会報『ブラジル特報』 2013年11月号掲載
木村 快(NPO現代座主宰) 日系ブラジル人 わたしのために九家族が集まって歓迎のパーティを開いてくれたが、母の従兄弟たちは幼少期に移住したのと、戦後はほとんど日系社会との接触がないので日本語は不得意だという。その息子たちや配偶者、子どもたちの中にはスペイン系の血を引く者もいた。ああ、ブラジル人になるということはこういうことかと納得した覚えがある。当時は日本人移住地を訪ねても、すでに二世で日本語を話す人とはめったに会えなかった。 ところがアリアンサを訪ねてみると、ユバ農場では二世も三世もごく日常的に日本語を使っていた。ユバは特殊な農場だとは聞いていたが、それにしてもなぜここだけ日本語環境が残っているのか。サンパウロ市で話を聞く限り、ユバのような特殊な農場があるのは弓場勇というカリスマ的リーダーがいたからで、弓場勇は二年前に亡くなったから、遠からず農場は消滅するであろうというのが一致した意見だった。
17年後、わたしはふたたびアリアンサを訪ねることになった。かつて訪ねた日本人移住地はブラジル人の街に変わりつつあったが、アリアンサは相変わらず日本的な村として存在しており、村の文化センター的役割を担うユバ農場には、日本では姿を消してしまった懐かしい日本が生きていた。あらためて日本文化を残す力とは何だろうと考えはじめた。 日本移民はもともと農業移民として移住したため、戦前は90%が農業者だったが、1988年の日系人調査では10%少々に減っていたという。その代わり、日系は断然高学歴高所得者が多い。その反面、日本語を中心とする日本文化は姿を消して行くことになる。 戦前移住者の話を聞いて歩くと、もともと永住を目的にブラジルへ来たわけではなく、永住するしかないと考えるようになったのは日本が戦争に負けてからだという人が多い。そうなると、子どもたちはブラジル人として高等教育を受けさせ、豊かで安定した生活をさせようということになる。子どもたちが街でホワイト・カラーとして生活するようになると、親は農業の跡取りがいないので、農場を売ってサンパウロ市へ移り、移住地というコミュニティは衰退して行く。よくドイツ系と比較されるが、日本人はコミュニティへの執着が薄いといわれる。 生活文化というものはコミュニティに属していてこそ継承されるものであり、コミュニティを離れた生活を送れば都会文化の中に埋没していくのは当然である。
多文化共生とは多数派少数派にかかわらず、ポルトガル系もドイツ系もインディオも、それぞれの民族文化を継承し、相互に影響し合いながらブラジル文化として統合して行こうということである。冷戦終結以後、混迷を深めつつある世界に対して、ブラジルが多文化共生を掲げることは、強い者に統合される時代を乗り越え、新しい共生の時代を切り開くのだという意志の表明を感じさせる。 そこで日系が継承すべき日本文化とは何かという問いが浮かび上がってくる。
わたしの知るかぎり、日系社会ではアリアンサ・ユバはきわめて理解しがたい存在であった。農民バレエ団として知られる珍しい集団だが、生産活動とは無縁なバレエや演劇に夢中で、いまだに日本語にこだわる姿が理解できなかったのだろう。 では、なぜブラジル社会はユバを評価するのか。そこには日本人が考える日本文化と、多文化社会が求める日本文化との間に大きなギャップがあることを示している。 弓場 勇をリーダーとするユバ農場は、人間が組織に依存する農業を否定し、人間同士が助け合う農業を目指した。この点が前近代的と見なされた理由であったが、アリアンサはもともと移住者の自治を基礎として開設された移住地であったから当然の選択であった。 ユバ農場は ①自然への祈り、②土から離れぬこと、③芸能による心の一体化、この三点さえ守れば、どのように働き、どのように生活するかは個人の自由としている。それが日本人の協同を生かす道だと考えたからである。 近代の日本社会が失った芸能についても、バレエや演劇を趣味としてではなく、人間を豊かにし、コミュニティの協同を持続させる大切な芸能として尊重した。この日本文化の特性を生かした芸術性がブラジル社会との接点となり、共感を広げていった。 協同のかなめはコトバである。コトバはユバ方言とも言うべき、共同生活の中で培われた生活語を重視した。子どもたちの人格育成も生活語によって培う道をとった。 多文化共生という視点から見ると、ヨーロッパ系の合理主義的な協同とはちがって、ユバの協同はそれぞれが自由に働き、誰に対しても心を開く自然体である。ブラジル社会はこの西欧的合理主義とは異質な、それでいて魅力的な農民の芸術性を、多文化共生の一角にある日本独特の文化と見たようである。
ところが個人を基礎とした西欧系の社会に単独で移住すると、風俗習慣も違い、個人としては対応できず、小集団に閉じこもりがちになり、アメリカでもブラジルでも同化しにくい民族と見られてきた。多文化社会ではこうした文化的弱点をどう克服するかが課題となる。だが、日本政府の移住政策は日本人特有の文化的特性には無頓着で、ただ移民を送り込むだけで、その後の成り行きは移民たちの自己責任とされた。帰国できない移民たちは厳しい生活を送らざるを得なかった。 20世紀初頭、アメリカで排日差別を受けた体験者永田 稠(しげし)や輪湖俊午郎らは、移民の生活を改善するため、ブラジル社会との共生を旗印に掲げ、サンパウロ州の奥地に協同組合方式のアリアンサ(和親・協同)移住地を建設した。その建設の主力は大正デモクラシーの影響下で育った日本力行会海外学校出身の力行青年たちであった。 アリアンサの建設はアリアンサ運動と呼ばれ、ブラジルに協同の夢を求める運動であった。永田は青年たちに「世界市民たれ!」と呼びかけ、経済的苦境に直面したときは「コーヒーより人を作れ!」と激励した。 アリアンサは移民社会では少数派であり、1927年から34年にかけては日本政府の干渉によって苦難の道を歩むことになるが、力行青年たちは弓場協同農場を結成してアリアンサを守る先頭に立った。弓場勇はそのリーダーであった。そこから「アリアンサあってこその弓場農場」とするユバイズムが蓄積され、継承されて行くことになる。その根底には顔の見えるコミュニティを文化の基盤とする、伝統的な日本文化が息づいていた。 21世紀が多文化共生の時代であるとしたら、わたしたちは自ら捨て去った「顔の見える文化」をもう一度見直し、異文化と共生する新しい道筋を探る必要があるように思う。日系同胞はわたしたちにとっては異文化接触の先駆者であり、その試行錯誤の歴史は母国日本に新しい道筋を示すだろう。 |
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編集部注:筆者には本テーマに関連した『共生の大地 アリアンサ |