会報『ブラジル特報』 2007年
5月号掲載

         政岡 勝治(芦屋大学教授 経営学博士)



カポエィラとは

 カポエィラは、ブラジルの最初の首都である現在のバイヤ州サルバドール市で、黒人奴隷が自己防御のために編み出したブラジル固有の格闘技である。カポエィラ誕生は約400年前に遡るといわれている。

 昔のカポエィラには、ならず者や犯罪者がナイフなども用い喧嘩の手段のひとつとして使われた側面があった。
こうしたカポエィラを近代なものへ基盤を作り上げた者として、3名のバイアーノ(バイヤ州出身者)あげることができる。これら3名は1918年、1941年、1955年と順にカポエィラ道場を開いた。最初に道場を開いたのは、カポエィラが法律的に禁止されていた時期に、伝統的なカポエィラからヘィジョナルという攻撃性の高いスタイルを創造したメストリー・ビンバ(本名マノエル・ドス・ヘイス・マシャード1900~74年。誕生は1899年という説もある)である。

次に道場を開いたのは、ヘィジョナルの台頭に対抗すべく、伝統的カポエィラを再体系化してアンゴラというスタイルの中興の祖であるメストリー・パスチーニャ(本名ヴィセンチ・フェッレイラ・パスチーニャ 1889~82年)。そして、3番目に道場を開いたのは、カポエィラを競技スポーツに高めたメストリー・セナ(本名カルロス・セナ 1931~2002年)である。


晩年のメストリー・セナ

 カポエィラには法律で禁止されていた期間(1889~1932年)に、唄や楽器演奏が取り入れられるなど、単に格闘技としてだけは捉えられない文化を包含した多様な側面をもっている。本稿では、多様な側面を持つカポエィラの違いについて触れ、日本で初めて開催された競技大会の概要を紹介する。そして、カポエィラのスポーツ競技としての源流を述べる。

多様なカポエィラを捉える視点

 現在カポエィラは、世界130カ国以上に広まっている。教えるスタイルはヘィジョナルとアンゴラという二つに区分されている。さらに、カポエィラを一つのものとして、これら二つのスタイルの両方を教えるというコンテンポラネアというスタイルも出てきている。

カポエィラは、踊る格闘技、決着を付けない格闘技などの紹介がされることが多い。しかし、前述のように、カポエィラはもともとアフリカから連れて来られた黒人奴隷が、白人農園主など支配階級から身を守るために生み出された格闘技である。カポエィラは成立、発展過程のなかで、賢明な約束事、つまり意味のある攻防で相手に直接に打撃を与えず楽しみを重視したものと、打撃や投げ技で相手を倒す格闘性を重視したものという二つに分けることができよう。カポエィラのなかで、アンゴラというスタイルは前者で、ヘィジョナルというスタイルは後者に分類できる。ただし、ヘィジョナルでも、演武する二人が相手に打撃を当てないカポエィラの仕方は、前者の賢明な約束事のなかでカポエィラを楽しむという要素を含んでいる。どちらのスタイルでカポエィラを行うにせよ、相手の動きを見ずにアクロバットな技を繰り出し、柔軟性を競うだけでは、カポエィラではない。こういったカポエィラは、単に踊りとして映ってしまう。つまるところ近代的なカポエィラは、賢明な約束事のなかで優劣をつけずに楽しむやり方と、スポーツ競技として優劣をつけるやり方の二つに分けることができであろう。

