会報『ブラジル特報』 2014年3月号掲載
社会・文化
       
林 隆春 (株式会社アバンセコーポレーション 代表取締役)



出稼ぎビジネスが天職だと思った初めのころ
私が最初にブラジルを訪問したのは1985年、ブラジルが軍政から民政に移行したまさにその時で、凄まじいインフレの渦中、日系社会はブラジルの政治・経済に翻弄され、生き方の羅針盤を見失っていました。
「クルザードで働いても生活の安定が得られないなら、安定した円を稼いで生活を立て直そうよ」 と、86年から始まった私の出稼ぎビジネス。一時期、私は舞い上がって天職とまで思い、90年のバブルに向け猛進する日本に日系ブラジル人を送り続けました。
そして現在までに6万人近くの雇用実績があります。歯医者、弁護士、農家・牧場主、学校の先生、銀行員、実にたくさんの人が来日、そして数年を経て帰国、人生を再出発、多くの人たちの幸せストーリーに微力ながらお手伝い出来たという実感はありますが、それが日系社会の不幸の始まりであることを当時の私は微塵も考えていませんでした。

雇用の階層化がもたらしたもの
1991 年にバブルがはじけ、景気の閉塞感が蔓延する1995
年、当時の日経連は労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」と三つに分ける 「新時代の『日本的経営』 」を提言、人件費の圧縮や人件費を売上高と連動、同時に雇用の階層化を推し進めました。階層化の重要なツールである労働者派遣法も対象職種が拡大、期間も長期化、1997
年のアジア通貨危機以降、政治は経済を全面的に後押し、99年の派遣法改正で一部の禁止職種以外は全て派遣可能となりました。そして2000年のITバブル崩壊です。これを契機に企業は目覚め、より一層雇用の階層化に邁進していくこととなります。
企業にとっての「正しさ」は、2008年に証明されました。リーマンショック時、派遣社員や非正規労働者の雇用は激減しましたが、社員の雇用は守ることができ、多くの企業は人事政策上は成功だったと考えています。
しかし、従業員寮に入り自分の家の無い人、職業訓練を受けずスキルの低い人、外国人等言葉の弱い人、賃金が安く溜めの無い人が解雇され、立場の弱い人達がより一層弱くされ、企業が守り育てる機能を放棄し、その結果、日系人社会が未来を描けず刹那的な暮らしに埋没、メンター的な人が消え、コミュニティが劣化していきました。
労働者派遣法は運用を市場原理に委ねることで暴走を許し、格差を広げ、階層を固定化、捨て去る人達をつくり出すルールになったのです。
しわ寄せを受ける日系ブラジル人

日系人の人たちに仕事はどうかと聞くと、「アルバイトをしている」と答える人が多い。以前だと、「〇〇会社で働いている」と答える人が多かったが、この4年あまりで一気に雇用の底が浅くなったことを実感します。働いても働いてもギリギリの生活を強いられ、現状で精一杯、病気等アクシデントがあれば仕事がなくなり、家族は生活の基盤を失う。日系人家族は薄氷を踏むような不安定な心持ちで毎日を過ごし、次世代の子供達にも影響が出始めています。
リーマンショック時、我々派遣会社と闘った合同労働組合(非正規ユニオン)も、東日本大震災後には解雇ともいわれず、「仕事が出てきたらまたおいで」で済まされ、一部のユニオンでは「解雇してくれ闘争」まで始めています。
現在ブラジル日系人はブラジル人口の約1%程度ですが、サンパウロ大学は全学生の約10%が日系人です。他の国立大学も同じような状況なのに、先日面接した日本に住む日系ブラジル人男性は32歳で、16歳の時に来日、ブラジルでもあまり教育を受けていない。これからどうするのと聞くとキョトンとしていました。
生活保護を受給している人に基金訓練を勧めても 「もらえるお金が変わらないから生活保護でいい」という人が多い。ブラジルに住む日系人有識者のみなさんは、「我々は頑張った。日本に来てなぜもっと頑張らないんだ」と自己責任で片づけようとするが、何か違うのです。あくせく頑張っても自分たちに将来は無いと感じ、働く意味・意義が見出せず、だんだんと苦しく感じるようになる。彼らではなく、我々日本人の心の奥底に彼らを受入れない何かがあり、それを彼らが感じ取って心が冷えていったのかもしれません。
なぜUR都市機構の賃貸住宅をはじめとした集合住宅に日系人が住むのか。それは、連帯保証人を必要としないからです。就職にも、入院にも、手術にも、日本では多くが連帯保証人を、それも日本人の保証人、身元引受人を当たり前のように要求します。
中学校を卒業した子が相談に来ます。就職か進学の相談をする相手がおらず、自然に学校から排出されていく子供達。不登校になっても彼らは義務教育ではないので、先生が自宅訪問をしたり、親を指導したり、警察が補導する事もありません。ましてや、障害のある子を支える「外国人向け児童デイサービス」など聞いたこともない。現在、私達は三重県四日市市でその施設を運営しており、豊田市、浜松市等の支援団体からその活動を広げてほしいと要請はありますが、補助、助成金の無い現状を考えると、今の1施設が精一杯で、もう一歩踏み込めない現状です。
私達はフードバンクで食の支援もしていますが、食料を受け取りに来たブラジル人の母子は、ご主人が派遣切りで失業した後失踪し、家賃の支払いも出来ず、電気、ガス、水道も止められ、追いつめられた結果、「ミルクを頂けませんか」と相談に来ました。民生委員も、地域社会も、保健所も誰の目にもとまらず、毎日命をひたすらつなぎ、ようやく私達の元にたどり着いた人達。しかし、たどり着けない見えない人達は、その何十倍もいることでしょう。
派遣から正規社員に移行するには職業訓練が必要ですが、私の住む外国人人口20万人の愛知県で、21校ある職業訓練校への外国人入校者はほぼゼロ、日系人に使った一番大きな予算は、「目の前からいなくなって政策」といわんばかりの帰国者支援費、日系人は血のつながった同胞ではなく、招かれざる客だと実感しました。今後は日系人自身も心の折り合いをつけていかざるを得ませんが、急速に弱体化したコミュニティのダメージは末永く残るでしょう。


