★★この記事は執筆者の許可を頂き、伯学コラムに転載させて頂きます。★★

2024.10.1
執筆者:深沢 正雪 氏
(ブラジル日報編集長)

 日伯司牧協会(PANIB、坂本エリオ神父)が主催する第26回アパレシーダ巡礼が8月4日に行われた。ブラジルの守護神を祭るアパレシーダ聖母大聖堂で午前10時から行われたミサには、ブラジル全土から約3千人の巡礼者が集まり、日系初の大司教・赤嶺ジュリオ氏(Dom Julio Endi Akamine)ら13人の神父が共同司式し、荘厳な雰囲気の中で日本語の讃美歌が響いた。

聖母婦人会(吉田ローザ会長)はサンパウロ市セントロのサンゴンサーロ教会横にバス2台を用意し、朝5時45分集合で約80人が出発して9時過ぎにはアパレシーダに到着した。サンパウロ州ではアラサツーバ、バストス、カンピーナス、ビリチーバ・ミリン、モジ・ダス・クルーゼス、マリリア、ソロカバ、ガルサ、パラナ州からはアサイー、アラポンガス、ロンドリーナ、マリンガ―、コルネリオ・プロコピオ、ミナス州からはベロ・オリゾンテ、トゥルボランジア、リオ州からはボルタ・レドンダ、バーラ・ド・ピライ、バーラ・マンサなど30カ所近くからの巡礼バスが到着していた。

アパレシーダ聖母大聖堂の全景(ROBISON CAMARGO, via Wikimedia Commons)

前日から下準備のために25人で現地入りして忙しそうに動き回っていた先発隊の山田孝治さん(こうじ、72歳、広島出身)をつかまえて、「いつから巡礼に参加しているのか」と尋ねたら「約60年前に初めて参加して、それから2年ごとに毎回参加しています」というので驚いた。巡礼は2年に一度で、同司牧協会主催になったのが52年前だ。だがそれ以前から巡礼自体はあり、山田さんはその時代から参加していた訳だ。
「最初の頃は古い方の教会でした。しかも今みたいにバスとかなくて、トラックの荷台に乗せられてブラジル全土から集まっていたんですよ。あの当時は6千人ぐらい集まっていました」というので、さらに腰を抜かしそうになった。古い方の教会はいわゆる普通の建物なので、3~400人も入ったら満杯になるだろう。
「教会に入りきれない人はどうするんですか?」と尋ねると、「教会の外でミサに参加します。声だけ聴いて」とのこと。それでも信仰心が篤い人が多かった当時は集まった。現在3千人といっても日系人はおそらく数百人で、残りは地域のブラジル人信者が巡礼バスに同乗して来るケースも多いようだ。でも60年前には大半が日系人だったようだ。
サンパウロ市から北東に170キロ、車で2~3時間だ。現在の聖母大聖堂は1980年に建設され、バチカン大聖堂に次いで世界で2番目に巨大な教会堂建築だ。全体の建築面積は14万3千平米を超え、収容人数は3万人以上。旧聖堂の方は、1700年代前半に建てられた礼拝堂を1834年に建て替えた。いわゆる普通の地方教会と変わらないサイズだ。

