会報『ブラジル特報』 2014年7月号掲載
鈴木茂(東京外国語大学教授)
はじめに
ワールドカップの陰に隠れて日本ではほとんど報道されていないが、今年はブラジル大統領選挙の年でもある。民政移管後に制定された現憲法では大統領任期が4年と定められ、最初の大統領直接選挙が1990年に行われたために、ブラジルの大統領選挙は必ずワールドカップと同じ年に実施されることになっている。そして、通例6月から7月に開催されるワールドカップでのブラジル代表チームの成績は、10月(一次投票)から11月(上位2候補による決選投票)にかけて行われる大統領選挙に少なからぬ影響を及ぼすとささやかれる。
ブラジルにおけるサッカーの政治利用といえば、軍政下の1970年メキシコ大会ほど露骨であったことはないであろう。1968年12月、「13の金曜日」に発表された軍政令第5号(AI-5)で国会を閉鎖し、合法的な反政府活動の息の根を止めた軍事政権は、ブラジル代表チームの勝利によって国民の不満を解消しようとした。「9000万国民の心を一つにして」代表チームを鼓舞しようと歌う「進め、ブラジル!」は、ブラジルが初めて優勝した1958年スウェーデン大会の「ワールドカップはわれらのもの」と並んで、いまでも最も有名な応援歌である。
その軍事政権が始まってから、今年はちょうど50年の節目にあたっている。ブラジルの軍部は、キューバ革命の5年後の1964年、クーデターでジョアン・ゴラール(ジャンゴ)政権を倒し、1985年までの21年間、権力を握り続けた。ブラジルに続いてアルゼンチン、チリ、ウルグアイなどの他の南米諸国にも軍事政権が成立したが、それらと比べても最長であった。今年に入り、新聞や雑誌、テレビなどで1964年クーデターを取り上げた特集が組まれたり、シンポジウムや回顧展などの行事が開かれたりしている。軍事独裁体制の記憶とどのように向き合おうとしているか、ここでは1964年クーデターの重要な論点の一つとなってきたアメリカ合衆国の介入について、一本のドキュメンタリー映画から考えて見たい。ケネディーの冷戦思考とブラジル
2011年4月にブラジルの公共放送「TVブラジル」で放送され、2013年3月に映画版が劇場公開されたドキュメンタリー『21年間続いた1日』(O Dia que Durou 21 Anos)は、軍事クーデターから40年後の2004年頃から公開されはじめたアメリカ合衆国の国家安全保障史料館所蔵の秘密文書などを利用し、ゴラール政権打倒へのアメリカ合衆国の関与を暴露した話題作である。1964年クーデターへの米国の介入については、こうした情報公開を受けてすでに専門的な研究が発表されているが、ブラジルの一般市民にとっては、この作品を通してはじめて知る事実も多かったようである。この作品のプロデューサー、フラヴィオ・タヴァレスは、軍政下で逮捕されて拷問を受け、長く亡命生活を余儀なくされたジャーナリストで、1969年9月にリオデジャネイロで起きた米国大使誘拐事件(これを描いたブルーノ・バレット監督の映画『クアトロ・ディアス』は1997年に日本でも公開された)の際に、米国大使の解放と交換に釈放されてメキシコに送られた15人の一人でもある。監督のカミーロ・タヴァレスは、父フラヴィオがメキシコ亡命中に生まれている。
『21年間続いた1日』は、1961年8月25日のジャニオ・クアドロス大統領の辞任とジョアン・ゴラール副大統領の大統領昇格から、1969年9月の米国大使誘拐事件までを描いている。しかし、何と言っても圧巻は、1961年から1966年まで米国駐ブラジル大使を務めたリンカーン・ゴードンと米中央情報局(CIA)出身の軍事アタッシェ、ヴァーノン・ウォルターズの活動、ケネディー、ジョンソン両大統領の対ブラジル政策が、極秘公電や電話の録音記録から明らかにされている場面であろう。
ケネディーは「第2のキューバ革命」を阻止するため、1961年3月、ラテンアメリカ諸国向けの援助プログラム「進歩のための同盟」を打ち出す。同年8月17日には、計画実施のためにキューバを除くラテンアメリカ19カ国と「プンタ・デル・エステ憲章」が結ばれるが、一週間後の8月25日、ジャニオ・クアドロス・ブラジル大統領が突然の辞任を発表した。憲法の規定では、副大統領のジョアン・ゴラールが大統領に昇格することになっていたが、軍部と保守派は労働組合と強いつながりのあるゴラールの昇格に反対する。結局、議院内閣制導入によって大統領権限を制限する憲法修正を経て、軍部・保守派もゴラールの昇格に同意するが、ケネディーはゴラール政権の成立をブラジル共産化の脅威と捉え、CIAを使ってブラジルの軍部・保守派に資金を提供し、同年11月には反ゴラール宣伝機関「ブラジル社会研究所」(IPES)を設立させた。そして、翌1962年の国会議員選挙に向け、「ブラジル民主活動研究所」(IBAD)なる機関を通じて反ゴラール派候補に選挙資金を提供した。さらに、1963年1月、国民投票で大統領制への復帰が決まると、ケネディーは、サンパウロ、ミナスジェライス両州の知事に協力してゴラール政権転覆を工作するよう、ゴードン・ブラジル大使に指示した。
