会報『ブラジル特報』 2014年1月号掲載
エッセイ
Helena H.Toida (上智大学外国語学部ポルトガル語学科教授)
上智大学ポルトガル語学科の教員(非常勤講師も含めて)になってより、はやいもので18年が経つ。それ以前の留学時代を数えると、日本滞在は4半世紀にもなる。時はいつも密やかに流れ続けるのだなと実感しているこの頃である。日本近代文学の研究のために来日したが、こんなに長く留まることになろうとは思い及ばなかった。両親もブラジルに移住したときは、同じ思いだったのだろうか。娘が自分たちと逆の立場になろうことなど想像もしなかったであろうが。
1930年代、当時の多くの農村出身の人々がそうであったように、両親はブラジル移住を余儀なくされた。私が中学生の頃、父は「ブラジルに剣道を広めようと思って来たのだ」といったことがある。彼の生き様を振り返ると、「仕方がなかったのだ」と思うより、剣道に希望を見出し、それを生きる支えとしたのではないだろうか。あらためて振り返ると、そのように思えてならない。父の一生は剣道を中心に回っていた。今思えば、自分の理想に忠実に生き抜いた人だったと、納得がいく。母はいわゆる昔の女性らしく、黙って父に従っていくだけだった。馴れない異国暮らしで、どれだけの不安と理不尽を味わったか計り知れない。両親にとって祖国「日本」は絶対的な存在だった。そしてその想いが強くなるにつれて生じるのが「故郷の美化」である。
日本は素晴らしい国だと聞かされ続けて育った私が、両親のそんな思いを自分の中に取り込んだのは極めて自然の成り行きだった。そんなことから、私の日本文化、文学への憧れは根付き、高じて大学では日本語を専攻した。そして初めての留学?これがアイデンティティ・クライシスの引き金となった。 日系二世である私は、外見は日本人であることから、ブラジルではjaponesinha (日本人のお嬢ちゃん)といわれ、日本では「日本人らしくない」といわれた。「私って何人?」とその度に悩んだ。何の疑いもなく、「自分は日本人だ」と思っていた幼少時代。留学時代、日本人に囲まれて初めて「私は日本人ではない!」と気付かされた。「私は誰よりもブラジル人らしいし、日本人にはなれない」と確信した瞬間だった。私にしかできないことがある、二つの世界に通じていることが大きな力になるのだと実感した時でもあった。
日本に残ることに決めたのは、個人的な理由もあったが、何よりもまず教える仕事ができるのなら、「コスモポリタン」の私は、どこにいてもいいと思えたからである。翻訳や通訳―なかでも法廷通訳は貴重な経験だった―、語学学校の講師を経て、縁あって上智大学ポルトガル語学科で教えることになった。ブラジルにいた頃は大学や語学学校で日本語を教えていたが、まさか日本語でポルトガル語を教えることになろうとは思わなかった。
初めて日本の大学生たちと向き合う中、どうすれば教授法を体系化できるのか、ポルトガル語の世界は日本人の目にどのように映っているのか等について研究する日々が続いた。ブラジルで日本語を教えていた経験と、日本でポルトガル語を教えることが、自分の言葉を再認識するのに役立った。そしてこれらの経験は、自分を見つめなおす機会にもなったのである。
一時期は思い悩んだアイデンティティであるが、日系ブラジル人であることを逆手にとって、二つの言語世界―日本語とポルトガル語―を自由に行き来できると思えば、これ以上の楽しさはないということに気付いた。「日系人は面倒だ」と批判する人もいる。確かにそうかもしれない。何となく日本のことをわかっているようで、日本語も少しばかり話すが、実際のところ何も分かっていないから、扱いにくいということか。私はしかし、それを自覚しながら自分にできることをしたい。これが異なる者同士が共に生きるための第一歩であると思うからだ。
このたび知人の縁で、気仙沼市の牡蛎(カキ)の養殖家である畠山重篤氏が書かれた、『カキじいさんとしげぼう』という童話のポルトガル語への翻訳を担当させていただいた(注)。作品には海と森とが密接な環境連鎖にあること、その均衡を保つことの大切さについて書かれている。人間と自然との共生は一見難しそうに見えるが、実はひとり一人の小さな勇気がその実現への一歩になると畠山氏は述べている。動物であれ植物であれ、生きる場所を失うということは、生きる意味を失うことに等しい。
「私は何者なのか」と、かつて「生きる場所」に苦悩した私は、畠山氏のこの「小さな勇気」に応えたいと切に願いながら、翻訳に取り組んだ。完成した時、私は二言語間を行き来できることに再び感謝すると同時に、自分が日系人であることの意義を一段と深く感じることができ、それこそが私にしかできない仕事だと心から思えたのである。
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