各地から日系信徒が参集

「世界のみんな兄弟さ♪ 話す言葉が違っても、主に向かう心は、みんな同じ子どもだから」――大聖堂の中に日本語コーラスが響き、無数の日伯旗が振られた。緑色の祭服に身を包んだ神父らが、巨大な十字架を地面に置いた形にレイアウトされた大聖堂の中央部の舞台に立ち、赤嶺大司教が司式した。
今年の巡礼テーマは「マリア、平和の仲介者、平和の元后」で、要所要所に日本語を織り交ぜながら進行され、最後には着物姿の若い女性2人がアパレシーダの聖像をもって順々に4方に掲げ、赤嶺大司教がお祈りの言葉を捧げた。
中央舞台には、日本初の海外派遣布教使としてブラジル日本移民にカトリック布教した中村ドミンゴス長八神父(1865―1940年没)の写真も掲げられた。「尊者」登録運動中でバチカン認定されれば日本移民初だ。これは「聖人」「福者」に次ぐ位階。
中村神父は隠れキリシタンで有名な長崎県五島出身。1923年、教皇庁布教省から依頼をうけて58歳でブラジルに派遣され、サンパウロ州ノロエステ線のプロミッソンなど各地の日系移住地で伝道活動をおこない、最後はソロカバナ線のアルヴァレス・マッシャード市(以後マッシャードと略)を拠点に活動に専念した。
移民初期の20年間だけで長崎教区に属するカトリック信者約170家族(約800人)が移住し、多くは隠れキリシタンの末裔だった。カトリック大国にいけば自由に信仰が出来ると大挙してやってきたが、言葉の問題があり、ポ語ミサが理解出来なかった。そこで、日本から神父を派遣してもらう要請がバチカンに送られ、中村神父がやってきた経緯がある。
当時は交通手段が発達しておらず、重たいミサ用具を詰めた旅行カバン二つをもって馬と徒歩で移動しながら、遠く麻州まで布教して歩いた。中村神父は78市で1750人に洗礼を施した。同神父はブラジル人信徒からも深く敬慕され、それまでは異教徒として蔑視されることが多かった日本移民への見方を変えた人物といわれる。
アラサツーバ在住の大塚みずえさん(82歳、2世)にミサの感想を聞くと、「10回以上参加していますがコロナ後では初めて。今日は合唱隊に入って気持ちよく讃美歌を謳わせてもらいました」とすがすがしい表情を浮かべた。
プレジデンテ・プルデンテから参加した斉藤ルイスさん(75歳、2世)に聞くと、1986年に初参加して以来、PANIBがない年も1~2回巡礼している。中でも8年前からは毎年、聖母大聖堂から360キロも離れたアグア・ダ・プラッタから15日間かけて仲間と共に徒歩巡礼も行う。そんなに何度も巡礼する意義を尋ねると、「ここへ来るたびに信仰が強まる感じがする」と顔を輝かせた。
ミサのあとマッシャードでモンセニョール中村史料館(Museu Padre Monsenhor Nakamura、 R. Vicente Dias Garcia – Álvares Machado, SP, 19160-000)を運営する平田フランシスコさんに今回の感想を聞くと、「日伯旗がたくさん振られていて、今日もとてもきれいだった。コーラスの響きも良かったね。ブラジル人から受け入れられていると実感できる」とほほ笑んだ。平田さんは「神父の業績を思い起こすために、来年3月第2日曜日に中村神父セミナーを開催し、赤嶺ジュリオ大司教も出席される予定なので、ぜひ皆さんもご来場を」と呼びかけた。

 

