★★★この記事は著者の許可を得て伯学コラムに転載させて頂きます。元々田所先生の6回に亘る労作シリーズです。今回、6回分を纏めて転載致しますので長文となりますが、ブラジル芸術の史的通観をお楽しみください★★★

執筆者:田所清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)
2025年2月21日

ブラジルの芸術 A Arte Brasileira

ブラジル芸術の史的通観 1Visão geral da arte brasileira através da

história 1

 

Pedro Álvares Cabral 率いるポルトガル艦隊は1500年、椰子樹の茂るブラジルを発見した。人が居住するには困難に思われた、いわばアネクメーネのこの広大な手付かずの密林はしかしながら、30年もの間放擲されたままであった。

というのも、当時のポルトガルは香料で莫大な富を得られる東洋に目を向け、発見されたばかりの新世界にはあまり関心を払わなかったからである。

後の国名となるpau brasil、それは北東部の沿岸部を中心に植生し、赤く染料するのには貴重な存在であった。それ故に、西洋の列強にとっては垂涎の的となり、略奪の対象となったばかりか、発見された大地は絶えず侵略に晒された。

この時期、ヨーロッパ各国は、すでに実効支配されていた地域を除いて、アメリカ大陸におけるイベリアの統治権を認めてはいなかった。このこともあつて、ブラジル沿岸では占領を目的としたフランス、イギリスなどの艦船が徘徊•急増していたために、ポルトガルの国王ドン•ジョアンは大きな試練に立たされていたのである。つまり彼は、国を挙げて植民地開拓に乗り出すか、はたまた発見の大地をみすみす喪うという、国家存亡の選択を強いられていた。

ポルトガルはその事態を案じてとりあえず、王室の派遣隊を送っては沿岸警備に当たらせることになった。そして結局、ポルトガルはブラジル開拓の道を択んだ。1532年に派遣された開拓軍団は、カピタニア(capitania)と称する制度の下に、大地を帯状に東西分割することを進めた。この分割によって、ポルトガルの入植者、なかんずく貴族立ちが、永代にわたって土地を世襲できる恩恵に浴した。

1534年に始まったその世襲制のカピタニア(Capitania hereditária)は、沿岸地帯の植民を促すうえで成功を収めた。その後1549年には、植民地を統治する総督(governador)が任命されることで、植民地体制そのものも補強された。しかも、バイーアに首都が設置されもした。

ブラジルの芸術 Arte Brasileira

芸術全般の史的通観 2

 

以降、旧世界、とくにポルトガルからの入植者が来伯し始めた。入植者は多様で、聖職者、兵士、傭兵、探検家、貴族の子弟、黒人奴隷、婚礼可能な年齢の孤児、それに熟練した鍛治工としてアフリカのベニンから連れてこられた者もいた。そればかりではなかつた。

犯罪者、国外追放者、宗教裁判所(inquisição)によって流刑を命じられた者のみならず、宗教裁判を逃れて避難地としてブラジルを選んだユダヤ教徒や新キリスト教徒(cristão novo)もいた。

これらの出自も国籍も職業も異なる多様な入植者が、結果的には自らの芸術、文化を植民地ブラジルに移植することとなった。そして、現地のものと適応しながら、ブラジルのプロトタイプにさえなった。

その一方で、ブラジル発見以前にはや、瞠目すべき先住民インディオたちの文化、芸術が華いていたことも、忘れてはならない。

さも迷宮さながらの幾何学模様のマラジヨ島の陶器、動物模様で装飾されたサンタレーン地域やトロンペタス川周辺の瓶や骨壺(ibaçaba)はその一例。

インディオたちの身体装飾[ボディペインティング]にも目を引かれる。ことにカドウヴエウ族(caduveus)の、顔面を幾何学的なデザインを施し、紋章のようにかたどったものは、芸術性が高い。

ブラジルの芸術 Arte Brasileira

芸術全般の史的通観 3

 

数世紀の間、先住民の文化や芸術は理解されることもなく、興味の対象にすらなかった。19世紀になって、とくにフランスの百科全書派を通じてブラジル社会を反映する指標となった。

雄大な自然と共に、先住民のヒーローなどを歌い上げた、インディオを主題としたインディアニズム(Indianismo)は、『エミール』や『社会契約論』の著書のあるルソーの、”善良なる野蛮人”の神話の影響を受けた。

