会報『ブラジル特報』 2005年9月号掲載 マウロ・ネヴェース(上智大学助教授) |
ブラジルのテレビ界における最初の商業放送は、1950年9月18日のTV-Tupiの関局に遡るが、この時すでに後の視聴率チャンピオンの萌芽ともいえる番組―すなわちドラマ性を備えたテレノヴェーラ(telenovela,テレビ小説)が合まれていたのである。以来50年の時を経て、ブラジルのテレビ界はその象徴的な存在として、そしてl980年代以降は国際社会でも認められるテレノヴェーラを有するに至った。かくして、20世紀を通じてブラジルはサンバとサッカーの国のみならず、すぐれてテレノヴェーラの国として、4年毎のサッカーのワールドカップに匹敵する地位を確立したのである。そしてある場合にはワールドカップにも匹敵する聴衆を獲得するのに戚功している。 テレノヴェーラの歴史 ブラジル・テレノヴェーラの最初のl0年間―テレノヴェーラの放送が始まったl951年から毎日放映という現在のスタイルの放送が始まった1963年まで―は、放送を支える視聴者を作り出すという実験と探求の10年だった。この期間を通じて、テレノヴェーラは毎日ではなく週2回の放送だった。1960年以降、同類のラジオや演劇、映画とは一味違った独特の用語で注目を集め始める。そして、ブラジル大衆がテレノヴェーラに関心をみせ始めるのもこの1960年代からだ。 1963年の7月から9月にかけて、ブラジル・テレビ界で最初の毎日放映のテレノヴェーラが始まった。当時、テレノヴェーラはまだビデオ・テープの技術なしで、一般に野外撮影なしで、出演者も少なく、テレビ局の日々の番組の目玉とはなっていなかった。こうした状況が変化し始めるのは、1966年以降だ。さらに興味深いのは、ブラジルでは1960年代を通じて重要な社会・政治・経済事件が起こったにもかかわらず、テレビ界はこうした事件にはほとんどとらわれず、そのテレノヴェ…ラでは完全に隔絶された世界を作り出していたことだ。こうした特徴は一部の例外を除いて、ほとんど次のl970年代末まで続くのである。 1964年は軍事クーデターが起こった年だけでなく、ブラジルのテレビ界とテレノヴェーラの発展にとってもきわめて重要な年だった。すなわち、ブラジルの中心的な―l970年代と80年代にはほとんど圧倒的な―存在となるだけでなく、今日でも依然として支配的なテレノヴェーラのパターンを作り出したテレビ局である TV-Globoが開局したからだ。時を同じくして、テレビ局間の競争が始まったほか、テレビドラマの分野においても種々の新たな経験を積むようになり、テレビ各局はこぞって視聴率向上のためにテレノヴェーラを利用するに至った。 1968年には、テレノヴェーラが一般大衆と日々の生活の現実にますます近付き、二次的な番組から高視聴率のトップ番組へ登りつめ、ブラジルのテレビ界での絶頂期に達したのである。この時期は原典と話し方の民族化や脚本のブラジル文学作品への限定など、テレビドラマの決定的な「ブラジル化」が行われた時期だった。またテーマが次第に多様化し、国内の演劇や映画出身の俳優がより多く起用されるようになった時期だった。さらにブラジルのテレノヴエーラがすぐれて、ブラジル社会に影響を及ぼす一般的な問題、すなわち人種偏見や女性の地位、カトリックとウンバンダ(アフロブラジル宗教)の関係、宗教的シンクレティズム(諸教混合)、工業化の進展にともなう公害、貧困、都市暴力などをテーマとして取り上げるに至った時期だった。 かくして、ほとんど常に主役間の三角関係がドラマの中心をなしていたとはいえ、この時期に放映されたテレノヴエーラの大部分は、徐々に視聴者の現実と日々の生活を取り込み、視聴者がドラマの中に自らを見つめ、反省することを可能にした。このことは視聴者の関心を次第に高め、視聴率の大幅な向上に寄与したが、特にl970年代には、テレノヴエーラはブラジル人の生活にとつて不可欠なものになったのである。またこのl970年代には、国内テレビ市場における Rede Globo(グローボ・テレビ網)の支配体制が確立し、テレビ界の「グローボ」化が進んだ10年間だった。さらにこうした1970年代以降、テレノヴェーラをテーマ別に主要4グループに分けることができる。