赤嶺大司教「嘆かわしい歴史を繰り返さぬよう」

赤嶺大司教

正午から地下サロンで赤嶺大司教の言葉を聞く集会が開かれ、その場で同日から2年間のPANIB新執行部が発表された。赤嶺大司教は、「日本移民は農業、テクノロジー、教育、勤勉さなどをブラジルに広めた。ブラジルと日本の文化は大変かけ離れているにも関わらず、お互いに敬意をもって受け入れて学びあい、それぞれが豊かになった。世界が移民問題や人種差別、思想的分断による混迷状態にある中、ブラジルにおいて日本移民が見事に統合した姿は、世界に誇れるモデルケースである」と強く訴えた。
赤嶺大司教は1962年11月にサンパウロ州ガルサ市で沖縄県系3世として生まれた。沖縄文化について尋ねると「若いころに沖縄文化を学ぼうと試みたことはあったが、あまり成功しなかった」と苦笑いしつつも「でも豚肉料理は大好き」と笑顔を浮かべた。
1972年にパラナ州のライーニャ・ダ・パス神学校で学んで最初の叙階(聖職者への任命)を受け、サンパウロ州で助祭職、パラナ州カンベ市で司祭を務めた。その後、95年にローマのグレゴリアン大学で神学の修士号、05年に同大で組織神学の博士号を取得。聖パウロ・アポストロ教会管区(パロチーノ会派)の管区長を務めた。
11年、サンパウロ市大司教区が統括するラパ教会の補佐司教に日系人で初めて任命され、16年にサンパウロ州ソロカバ市の大司教に任命された。「昨年、大司教として初めてバチカン会議に招集された」とも述べた。
赤嶺大司教に、第2次大戦に関わる連邦政府からの日本移民迫害への謝罪に関してのコメントを尋ねると、「まさに嘆かわしい歴史だと思う。我々はその事実から学ばないといけない。ただ単に嘆いたり、プロテストしたり、反抗していていても始まらない。我々は歴史から学んで、それを繰り返さないようにしなければならない。このような残念で困難な出来事に直面したにも関わらず、日本移民はブラジルのために大きな貢献をした。二つの文化は大きな差異を持つがゆえに、歴史のある時期ではぶつかり合うこともあったが、それを乗り越えたことは重要だ」と強調した。
さらに、大戦中は日本人団体の活動ができなかったにも関わらず、敵性国人として警察に収監された邦人指導者らに、ドナ・マルガリーダ渡辺らサンパウロ市カトリック日本人救済会が差し入れをする活動ができたのは、ドン・ジョゼ・ガスパール大司教が庇護してくれたからだった。詳細は本紙3月19日付記者コラム《憩の園に生涯捧げた吉安園子さん=大戦中に邦人保護した救済会》(https://www.brasilnippou.com/2024/240319-column.html)。
そのようなバルガス独裁政権に日本移民が最大の困難に直面した大戦中において、カトリック教会やドナ・マルガリーダが果たした役割について質問すると、「カトリック信仰は日本移民がブラジル社会に統合される際の重要な触媒の役割を果たした。そのような役割は日本移民だけではなく、ドイツ移民、イタリア移民、(イスラム教徒が多い)シリア・レバノン移民らアラブ系などがブラジル社会に統合される際にも同様の役割を果たした」と述べた。

戦後に重要な役割果たしてきた日系カトリック界

思えば、1958年に三笠宮ご夫妻をお迎えてして盛大に行われた日本移民50周年記念ミサは、サンパウロ市セントロのセー大聖堂で開催された。勝ち負け抗争などで分断した日系社会の統合を図るため、サンパウロ日本文化協会(現在のブラジル日本文化福祉協会)が創立され、時間をかけて徐々に思想的裂け目が埋められていった時期だ。
当時発刊された機関紙『暁(あけ)の星』を紐解くと、ドナ・マルガリーダ渡辺はもちろん、料理学校経営で知られる佐藤初枝、移民初期に水稲栽培など多角農業経営で成功した鐘ヶ江久之助(きゅうのすけ)、最初の日系連邦議員・田村幸重、二人目の連邦議員・平田進、サンパウロ市配給局長にもなった須貝アメリコらの名前がズラリと並ぶ。1950~60年代の日系社会統合期に活躍した蒼々たるメンバーの多くがカトリックであったことを改めて知らされる。

『緑の地平 日系カトリック教会の七十年』に掲載された曽根綾子のコラムの一部

カトリック信徒で作家の曽野綾子は1960年、国際ペン大会の折にリオを訪問した関係で「日本と対照的なブラジル」との一文を『緑の地平 日系カトリック教会の七十年』(1978年)に寄稿した。彼女は2000年、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリが日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れたことでも南米と縁がある。
いわく《日本そのものが、このような繁栄を遂げてきた外側には、世界各国に散らばった日本人への評価と信頼が大きく響いていることは本当だし、またもし海外移民のその国における地位が上がって来たとすれば、それはその方々の努力と同時に、日本という国家の世界的評価が口をきいているのでもある。海外の日本人と、日本に住む日本人とは、いわば車輪の両輪のようなものであって、そのどちらが良くなくなっても快い前進は望めなくなる。
しかし私個人について言えば、私が日本人というもののこせこせした特異性を最初に学んだのは、ブラジルであり、根底から考えさせられたのはインドであり、最後の磨きをかけてくれたのはアラブ諸国であった。その意味で、私は深い恩義を感じている》と締めくくっている。
終戦直後に思想分裂してテロ事件まで起きた日系社会は、どこか今の世界の政治状況にも似ている。赤嶺大司教が言うように、それを統合してブラジル社会建設に貢献した経験を持つ日系社会は、ある意味、今こそ世界のモデルケースとして注目されてもいいのではないか。(一部敬称略、深)