会報『ブラジル特報』 2014年1月号掲載
社会・文化

     中田 みちよ(『ブラジル日系文学』 編集長)


 2013年10月初旬に出版された『ブラジル文学翻訳選集』の発行元は、ブラジル日系文学会。1965年に創刊した「コロニア文学会」がその母体となっている団体で、文学愛好者60名の創立会員をもって始まったものです。会長には当時日本文化研究所の所長だった鈴木悌一が推されています。第5号発行時には会員が450人、まもなく会員は800人を数える大所帯となり、それを当時の朝日新聞の文芸時評はこう伝えています。
【……日本国内の一流同人と引けをとらない。内容も相当に豊富で、水準も全体に粒が揃っており、かなり高い。……距離の遠さを頭においてページをめくると、やはり在伯邦人の層の厚さを感じて驚かざるを得ない。その裏には長い移民の歴史があることを思うと、感慨も沸く。つまり、こんなにこなれた日本語の通用している日本人社会というものに、ふと、あっけにとられる……】
 言葉はそれほどたやすく習得できないことを身をもって知っている私は、なぜ、あっけにとられたのか、そちらのほうが気になりましたが……。次の文がそれを代弁してくれました。
【この驚きには、たかが移民の日本語であるから期待するものはあるまい、という前提意識があり、その意識が砕かれた驚きであろう】
と日系文学の先達 安良田 済(『ブラジル日系コロニア文芸 下巻』2008年 人文研究叢書 第7号)が述べているのです。多くが出稼ぎ移民であり、母国での生活は質素で、相対的にまた素養も低く、文学を趣味とするものは少なかったことを思えば、この観察もまた当然であるとつづけています。しかし、一方では、
【生業以外にもっとも広くつながりを持ちながら絶えることなく行われてきたのは、文学とスポーツであった】(『日本移民80年の歩み』91頁)
といわれるほどに、根強く生きてきたのも事実です。

 『ブラジル文学飜訳選集 第一巻』と『ブラジル日系文学』誌


一世の高齢化で会員減少
時は過ぎてゆき、一世会員の高齢化とともに文学熱も下火になり, 現在会員は250名ほどです。1984年からは「武本文学賞」が設置されて低迷する志気を鼓舞することになり、さらにその文学賞のなかに翻訳部門が加えられたのが1996年。受賞作が出た年も出ない年もありましたが、すでに15年余が経過しています。言葉の壁があつかった移民一世には、ブラジル文学はなじみが薄く、同時にまた優れた翻訳作品に恵まれないこともあって、敬遠されてきました。しかし、その根底には「ブラジルに住むからにはブラジルの文学作品の一つや二つは読んでみたい」いう願望もまた執拗にありました。
 ブラジル文学の邦訳に関しては、1921年に聖州時報(『半田知雄その生涯』 112頁)がプリアト・コレア作「南十字星」を掲載したのが緒で、笠戸丸から12~3年後のことです。訳者は杉山帆影。杉山は翌22年にもベルナルド・ギマランエス作の「奴隷の娘」も手がけています。この後、散発的に幾人かが翻訳作品を誌上に発表していますが、単行本になって上梓されたのは1939年のアンドウ・ゼンパチの「肉欲(ジュリオ・リベイロ作)」が初です。1935年にバウルーからサンパウロ市に進出してきた聖州新報の文芸欄に掲載されたもので、後に単行本として遠藤書店が上梓しました。