すなわち、①ドラマの中に現実の世界を取り込むもの、②従来の番組の新たなドラマ化、③コミックなもの、④ブラジル文学作品を脚色したもの―だ。 TV Globo はブラジルのハリウッド 1970年代と80年代のテレノヴエーラの最大の違いは、ブラジルの社会的・政治的現実への取り組み方にある。こうした取り組み方は、軍事政権巌後の2つの政権によつて始められた政治開放過程の進展にともなって、次第に増加していった。さらに、1980年代にブラジルのテレビドラマに直接影響を与えたその他の4つの要因としては、①政府による検閲の終了によって、一部のテレノヴェーラが軍事政権の暗い時代に取り組むに至ったこと、② Rede Globo による国産番組の輸出開始によって、ブラジル・テレノヴェーラの国際化が始まったこと、③ミニ・シリーズの導入、④ SBT(グローボに次いで二番手の大手TV局) によるイスパノアメリカ作品の輸入再開とこれにともなう主に同局におけるメロドラマの復活―が挙げられる。 テレノヴェーラが現在、ブラジル文化作品の輸出の中でどのくらいの割合を占めるかをよくみれば、ブラジルにとってのテレノヴェーラは、米国にとっての映画のようなものであり、Rede Globo はまさにブラジルのハリウッドであることが分かるだろう。ブラジルのテレノヴェーラは、ブラジル以外の世界にも広がりつつある。このことは、その筋書きとともに、ブラジルの自然や習慣、住民、産品も他の国々に伝えられ、国際社会におけるブラジルの地位向上に役立っていることを意味する。ブラジルのテレノヴェーラ輸出の歴史はすでに30年以上になるし、ますます多くの国々で、それが成功を収めている理由は、 日々の生活にきわめて近い言葉遣いとイメージを採用していることと、北米や英国のテレビドラマ作品と比較しても遜色のない作品の質にある。 Rede Globo は1973年、メキシコにブラジル・テレノヴェーラの輸出を開始した。しかしながら、こうした輸出が定着し、世界のドラマ作品の中で大きなシェアを占めるに至るのは、1980年に米国で摘scrava Isaura煤i奴隷女 イザウラ、l976年)が大戒功を収めてからだ。この作品は北米市場だけでなく、100カ国以上で高視聴率を獲得した。とりわけ、キューバではフイデル・カストロの演説の中で取り上げられたし、中国では輸入作品としてはそれまで考えられなかった成功を収めたのみならず、中国のテレノヴェーラの変容に影響を及ぼし、以後中国テレビドラマの製作パターンとなるに至った。そして東欧でも同様の成功を収めた。 さらに、ポルトガルや PALOP(ポルトガル語圏)の場合には、同じポルトガル語を母国語とするこれらの国々によるブラジルのテレノヴェーラの輸入の結果、考慮すべきもう1つの側面が存在する。それはこれらの国々のポルトガル語に対するブラジル・ポルトガル語の影響で、ポルトガルの場合は都市部より視聴率の高い農村地域の方言に大きな影響を与えていることだ。 今日、ブラジルで放映されているテレノヴエーラには多様化の傾向がみられる。すなわち、それはコメディからブラジルの現実を映し出すドラマ、さらに他のラテンアメリカ諸国から輸入され、ないしはこれらの諸国を題材とするメロドラマまで多様だ。 結局のところ、TV Globo の力と同局がゴールデンアワーに放映するテレノヴエーラの重要性が、ブラジルに与えている影響を強調する必要があろう。すなわち、サッカーの国内選手権の主要なゲームの最大のスポンサーかつほぼ独占的な放映局である Globo 自体、テレノヴェーラが放映されない日曜日以外のウイークディに行なわれるゲームは、テレノヴェーラの終了後しか放映が始まらないようにしているのである。同局はさらに、ワールドカップ予選の際には、ブラジル国内で行なわれるゲームがうまくいくよう圧力をかけようとしたが、他の国々で行なわれるゲームに影響を及ぼすことには成功しなかったし、テレノヴェーラに対する視聴者の信頼継続に影響を与えないよう、その番組を変更しなければならなかった。かくして、テレノヴェーラがブラジルの視聴率チャンピオンの座を明け渡す日はまだ遠いと信じている。 〔訳:水野 一 上智大学名誉教授〕 |