会報『ブラジル特報』 2007年
11月号掲載

                   アンジェロ・イシ(武蔵大学 社会学部准教授)


 私は毎年、共同研究や個人研究のため、日本国内のブラジル人集住地だけでなく、ブラジルでも調査を実施してきた。これらの調査はその学問的成果ももちろん重要だが、私にとっては、それとは別に、「手みやげ」という「成果」も楽しみの一つである。いい換えれば、訪れた地域の食物を賞味し、保存が可能な物なら余分に持ち帰るのだ。この原稿を書きながら、今、口にしているのは、市町村別では最もブラジル人住民の数が多い静岡県浜松市のスーパー、セルビツーで購入してクール宅急便で送ってもらったトロピカル・フルーツのジュースだ。アセロラを始め、最近は日本での知名度が急激に高まっているアサイーや、まだまだ知られていないピタンガやクプアスなど、様々な珍味が楽しめるのは、もう「ありがたい」の一言である。とくに気に入っているのはカカオのジュースだ(カカオはチョコレートの原料として知られているが、このジュースは意外にも色が白い)。これらの果肉や果汁はすべて冷凍された形で届けられ、ミキサーで回すだけで、簡単に飲める。しかし、このように詳しく書いているのは、商品や商店の宣伝をするためでもなければ、皆さんの口から涎を垂らすためでもない。次の二点について注目を促したいからに他ならない。一点目は、ここ数年の間に、日本で(少なくとも日本在住のブラジル人の間で)流通するブラジル産のトロピカル・フルーツジュースの種類が劇的に多様化したことである。そして二点目は、日本で流通するこれらのジュースの多くが、トメアスーという地域から直送されているということだ。

 私がただ今飲んでいるジュースのパックにも、生産地が明確にCAMTAと表示されている。CAMTAとは、Cooperativa Agricola
Mista de Tome-Acu、すなわちトメアスー総合農業協同組合の略語である。トメアスーといえば、誰もが連想するのは「胡椒の産地」だろう。確かに、ブラジルの歴史教科書にまで書かれているとおり、この地域では20世紀初頭に日系人移民が最初の胡椒の苗を持ち込んで以来、数十年に渡って「黒いダイヤ」の生産を通して栄えてきた。しかし、トメアスーという地名は聞いたことがあっても、そこを訪れた人はそう多くはない。同市はパラ州のアマゾン地帯に位置し、ブラジルの日系人集住地の中でも、(とくにサンパウロ市に住んでいる者や、日本からの来訪者にとっては)最も不便な場所として知られてきた。

 私は今まで二度だけ、トメアスーを訪れた。いずれも日本からの社会学の研究者と一緒で、デカセギ現象の影響を調査するのが主目的であった。最初の訪問は1992年で、日本へのデカセギ・ブームのまっただ中であった。当時、トメアスーの日系人世帯の約8割から、必ず誰かが日本にデカセギに行っているといわれていた。とりわけ病院でヘルパーや家政婦として働くための女性の渡日が目立っていた。

 当時、私はまだ大学院生だったが、トメアスーは「とにかく遠い所」という印象が強烈に残っている。人も荷物も真っ赤な土ぼこりをたっぷり浴びながら、一日がかりでようやくたどり着いたのを覚えている。道路事情はお世辞にも良いとはいえず、途中でバスごと小船に乗って川を渡らなければならなかった。

 その頃は日系人の文化協会の敷地内に学生寮があり、我々はそこに約一週間にわたってお世話になったが、毎晩のように蚊と闘っていた。つらい体験もいろいろあったが、良い思い出も山ほどある。とりわけ記憶に刻まれているのは、日本で息子たちが稼いだお金のおかげで、盛大に祝われたある夫婦の金婚式に急きょ招かれたことだ。他にも、地元のリーダーたちが「世界で最も会員権が安いよ」と自慢して連れて行ってくれたゴルフ場で、生まれて初めて体験したゴルフも忘れがたい。