悔やまれる時系列無視の編集

さて、この翻訳選集について述べると、選集には一応、一流とみなされる作家の34編の短編が収録されています。また訳者は日本在住で、すでに何冊も翻訳本を上梓している会員の小高利根子を除けば全員素人、翻訳が好き、文学が好きという者ばかり。
こうして一冊の本に編んでみるといまひとつ悔いが残るのは、作品を時系列的に並べなかったことです。単純に雑誌掲載時順に並べたために、ブラジル文学の歴史的な流れがつかめないという嫌いが出ました。これはまあ、文学賞設置時の選考委員の見識のなさにもつながりますが、委員に文学博士の脇坂ジェニが顔を出したあたりからすでに指摘されていたことでした。しかし、いまさら如何ともしがたい、というのが実情です。 ドン・ジョアン六世がブラジルに王室を移したのが1808年。このときからブラジルの文明開化がはじまります。まず、ブラジル文学の最高峰といわれるマッシャド・デ・アシスの没年が王室移転から100年目の1908年。6月には日本移民がサントスに第一歩を踏み出した年なので非常に記憶しやすく、このあたりから、ブラジル文学をひもとくと頭に入りやすい。少なくても私はこういう形でブラジル文学の門をたたきました。
独学の彼が編集者に抜擢されたのが1867年で将軍慶喜の大政奉還の年です。ですから時代も思想も古臭いのは当然。マッシャドの作品は旧弊な叙述スタイル。常に外側で叙述する語り手がいるので、無声映画の弁士的な人物がいると考えればこれも分かりやすい。もっとも、名声のわりには、読んでみて面白くない作家です。
しかし、マッシャドの翻訳作品がずいぶん多いじゃないかと反問がでそうです。この選集にだって三編(本屋のガルニエル・男親と女親・クロニカルの誕生)も掲載されている……。これには翻訳の著作権の絡みという楽屋裏のハナシがあるのです。マッシャドは死後100年を経ていて、著作権の縛りがなくなり、天下晴れて翻訳ができるからなのです。ブラジル日系文学も翻訳の課題作品には著作権が消失したものを、という条項を加えていますから、古臭いカビたようなハナシ(作品)が多くなるのは当然の成り行き。現在は少し、現代的なものをということで45年組(後述)の作品も出すようになって、それだからこそ、選集は非売品ということになってしまいました。
最近ブラジル政府はかつて死後60年だった著作権有効期間を70年まで引き上げました。ブラジル文学の振興に水を差すと腹を立てているのですが、政府としては財源確保に何%かを徴収することにしたのだそうです。出版社もエージェントたちも時代に逆行するとブーブーだそうですが。ブラジル文学が世に流布するためには、政府の援助支援こそが肝要なのに……育てるところか食い物にしたがっている……が顰蹙を買う理由です。

一方、この年に生を受けたのがギマランエス・ローザで、これまたブラジルを代表する作家です。軍医、後に外交官になります。1946年「サガラーナ」という地方伝説をまとめた作品で世に出ますが、結局、これが生涯彼の創作の中核をなします。マッシャドと同じように難解で、方言を用いた造語も多いのですが、作品には香気が漂い読み手を酔わせます。もうひとつ、マッシャドの辞書には「にほんじん」はなかったのですが、ローザは小品「ジバング」を残しています。ノロエステ鉄道を走る汽車の中で見かけた日本移民のハナシで、綿栽培を目的に共同体を形成していた様子がしっかり捉えられています。

「ブラジル日系文学会」 飜訳サークル「アイリス」の皆さん
前列右から 平松さちえ、柴門明子、中田みちよ、
後列右から 堀麻紀子、関屋八重子、古川恵子、原信夫、坂口民生


1922年からモダニズム始まる
そして、この日本移民が渡ってきたころからブラジルの近代主義が始まります。当時ヨーロッパでは文芸面に限っていえば、若い文士や芸術家による反抗のマニフェストを掲げた前衛主義が起こり、ヨーロッパに留学していたアニタ・マウファッチ(画家)
やヴィクトル・ブレッシェレ(彫刻家)、オズワルド・デ・アンドラーデ(作家)たちが行動を起こします。自分の国に即した思考改革を行おうと、1922年の「近代芸術週間」になるわけですが、ブラジルの芸術一般はこれを境に変貌を遂げるようになります。乱暴ないい方をすれば第二次大戦を境にしたような境界線です。
しかし、この22年から始まったブラジルのモダニズムも、後にまた分裂します。考えてみれば、思想的にまとまったわけではなく、いわば革新を担う時代のバスに乗り遅れまいとして形成された第一期ですから、旧弊さを払拭できない作家もいたわけで、分裂もまた必然なのですが、確固として地位を守った作家として選集に掲載されているのはセシリア・メイレイレス(「幸福」)、リベイロ・コウト(「夜明け前の物語」)などです。それから3045年までが第二期。これは近代主義が具体的な形をもって現れたときで、カルロス・D・アンドラーデ(「バッグと人生」)、ジョルジ・アマードなど。
初期のモダニズムに異を唱えて現れたのが45年以降の第三
期で、これが現在までつづいている流れです。グラシリアノ・ラーモス(「バレイア」)、ギマランエス・ローザ(「孤愁の父」)、リジア・ファグンデス(「渡し舟のクリスマス・レオンチーナの告白」)クラリッセ・リスペクトル(「パンを分かち合う」、「密やかな幸せ」)など多数です。一般的には45年世代とも呼ばれます。ほとんどが現代ブラジル語で書かれていますから理解しやすい分、日本語の表現力が問われるような気がします。今、サークルではネルソン・ロドリゲスの短編に取り組んでいますが、問題は得意のブラック・ユーモアをどう捌くか、です。楽しいですけれどね。

とりあえずはまもなくブラジルでサッカーのワールドカップやオリンピックが開催されることで、世界の視線がブラジルに注がれます。なかんずく、日本の目がブラジルに集中するでしょう。この選集がそのブラジルを、ブラジル人を知るための水先案内人になれれば、望外の喜びです。