会報『ブラジル特報』 2006年
1月号掲載

         書評 『トロピカーリア』クリストファー・ダン著/国安真奈訳

                                  音楽之友社 (本体3500円+税)


1968年、パリ。学生反乱の年。塔uラジル社会学のプリンス狽ニ呼ばれていたF・H・カルドーゾは、ソルボンヌ大学で教鞭を執りながら自ら名付けた「従属論」の理論的深化を図る研究生活を送っていた。彼はリオグランデ・ド・スールにおけるシャルケ(塩干牛肉)産業のケーススタディーを通じて、南部ブラジルの資本主義と奴隷制との相互依存関係を解明したが、さらにブラジルばかりでなくラテンアメリカ全体の社会経済史を分析した上で、チリ人経済学者ファレットと共著で『ラテンアメリカにおける従属と開発』を刊行し、一躍世界の社会科学界の注目を浴びていた。後に上院議員、大蔵大臣、大統領となってネオリベラルの現実派政治家と呼称されることとなるカルドーゾも、この頃はマルクス主義の分析手法を用いる社会学者で厳しい軍政批判者であった。

1968年、リオ。様々な文化運動が模索を続けていた。映画ではシネマ・ノーヴォの旗手グラウベル・ローシャが「狂乱の大地」を前年に公開、ラテンアメリカのポピュリズムの破綻を戯画的に映像化することで軍政批判を試み、演劇の世界ではジョゼ・セルソが「蝋燭王」をオフィシーナ劇場で演出していたが、音楽の分野でもマグマが爆発しつつあった。バイーア出身の若きミュージシャンたち、すなわちカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、トン・ゼー、ガル・コスタらが展開したのが、後にトロピカリズモともトロピカーリアとも呼ばれることとなるカウンターカルチャー運動であり、文学や映画も巻き込んだ総合的文化運動となっていく。ところが、ジルとカエターノが69年当局によって逮捕されてしまう。4ヵ月後に釈放されるが、2年間の亡命生活をロンドンで送ることとなり、これを契機としてこのムーブメントに終止符が打たれてしまった。

あれから40年近くの月日が流れた。カルドーゾは既に二期8年間も大統領を務め、ジルは現在文化大臣、カエターノは商業的にも成功したポップ・スターとなった。時代も当事者たちも変わった。

とはいえ、トロピカーリア運動が歴史の中に埋め込まれてしまったわけでは全くない。このムーブメントの多義的重要性が最近になって再評価されるようになってきたのだ。まずカエターノ本人が『熱帯の真実』という哲学的エッセイ(ちなみに彼は哲学科卒業だ)を97年に発表し、運動について自ら解読を試みたといえるが、第三者の眼で客観的分析を試みたのが、米国の社会学者クリストファー・ダンである。

今回翻訳された『トロピカーリア』は、この文化運動における「現代性と国民性」を「通時的ならびに共時的に」分析した博士論文をベースとしたものだが、空疎で難解な学術論文では全くない。徹底的な文献調査、関係者への取材を積み上げた上で書き込まれた、臨場感溢れるノンフィクション作品として読むことも出来る著作である。読者は1960年代のブラジル、なかんずくリオにタイムスリップしたような気分になって、読み出すととまらなくなるはずだ。もっとも、読む者は盛り込まれた事実のボリュームとその解説の丁寧さにいささか圧倒されてしまうかもしれないが。

例えば、この運動のルーツの一つが1920年代のモデルニズモであり、そのラディカルな提唱者オズヴァルド・デ・アンドラーデの『食人習慣宣言』を自己流に読み込んだカエターノは「文化的カニバリズムの考えは、僕らトロピカリスタに手袋のようにぴったり嵌まる。僕らはビートルズやジミー・ヘンドリックスらを喰らっているんだ」と発言しているが、ブラジル文化史の複層がアバンギャルド的に凝縮した運動ともいえるだろう。
ブラジル音楽が今日巨大な産業にもなっている背景、理由も見えてくる著作であり、音楽に限らずブラジルに興味を有する者にはお奨めの逸品である。(評者:岸和田仁)