芳名帳に綴った本音

 文化協会には、来訪者に必ず一筆させる芳名帳があり、我々の調査団も例に漏れず、一言ずつ書いた。私はいちおう、「また必ず来ます」とは書いたものの、内心、果たしていつか再訪できるか、まったく自信はなかった。

 ところが、15年の歳月を経て、今年の8月、二度目のトメアスー訪問が叶うことになった。別の研究グループが、同じくデカセギ移民現象の諸相を調査する目的で、トメアスー行きを熱望したのだ。

 今回の訪問では、良い意味で「浦島太郎」気分を味わった。まず、アスファルトが敷かれた道が増え、交通事情が想像以上に改善されていた。次に、クアトロ・ボーカス(日系人団体が集中している繁華街)地区に新設されたホテルの快適さにも、同行していた日本からの研究者たちは感激していた。私の助言で彼らが大量に持ち込んだ蚊取り線香は不要だった。

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 トメアスーのニッケイ小中学校

 懐かしい学生寮はリフォームされ、学校に様変わりしていた。そこには、デカセギのため日本で働いている親の子供も多数、在学している。15年前に寮を管理していた角田さんもご健在で、久々にお会いできた。彼の家族が経営するカラオケバーには、日系人ばかりでなく、大勢の非日系のブラジル人が詰めかけていた。演歌とセルタネージャ音楽(いわずと知れたブラジルのカントリー・ミュージック)が違和感なく共存し、理屈抜きの「多文化共生」が実践されていた。角田さんは「屋外で飲もう」と、クアトロ・ボーカスの中心にある公園に案内してくれた。パウリスターノ(サンパウロっ子)の私は思わず、「大丈夫ですか、危なくないですか?」と、強盗や誘拐犯を警戒した。しかし、行ってみれば、地元の住民らが実にリラックス・ムードで、ビールを片手に星空(しかも、月夜!)を眺めていた。同じ農村でも、例えば去年、私が訪れたサンパウロ市近郊のスザノにある福博村の住民に比べれば、体感治安は比べものにならないほどよく、驚いた。もちろん、トメアスーの治安が完璧だということではないが、福博村のように、日系人が怯えながら毎日を送っている悲壮感が、ここではあまり感じられなかった。角田さんが今、とくに熱を入れているのは、防犯対策でもなければビジネスがらみのプロジェクトでもない。文化協会の建物の二階にある移民資料館のリニューアル計画である。ぜひその夢が実現するよう、官民を問わず、日本からの援助にも期待したいものだ。

 我々の調査の目玉の一つは、CAMTAが経営するジュース工場を見学し、最新事情を聴取することだった。15年前に訪れた際、ジュース工場はまだ発展途上段階にあった。胡椒栽培の衰退から得た教訓で、組合は農産物の多角化に取り組み、再生を図るための最大の武器がこの工場だった。当時は販売ルートは国内のみだったが、まさか、2007年現在、これほど簡単にその産物が日本で入手できるようになろうとは、夢にも思わなかった。(ちなみに、周知のとおり、これらのジュースはブラジル商品店のみならず、日本の有名な飲食チェーン店でも飲めるようになった。)  

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 トメアスー農協でのアセロラ・ジュース製造

 日本で稼いだお金でトメアスーに戻り、ビジネスを起業して成功した人たちも数名インタビューした。彼らは「ここでは、お金はうまく動いて活気がある」と、本音を語ってくれた。

 まだ大勢のトメアスー出身者が日本に止まって働き続けている。そのうち、何人が実際に帰郷するのか、未知数であり、帰郷したとしても、成功が約束されているわけではもちろんない。しかし、サンパウロのような大都会とはひと味違うリスタート(復帰)の可能性や道筋が、この地域で着々と用意されていることもまた、まぎれもない事実である。

 二度目の訪問の際、芳名帳には「必ずまた来ます」と書いた。15年前と違って、今回の言葉は単なる挨拶言葉ではない。いつになるかは判らないが、それまでは産地直送のジュースを嗜むことによって、ノスタルジーに浸りつつ、トメアスー経済の活性化へのささやかな貢献を続けたい。