日系社会の高齢化と精神疾患問題
数ヶ月前、末期ガンの日系ブラジル人男性が日本を発ち帰国しました。彼に帰国の意思はありませんでしたが、認知症や幻覚症状、日本との縁の薄さ、老人ホームの費用負担、異国での適応力を考えると、無理を承知で帰国させざるを得ませんでした。生活保護費から旅費の負担はありません。昨年、身体が弱り働けなくなった日系ブラジル人が、生活保護受給申請の数ヶ月後に孤独死、変わり果てた姿で発見されました。
私は、無償で数多くの保証人をしていますが、日系社会の高齢化は喫緊の問題です。日本人は年間で人口の約1%が死亡しますが、一世・二重国籍・帰化の人を合わせた20数万人の日系ブラジル人も5559歳が10,246人、毎年約2,000人が60歳になり、5054歳は14,485人、5年後は毎年2,500人あまりが60歳を超え、日本に住む日系社会の高齢化が急速に進むものと思われます。
A 県の国際センターに相談のため来所した日系ブラジル人で精神疾患が疑われる人は、2010
4月から10月までの7
ヶ月間で704人、うち19歳以下の子供達が50
%超を占めています。国際センターに来所する人はほんの一部で、実数はこの10~20倍はあるものと思われます。日本全体として考えると、空恐ろしい数字になります。
ブラジル・サンパウロのサンタ・クルース日伯慈善病院は、別名日本病院とも呼ばれ、1908年の笠戸丸初移民から約30年後の39年、在日日本人同仁会によって設立されていますが、まさに日本も85年から30年を経過して、高齢化、永住化後の施策が求められています。


日系人と一緒に考える派遣会社へ
私は、さまざまな外国人支援活動を贖罪や懺悔の思いで行っています。リーマンショック後、この仕事をやめようと思ったこともあります。私が会社を清算して日系社会が良くなるならそれでも良いですが、現状はそうではありません。
この数年で、私達がこの業界に残って改革してほしいと願う将来を嘱望される若手経営者が派遣業界から消えていきました。若い優秀な経営者は、社会や家族、友人等の賞賛があってがんばれます。金さえあればどんなことを言われても耐えられる人しか残らない業界が、働く人の未来を一緒に考え、働く人の幸せを願えるでしょうか。派遣が無くなれば企業は直接雇用に向かうと考えるのは、あまりに安易過ぎないでしょうか。
企業はコストは管理したいが、コンプライアンスには関わりたくない。社会保険に入らせず共済組合を自前でつくり、年金等は棚上げ、メーカーも直接雇用と称して採用管理やコンプライアンスは業者に丸投げ、まさに何でもありの現状を考えた時、日系社会の未来を日系人と一緒に考える派遣会社があってもいいなと考え、現在に至っています。

逆移民を支援する団体へ
最後に、日系社会の未来をどう描くかを考えてみます。ブラジル移住振興会社が日本海外協会連合会とともに統合され、海外移住事業団となり、移民終焉ののち日本海外協会に引き継がれ、今村忠雄氏が理事長をしておられますが、この一般社団を理念と共に引き継ぎ、逆移民を支援する日本版文協にするべく、私の所属する団体を含め4つのNPOが手を挙げています。
文協の理念・目的を、日本に住む日系社会の現状に合わせ改変、温かいコミュニティの創造に向け絆社会を、そして日本人への見える化社会の構築を目指します。そしてもうひとつ、在日ブラジル人のための特別養護老人ホームの建設を企画しており、3つのNPO団体が中心になって進めています。感謝と懺悔の気持ちを持って、長年にわたり深く関わり続けている日系人社会のために余生を捧げたいと考えています。