こうしていくつかのインディアニスタ詩や小説が生まれたが、真の土着の文化が称賛され、その意味が熟考されるようになるまでには、近代主義(Modernismo)の到来を待たねばならなかった。

つまり、Oswaldo de Andradeが「人喰い宣言」(Manifesto Antropofágo)、Mario de Andrade の手になる先住民についての小説である『マクナイーマ』(Macunaíma)が出版されたことによって初めて、土着文化が正当に評価、理解されるようになったといっても過言ではない。

植民期当初の白人入植たちは、彼らがみなす原始的で未開のインディオたちには文化や芸術などなく、魂を持っていることにも疑問を感じていた。

布教伝来の目的で来伯したイエズス会士の神父たちは、原住民といえども魂を持っていると説いた一方で、文化についてはキリスト教が伝来して初めて醸成されたという見解を示していた。

従って、彼らには一から教えなければならず、宣教師が逆に学んだものは、ヨーロッパ的なものに同化された。José de Anchieta のごとき歴史上に名を残した聖職者は先住民の文法をポルトガル語に訳したが、これとても彼らをキリスト教に改宗しやすくするためのものであった。

 

ブラジルの芸術 Arte Brasileira

ブラジル芸術全般の史的通観 4 (軍事建築と宗教の影響)

 

16および17世紀に渡来したポルトガル人入植者の一大関心の一つは、先住民インディオを如何に誘掖指導するかにあった。加えて、自分たちの伝来の遺産を忘れず、継承することも大きな役割のように考えられていた。

地方地主のなかにはキリスト教に改宗したもののみならず、半ば強制的にユダヤ教からキリスト教徒になった者もおり、彼らの大半は隠れキリシタンさながらに、密かにユダヤ教の信仰を実践していた。

であるから、宗教が絡むと、ポルトガル人入植者の関心はより現実的なものになった。このこともあってか、ポルトガル当局は、海賊ばかりか、フランスを脱してブラジルの沿岸をさまよった挙げ句、リオ、後にサン•ルイースを占拠•支配したユグノーから入植地を防衛するために忙殺され、教会は教会で、伝統的なイベリアの文化と芸術の保全、継承に当たるのを強いられた。

ところで、ブラジルで最初に出現した芸術作品といえば、二つのタイプの建造物と宗教的建造物かもしれない。

首都がバイーアに置かれたことで、まず最初の半永久的建築物として総督府から建立される。合わせて、Salvador の街を石の防護壁で囲むように、当時の総督は石工職人であるLuís Diasに指示している。

Diasは街の両端に二つの要塞をもつ城砦を築き、一つには拘置所、もう一つには市庁舎が1551年には置かれた。

Francisco Frias de Mesquitaは、軍用施設の建設に寄与した。Cidade Altaの高台から一望できる、丸い円形状のSão Marcelo要塞(1608)や、ペルナンブーコのLage要塞(1603)などは彼の手による。

先のDiasはNatalのReis Magos(1614)およびMaranhão のSanta Maria(1612)の要塞も築き、その結果フランスが北部の入植地に侵入するのを防いでいる。

 

ブラジルの芸術 Arte Brasileira

ブラジル芸術全般の史的通観 5 

 

植民期当初、非軍事的な施設の建設にはキリスト教団の承認が必要で、しかも建設に当たっては、所属する教団の厳格な基準に叶うものでなければならなかった。

宗教建造物は、絵画や彫刻、音楽がそうであるように、ポルトガル様式によるものであった。それ故に、例えば教会の石一つとっても、長年に亘り旧宗主国から調達され、地元のブラジル人の建築家の手によって建立された。

輸入されていた芸術品も次第に現地モデルにとって変わり、イエズス会、ベネディクト修道会や、小規模にはフランシスコ修道会方式でなされた。

1649年にブラジルに到来したイエズス会の場合、教会のみならず、教化のための布教村、神学校、はたまた陶芸などの芸術学校を植民地全土に建立、設立、そのネットワークは北はアマゾンから南はRio Grande do Sul にまで及んだ。

その中で主要な教会建築の類いは、Francisco Diasによって初めてなされ、SantosやOlinda、Rioには彼の作った寺院や学校が見られる。またバイーアに建てた教会は現在では大聖堂になっている。

初期の頃からイエズス会の手になる建築物は、その絢爛豪華なことが特徴で、Manoel de Nóbrega神父 [1517-1570]の口述書によれば、教団がポルトガルで所有していたどの建造物よりも、長大でベターであったとのこと。

