会報『ブラジル特報』 2009年5月号掲載
<アマゾン日本人移住80周年記念寄稿>
堤 剛太(アマゾン日本人移住80周年祭典委員会 統括)

 

パラー州の州都ベレン市から、国道を東の方角へ車で1時間ほど走った地点にカスタニヤールという、人口15万人ほどの地方都市がある。古くから、農村地帯として開けた町で現在も町の周辺には牧場や農園が広がっており、日系人も250家族ほどがこの地に居住している。
アマゾン地方に、日本人移民が入植して本年9月でちょうど80周年目を迎える。その第1回移民が入った地は、ベレンの町から南へ230km離れたトメアスーという名の町である。実は、この第1回移民が1929年にトメアスー(当時はアカラー)へ入る3年前に、カスタニヤールの町にニューヨーク在住の日系人の有志達が3,000ヘクタール近い農園を購入していたという、今ではほとんど知る人もいない史実が残されているのだ。恐らく、アマゾン地方で日系人が初めて農園を所有したケースではないだろうか。この農園は後に、日本からアマゾン移民を送り出す南拓(南米拓殖)の農事試験場として利用されているが、なぜニューヨーク在住の日系人達がアマゾンの地にこのような投資を当時行ったのだろうか。

年の初めのことであった。カスタニヤール日系人会の山瀬楢雄理事から「南拓の試験場跡地が残っているんだけど、見にきませんか」と、誘いの言葉を掛けられた。たまたま、サンパウロから80周年関連の取材で当地に来ていた、サンパウロ新聞の松本浩治記者と連れ立ち70km先の同地を目指した。
カスタニヤールの日系人会では、この歴史的に貴重な南拓農事試験場の跡地を何とか保存したいと、以前より運動していたのを耳にしていた。南拓以前に、南米企業組合(ニューヨークの日系有志達が作った組合)が土地を購入していたことも調べており、同日系人会の関係者が筆者の下へも何度かその件で足を運んでいた。一度、現地を訪れてみたいと思っていたが、その日は松本記者のたっての希望もあり丁度よい機会となった。1時間ほど国道を走りカスタニヤールの町に入ると、山瀬理事はある私立学校の前に車を停めるように指示した。

車を降りて学校の建物の中に入ると高齢の婦人が出迎えてくれた。山瀬理事が、「この学校の理事さんです」と、我々にその方を紹介してくれた。実は、このイバーナ・ナカノ・ランジェルさん(79歳)こそ、南米企業組合農園の初代支配人仲野英夫の長女であった。イバーナさんの自己紹介でその事を知り、80年前の歴史が忽然と目の前に現われた様な感じに筆者は陥り、少々戸惑いすら覚えてしまった。
日本政府の意向を受けた鐘紡(鐘淵紡績株式会社)が、アマゾン開拓のための福原調査団をパラー州へ派遣したのは1926年のことであるが、その調査団がニューヨークに寄港した折りに南米協会のリーダー村井保固が、アマゾンでの農場の購入を団長の福原八郎へ依頼したものであった。当時の米国の排日運動に危惧した、同地在住の有志たち30名ほどが南米進出を研究するために作った組織が「南米協会」であった。
同協会が、急遽南米企業組合を興し、アマゾンでの農場調達の資金を集めその資金を福原団長へと託した。この後、福原団長はパラー州での多忙な調査の合間を縫い、カスタニヤールの地にイタリア人が所有していた、2,770ヘクタールのロンバルジーア農場を購入したのであった。福原団長自身も、個人的にこの農場購入へ出資していた。農場内には、広大なサトウキビ畑やそのサトウキビから火酒(ピンガ)を作る工場や農園主の豪壮な邸宅、カスタニヤールの鉄道駅から農場までの6kmの引込み線まで揃っていた。
福原団長は、南米企業組合から農場管理の責任者が到着する間まで同農場の支配人として、鐘紡がサンパウロへ派遣していた留学生仲野英夫を同地から呼び寄せた。この地で生活を始めた仲野はやがて、農場の近辺に住んでいたブラジル人女性マリア嬢と知り合い1928年に結婚している。