   
第一回競技大会の開催

2006年12月17日(日)、芦屋大学福山記念館で日本カポエィラ連盟と芦屋大学の共催で第一回カポエィラ競技大会が開催された。日本カポエィラ連盟(代表パウロ・オリベイラ 愛知県)は、ブラジル人のカポエィラ指導者を中心に2005年11月に設立された。現在国内21のカポエィラ団体が加盟し、2006年5月神戸まつりでのパレード参加と路上でのデモンストレーション、同年10月神戸海洋博物館で開催された(財)日伯協会創設80周年記念イベントでのデモンストレーションなど活発な活動をしてきた。筆者は過去ブラジルでカポエィラを学び、芦屋大学でカポエィラ同好会を創設・指導し、また日本カポエィラ連盟の顧問、(財)日伯協会の評議員をしている関係上、これら活動に参画した。現在ではカポエィラが生まれたブラジルにおいても、複数の団体を纏めた競技大会はまれである。この点、静岡県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、香川県で活動する複数のカポエィラ団体が参加した今回の競技大会は、画期的なものであったといえる。今回の競技大会実現は、特に、日本カポエィラ連盟副代表ヘナト・レオン(兵庫県)、京都・大阪・和歌山地区代表のシルビオ・ディニス(大阪府)の熱意によるところが大きい。

競技種目は、1人での演武(sombra)、2人での演武(jogo combinado)、1対1での個人格闘技(contato individual)、2人ペアでの格闘技(contato de dupla)の4種目が6~42歳の男女27名で行われた。これら4種目は、怪我を防ぎまた競技性を高めるために、男女別、児童・青年・成人別、体重別、レベル別などを細かく取り決め行われた。判定方法は、1人での演武と2人での演武では、6人の審判が技の正確性、動きの創造性、音楽性の3項目を採点し、合計した。1対1の格闘技および2人ペアでの格闘技では、主審と4人の副審が3.5mの円内で繰り出される有効な攻撃技や倒し技を加点し、反対に手の使用や顔面攻撃などの禁止技を減点し、これら合計で判定を行った。

スポーツ競技の源流

カルロス・セナ(1931~2002)は、メストリー・ビンバの直弟子の一人であった。1953年にメストリー・ビンバ率いるグループが当時のブラジル大統領ジェツリオ・バルガスへカポエィラのデモンストレーションを行った。このデモンストレーションを見たジェツリオ・バルガスは、カポエィラこそブラジルが誇る固有の格闘技であると感嘆した。カルロス・セナは、このデモンストレーションで大きな働きをし、1954年にはメストリー・ビンバ道場のテクニカル・ディレクターに就任した。そして、メストリー・ビンバの意思を継ぎさらに自分の理想を追求すべく、1955年に自らカポエィラの道場を開いた。

彼の理想は、カポエィラ・ヘィジョナルのスポーツ競技としての確立であった。カポエィラ・ヘィジョナルは、格闘技の天才であったメストリー・ビンバによって創り出された。ブラジルに大きく広がる素地が出来上がったが、さらに、多くの人がカポエィラ・ヘィジョナルを学び段階的に上達を目指すようにするために、スポーツとして練習方法、規律、競技大会などの確立が必要であった。メストリー・セナは、アバダと呼ばれるカポエィラの練習着を定め、現在もカポエィリスタ同士でかわされるサルビという挨拶を導入し、またフィタ(今日一部のグループではコーダオンという名称で引き継がれている)というカポエィリスタの実力を異なる色で示す段位の帯を制定した。このような歴史的に残ることを含め、カポエィラ・ヘィジョナルをスポーツ格闘技として定着させることに専念していった。


1977年のバイア州大会での競技

1968年と69年にリオデジャネイロで行われたシンポジウムで、カポエィラの規則と体系化について提案をした。こういった努力の結果、1972年には最初のブラジル全国競技大会が開催された。

彼は、1970年代~80年代にカポエィラ・ヘィジョナルをまとめ上げ、組織化してブラジルの国技として高めていこうとさまざまな働きかけをした。
こういった成果をまとめ、1980年に規則集を刊行した。

今日、ブラジルで全国競技大会は開かれていないようだが、各団体がそれぞれ開催するカポエィラの競技会で、この規則集が参考にされている。


   
将来ブラジルでオリンピックが開催されれば、ブラジルは開催国の権利としてカポエィラを競技種目に選ぶ可能性が大いにある。そうなれば、カポエィラはメストリー・セナが目指した競技スポーツとしても脚光を浴びていくであろう。