景観面の効果とそれぞれの宗教的な建造物を記念物にすべく、サルヴアドールの大司教は、二つの建築基準を定めている。その基準とはすなわち、一つは高い場所に建てること。もう一つは、全ての教区民だけでなく周辺の市街からも隠れるほどの大きさであること。

実際に、例えばSão Luisには1665年、Carmo、Mercês、Antoninhosという三つの一際目立つ修道院が作られた。加えて、リスボンにあるMother of God の系統を引く、よりスケールの大きい学校も現れた。

ブラジルの芸術 Arte Brasileira

ブラジル芸術全般の史的通観 6 

 

教会の権力と栄光を喧伝する明らかな目的のためではあったが、他にも別の要因として、泥で作られた家からなる質素な村落にも、異彩を放つ教会が建てられた。

中世のヨーロッパでは、村や都会から全ての礼拝者が集うところが教会であった。村落の住民の暮らしは貧しく、その一方で富は一握りの領主に集中していた。

砂糖園主、大牧場主などは、教会の建築とその内装に金をつぎこんだ。

イエズス会によると、芸術は信仰のために用いなければならず、教会で礼拝する者に向けて利用すべきものであったようだ。

金、銀、巻き軸、紋織物、彫刻などが寺院の装飾のために使われ、じゆん教した聖職者の思いを表現し、聖母マリアの慈悲を強調、地上における神の栄光を眩いばかりに表した。そして、演劇的で修辞的な芸術のコンセプトの下、イエズス会は、壮麗な外見の反宗教改革から生まれた芸術にあって特に優れたバロック様式を採り入れたのである。

かくして、建築家、彫刻師、彫物師および入植地の芸術家集団は、母国以外にインドで行ったのと同様に、芸術活動を展開することとなった。

イエズス会の活動は特筆するに価する。例えば、1560年にブラジルに訪れた画家のManuel Álvares、晩年の30年間、ペルナンブーコ、リオ、サンパウロ、サントスの地において巡回修道士として絵画を制作したBelchior de Paulo[São Paulo では市の創設者とみなされているJosé de Anchieta 神父の肖像画を作成している]、フランス人でありながらBelém de Cachoeira教会の天井画を描いたChalés de Belle-

ville。さらには、パラー州のベレンにあるSaint Francis Xavier 教会の天井画を描いたオランダ人画家Balthazar de Campos、チロル出身で彫刻家のJoão Xavier Traerも同じSaint Francis Xavier 教会の

演壇を、フランス人のJoão de Almeidaの場合はベレンにある多くの祭壇をデザインしている。

 

ブラジルの芸術 Arte Brasileira

ブラジル芸術全般の史的通観 7 

 

教義を伝える活動の傍らイエズス会は、もう一つの形態である演劇も発展させた。サンパウロの創立者のJosé de Anchieta は、多くの演劇の作者であったようであるが、現在では戯曲のほとんどは残っていないそうだ。しかしながら彼は、紛れもなく主たる劇作家であり、イベリアモデルをブラジルのニーズに合わせて採り入れ、それもポルトガル語、スペイン語およびグワラニ語の三ヶ国語で作品を書いたとのこと。

他の教団の中でも、主として絵画と彫刻の分野で寄与したのはベネディクト派であった。17世紀の二人のその派の傑出した彫刻家、すなわちAgostinho da Piedadeは、学究肌の人であったようで30あまりの作品を残している。

リオ生まれのAgostinho の弟子であるAgostinho de Jesus は、現在知られているところでは、ブラジルが生んだ最初の芸術家と考えられている。

ドイツ人の修道画家であるRicardo Pilarも、「受難の主」なるパネル画で言及するに価する。リオのサン•ベネデイクト修道院には、この派の作品が多く収められているが、上記名品も然り。

修道師でありながら画家であり彫物師でもあった

Domingo da Conceição は、門や聖歌隊席、会衆席を制作する一方、祭壇のパネルに彫刻を施している。オリンダで彼は、現地のサン•ベネディクト修道院のために、「死した主」、「磔にされた主」も制作しているのである。

ブラジルに初めに到来した教団の一つであったもののFrancisco の場合は、他の教団のようにはさほど文化的な影響を与えなかった。

これらの教団の一つに1585年に建てられた「われらの雪の聖母」[=Convento de São Francisco]がオリンダにはあるが、この後ほぼ1世紀に亘って建立された修道院は、わずかに7つのみである。