生島重一の著書『アマゾン移住30年史』に、仲野の結婚についてこう記載されている。「この間に仲野はカスタニヤール町の小学校女教員マリア女史と前田光世の仲介で結婚したのである。これがアマゾン地域で邦人がブラジル婦人と結婚したはじめであるが、仲野の死後その子女は純然たるブラジル人となっている。」
この記述中にある前田光世とは、世界を舞台に異種格闘家との闘いを続けていた柔道家コンデ・コマのことである。コンデは、ベレンの町を永住の地と選び仲野の結婚の6年ほど前にすでに非日系人と結婚していた。筆者はそのことで、イバーナさんへこんな質問をしてみた「あなたのお父さんが、邦人では初めてブラジル人女性と結婚したという記録が残っていますが、コンデ・コマさんが最初ではなかったのですか?」
イバーナさんの答えは明快であった。「コンデ・コマが結婚した女性はブラジル人ではありませんよ。父は、ブラジル人と結婚したのですから第一号に間違いないでしょう」なるほど、コンデさんが結婚した女性はデジー・メイ・イリースという英国系の人であった。イバーナさんとのインタビューは、後日じっくりと時間を取って行うことにし、南米企業組合、後の南拓農事試験場跡地へと我々は向かうことにした。
市内の目抜き通りを外れ、車で走ること10分弱。広い敷地内に、幾つかの建物が見える場所で車を停めた。山瀬理事の説明で、そこがミッション系の私立学校であることがわかった。施設の中に入り車を駐車した後、敷地の奥の方へと我々は足を運んだ。
サプカイヤというブラジルナッツと同種の巨木が、周囲を圧倒するほどの迫力で枝を空中に広げていた。よく観察すると、10本ほどの巨大なサプカイヤは規則正しい間隔で植えつけられていた。樹齢百年をはるかに越していそうなこの古木こそ、農園の往時を偲ばせる遺産であった。もう一つ、当時の建物の廃墟跡もあった。古い煉瓦の残骸が、高さ2m半、長さ20mほどアーチ状に積み上げられてある。裏手に回ると、階段らしきものも取り付けられてある。当時の邸宅か、事務所の土台だったのだろう。

話は変わるが、筆者は昨年末にアマゾナス州マウエスの町を訪れている。アマゾン河の中流地帯に位置するこの地は、精力剤として知られているグァラナの原産地である。このグァラナ栽培のために、日本でアマゾン興業株式会社という民間企業が設立されその会社の役員大石小作に引き連られた社員7名が、リオデジャネイロから沿岸航路の船に乗り換えアマゾン河を2ヵ月間掛け、マウエスの地へとたどり着いている。これは、南拓移民がトメアスーへ入る1年前の出来事である。筆者の同地訪問の目的は、アマゾン日本人移民が開始される以前に開拓の斧が振るわれた地を確認することと、同地へその後入植した130名ほどのアマゾン興業社員達の子孫の消息を調べることであった。トメアスーに入植した、公式のアマゾン日本人移民についての資料は関係者等によって割りに良く保存されている。しかし、徒花みたいに咲きやがて散って行ったこれらの私的開拓地の歴史は誰にも語り継がれることはない。

アマゾンの日系社会は現在、戦前移住者がほんの一握りの数になり戦後移住者も移住当時の家長は年毎に減少し、準二世と呼ばれる移住当時の子供達が還暦を迎えている現況である。二世、三世、四世の人口がブラジル社会の中で裾野を広げ、年々発展してゆく日系社会だが現地社会への同化現象が進みやがて、先人の足跡など顧みられる事も無い日がやって来るかもしれない。
緑の地獄とまで称された過酷な熱帯雨林地帯を舞台に、日本人移民が脈脈と綴ってきた壮絶な開拓のドラマの検証を、この機会に我々は是非進めて行かねばならない。80年の誇りある歴史を、次の世代へ伝えるためにも。