1100人を数える。
日系のゴルフ場としてはサンパウロ市近郊にPLゴルフ場(10)、アルジャーゴルフ場(11)も。サンパウロ州の地方都市バストス、赤道直下のベレンにもアマゾン・カントリークラブがある。
和太鼓、日本舞踊、茶道、大学OB会、宗教も
渋沢栄一が旗を振って始めたイグアッペ植民地計画の中心地レジストロでは戦後に灯篭流しが始まり、今年70回を迎える伝統行事となった。東洋人街では釈迦生誕祭の花祭りや七夕祭り、大晦日の餅つきはサンパウロ市の風物詩として定着した。モジの秋祭り、ピエダーデの柿祭り、アチバイアの花とイチゴ祭り、アルジャーの花祭りなど地域を代表する日系イベントは軽く100以上が開催されている。
文化活動する団体としてはブラジル熟年クラブ連合会(旧老人クラブ連合会)の傘下には20ほどの支部がある。
和太鼓で最も古いのは、日本の歌手丹下キヨ子の娘・丹下セツコさんが1978年に設立した丹下太鼓道場で、2000年代から急激に増えて「ブラジル太鼓協会」が設立され、主催する「ブラジル太鼓選手権大会」には約40チームが参加。未参加のチームを含めればブラジル全土に60チームぐらいあるだろう。
ブラジル生け花協会には12流派が属している。さらに日本舞踊教室としては藤間流日本舞踊学校、池芝流日本舞踊教室、京藤間流日本舞踊教室、日系クリチーバ龍千多会などもある。
若者向けにはYOSAKOIソーランのチームが10チーム以上ある。
茶道では、伝統的な裏千家を中心に、煎茶道静風流灯楽会(せいふうりゅうとうらくかい)、肥後古流、琉球ぶくぶく茶道など各派ある。
カラオケ愛好者も大変多く、指導者クラスは約50人、サンパウロ市内だけで愛好会が100ぐらいあり、ブラジル全体では200団体以上。聖州大会(パウリストン)だと2日間で500人以上。ブラジル全国大会(ブラジレロン)だと3日間で850人以上が参加する。2日間、3日間、朝8時から夜9時まで出場者が歌いっぱなしというすごい状態になる。
大学OB会ではブラジルソフィア会(上智大学)、(サンパウロ三田会)慶応大学、ブラジル稲門会(早稲田大学)、東京外国語大学、明治大学、日本大学、東京農大、拓殖大学、神奈川大学、三重大学、帯広畜産大学、鹿児島大学、関西学院大学など多数ある。
日系宗教団体もたくさんある。ブラジル仏教連合会には7宗派があり、東本願寺、西本願寺、曹洞宗、本門仏立宗、浄土宗、日蓮宗、日蓮正宗などが活動する。そもそも東本願寺の日本のトップ、第26代門主の大谷暢裕(ちょうゆう)氏は日系ブラジル2世だ。神道系はブラジル生長の家が一番多い信者数を持っており、200万人で大半がブラジル人だ。ブラジル世界救世教、ブラジル創価学会、ブラジルPL教団も大きい。天理教もサンパウロ州バウルー市に本部があり、大きい。金光教なども。ブラジル幸福の科学、倫理研究会、GLAブラジル支部もある。
短歌や俳句会の愛好会、麻雀愛好会、詩吟愛好会、詩吟をうなりながら剣劇をする全伯吟剣詩舞連合会など本当に多種多様な団体がある。
ブラジル文化に内包された日系文化
マット・グロッソ・ド・スール州都カンポ・グランデ市では2006年、沖縄ソバが市無形文化財に指定された。沖縄県系人が多く露天市で相当数働いており、自分たちのまかない食だった沖縄ソバが長い時間をかけて徐々に地元ブラジル人に広まった結果だ。
70年代には日本人しか食べなかった寿司・刺身などの日本食が90年代からブームになり、今ではサンパウロ市内だけで600軒もが日本食を提供しており、ブラジル料理のシュラスカリアの数を超えたとも報道されている。日本にはない日本食として、手巻きずし専門店TEMAKERIAがあちこちにある。
今までの話を全部まとめると日系社会には、地方の文化協会436を中心に日本語学校380、日系企業200社以上、スポーツ団体、多種多様な愛好会など1千以上の日本と関係のある団体や組織がブラジル全国に散らばっている。そして明治時代からの日本財界や政界との深いつながりを持ちながらブラジル社会に影響を与えている。その存在感の大きさを象徴するのが鳥居の数だ。とはいえ、世代を経るごとに日本語話者は減り、かつては「日本の飛び地」状態だったが、現在その関係性は相当失われた。
そんな日系人の存在によって日本と深いつながりを持つブラジルは今年、GDP世界9位に返り咲いた。岸田総理を始め日本の皆さんには、ぜひともそんなグローバルサウスの一角の実情を、自分の目で見て体感してもらいたい。(深)