|
『21年間続いた1日』のDVD版表紙 |
1964年軍事クーデターとアメリカ合衆国
1963年11月にケネディーが暗殺され、大統領に昇格したジョンソンも「共産主義のパラノイア」に取り憑かれていた。ゴードンやウォルターズは、ゴラール政権の「共産党への接近」やブラジルにおける「共産主義の脅威」に関する情報をホワイトハウスに送り続け、「革命計画」(軍部はクーデターをこう呼んだ)を知らされると、直ちにワシントンに通知する一方、支援のためにブラジルへの軍艦の派遣と武器・弾薬、燃料の提供を要請する。クーデター前日の1964年3月30日には、CIAが収集した情報として、サンパウロとミナスジェライスの知事がクーデターに合意したことと、ミナスジェライス州に駐屯していた第4軍管区司令官モウラン・フィリョ将軍の部隊が挙兵し、リオデジャネイロに進軍するというシナリオが伝えられた。翌3月31日午後に米国務省からゴードン大使宛に送られた秘密電報には、「ブラザー・サム」と名づけられたこの作戦の詳細な内容、すなわちカリブ海アルーバ島から燃料を積んだタンカーを派遣すること、最初のタンカーは4月8日から13日の間にサントス沖へ到着すること、軍事演習を名目に4月10日までに空母1隻、4月14日までに駆逐艦4隻、2機の戦闘機、タンカーを派遣すること、命令から24時間から36時間の間に110トンの弾薬、催涙ガスを含む装備品をサンパウロ州カンピナスに空輸することが記されていた。この電文ととともに、スクリーンには米国東海岸を出港した駆逐艦がアルーバに寄港し、ブラジル沿岸に向かう様子が映し出されている。
ブラジル軍政の「予期せぬ」進路
実際、1964年クーデターはこうしたシナリオ通りに進行したが、唯一、米国側の思惑が外れたのは、4月2日にゴラール大統領が抵抗することなくウルグアイに亡命し、大規模な流血が起きなかったことである。すでに4月1日、ゴードン大使はホワイトハウスに国際電話をかけ、ただちにブラジル新政府を承認するよう要請していたが、これを受けて4月2日に米国は早々と下院議長ラニエリ・マジーリを臨時大統領とする新政府を承認した。ゴードン大使とジョンソン大統領の電話での会話が生々しい。そして、4月11日、クーデターの首謀者であった陸軍参謀司令官カステーロ・ブランコが軍部によって大統領に選出されるが、米国大使館は増額された潤沢な予算を使い、ブラジル政府にさまざまな人材を送り込んでいった。映画は、こうした軍政への米国の関与の増大がブラジル国内の反米意識を高め、1969年の米国大使誘拐事件の伏線となったことを示唆している。
実は、もう一つ米国政府の予想が外れたことがあった。軍事政権による人権侵害である。とりわけ1968年の軍政令第5号(AI-5)公布を境に不当逮捕や拷問が激化した。軍政3人目の大統領メジシと5人目で最後のフィゲイレードは国家情報局(SNI)長官を歴任した人物であったが、反政府活動家の情報はSNIから政治警察に送られ、捜査と拷問は陸軍の「情報作戦部・国内防衛作戦センター」(DOI-CODI)が担当した。ゴードン大使すら残酷な拷問には困惑したとされるが、映画の中では被害者の写真とともに、「私は、われわれが(ブラジル)政府の非合法活動もしくは行き過ぎを正当化しようとしないうちは、沈黙こそ金というのがわれわれの最良の決定だとの結論に至りました」との同大使の電文が紹介されている。そして、「すべては民主主義の名の下に行われた」という米国の政治学者のコメントで映画は終る。
おわりに
軍政下のラテンアメリカを描いた映画としては、チリのアジェンデ政権崩壊を取り上げた『サンチャゴに雨が降る』(コスタ・ガヴラス監督、1975年)やチリやアルゼンチンの「行方不明者」や亡命者を取り上げた『ミッシング』(コスタ・ガヴラス監督、1982年)、『オフィシャル・ストーリー』(ルイス・プエンソ監督、1985年)、『タンゴ―ガルデルの亡命』(フェルナンド・ソラナス監督、1985年)などがすぐに頭に浮かぶ。ブラジルについては、先述の『クアトロ・ディアス』が日本でも公開されている。それ以外にも、ブラジルを含む各国で多くの劇映画やドキュメンタリーが制作されてきた。
民政移管後のブラジルでは、1995年から現在に至る約20年間は、直接選挙で選ばれたすべての大統領が任期を全うしてきており、民主主義が確実に根付いたと言えるであろう。しかし、軍政の記憶が忘れられたわけではない。『21年間続いた1日』には軍政の記憶を新たに呼び覚まし、それによって民主主義を深化させようとするブラジル国民の意思が感じられる。 |