会報『ブラジル特報』 2007年
11月号掲載

                 岸和田 仁 (NIAGRO-ニチレイ ブラジル農産取締役―駐レシーフェ)



ポルトガル人により「発見」されたのが1502年10月2日で、聖人フランシスコ・デ・アシスの生誕日に当たることから「聖フランシスコ河」と名付けられた河は、5つの州(ミナスジェライス、バイーア、ペルナンブーコ、アラゴアス、セルジッペ)を通過し古くから水上交通を通じて東北伯と南伯を結び付けてきたため「国家統合の河」といわれてきた。最近になってエコロジー聖人とみなされている人物由来の河の流域で、同様の経緯で命名された米国西海岸の大都市が属するカリフォルニア州で開発された灌漑農業技術を適用した新農業フロンティアが形成されている。ペトロリーナとジュアゼイロというサンフランシスコ河を挟む双子都市を中心とする「新カルフォルニア」と呼ばれる地域の歴史的背景と概況をざっと追いかけておきたい。

ノルデスチ(東北伯)を地理的に三つに大別すると、沿岸部がゾナ・ダ・マタと呼ばれる熱帯季節林地帯で、その内側にアグレスチという半乾燥の中間漸移地帯があり、最奥部がセルタンと称される内陸乾燥地帯である。沿岸部では16世紀後半からサトウキビ栽培が行われ、ブラジル経済史における最初の富の創出がなされたことは周知の通りであるが、セルタンはサボテンや有棘潅木をまじえる広葉潅木林で覆われた乾燥地域である。年間降雨量が400mmから700mm程度しかなく、しかも降雨は不規則になることもしばしばでセッカと呼ばれる旱魃が繰り返し起きてきた。

セッカについては地理学者の間でも8年周期説や15年周期説が行なわれているが、記録に残っているもので一番古いのは、1583年、1587年、1603年、1608年、1614年といったところだ。最近では1979年から83年まで5年続いたセッカが農業生産に大打撃を与えたが、ブラジル史上最悪といわれる1877~79年の大旱魃の時は、人も牛もバタバタと倒れ、農作物の収穫はゼロ、飢えと疫病で50万人近くの死者が出たとされる。多くのセルタン住民がゴム景気にひかれてアマゾン奥地へ移動し、セリンゲイロ(ゴム採取労働者)となったのも、この大セッカが原因であった。

このセルタンにおける伝統的な土地利用・農業としては、河畔農業、粗放的牧畜、自給農業、限定的な商品作物をあげることができる。サンフランシスコ河のバルゼア(河畔)は雨季の半年間は水没しているが、水位が下がり始める5月頃から、サトウキビ、トウモロコシ、いんげん豆などの自給作物を植えていた。この河畔農業はアラブから学んだポルトガル人が生み出した土地利用であったが、ダムの建設によって1970年代には霧消していく。乾燥地帯での粗放的牧畜(牛ないしヤギ)は輪作型自給農業(トウモロコシやいんげん豆、マンジオカと牧草・ウチワサボテンの輪作)と連携して今日でも行なわれており、換金商品作物としては綿花、サイザル麻(アガーベ)、ヒマが植えられてきたが、いずれも降雨量に左右される脆弱な農業である。

こうしたノルデスチの旱魃を「国家的問題」として最初に公式認定したのは、1880年代の帝政政権であったが、1908年設立のIOCS(旱魃対策事業所)を嚆矢として様々な旱魃対策が模索されてきた。1936年にはPoligono das Secas(旱魃多角形地帯法)が成立、1945年IOCSが改組されたIFOCS(連邦旱魃対策事業所)を再編しDNOCS(全国旱魃対策事業局)となり、アスージ(ため池)の造成が本格化する。1948年、米国のTVAをモデルとして灌漑農業を推進するべくCVSV(サンフランシスコ河流域開発委員会)を設立、これが1967年SUVALE(サンフランシスコ河流域開発庁)へ改組され、ようやく灌漑農業プロジェクトが始動し始める。1959年設立されたSUDENE(東北伯開発庁)がFAO(国連食糧農業機関)と共同で「サンフランシスコ河中流域灌漑基本プラン」を発表したのも1967年であった。    

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灌漑によるマンゴ栽培


最初の本格的な灌漑農業プロジェクトであるベベドウロ計画が開始されたのが、1968年であったが、サンフランシスコ河中流域における灌漑農業が本当に開発されるようになったのは、1978年のソブラディーニョ人造湖・ダムの完成以降、といってよいだろう。

ペトロリーナ市から約30km上流に位置するこのダムは1972年に工事が開始されたが、その主な目的は三つあった。すなわち、1)電源開発(発電能力105万KW)、2)下流のパウロアフォンソダムへの注水量調整・安定化(最小流水量2,060?/秒、最大流水量5,500?/秒)、3)灌漑用水の確保、であった。ダムによって生まれた人造湖は総面積4,214?(日本の瀬戸内海とほぼ同じ)、貯水量340億トンという巨大なものである。

1974年、SUVALEをCODEVASF(サンフランシスコ河流域開発公社)へ改組した政府は、ソブラディーニョ湖の完成と並行して複数の灌漑プロジェクトを立ち上げ、実施していく。主なものを列記すれば、ベベドウロ(設立1968年)、マンダカル(1973年)、トウラン(1976年)、第二ベベドウロ(1981年)、マニソバ(1982年)、クラサ(1982年)、ニーロ・コエリョ(1984年)、といったところだが、これらプロジェクトすべてを合計すれば、総面積104,978ha、灌漑可能面積42,692haとなる。その後開発されたプロジェクトを加えれば、中流域で7万ha以上の灌漑可能面積となっている。(もっと楽観的な見方によれば、サンフランシスコ河流域全体で80万haまで灌漑可能とのことだ。)

当初は地元民を対象とした耕地分譲(正確には永代使用権の委譲)が主体であったが、生産量をあげていくために南伯出身者、企業、外国資本にも分譲対象を広げた。さらに南伯の日系人が多数入植したことも大いに貢献して、熱帯果物を主体とする灌漑農業が1980年代から本格化していくのである。

ここでEMbrAPA(ブラジル農牧研究公社)並びにIbrAF(ブラジル果物協会)のデータに基づき、主要作物別の収穫量の推移を見ておこう。マンゴは、1991年植付け面積3,220ha収穫量8,000tであったが、1994年6,200ha、35,000t、2005年18,000ha、270,000tへと急上昇(ちなみにIBGE(ブラジル地理統計院)のデータでは、2005年のブラジル全収穫量100万t、州別ではバイーア州39.8万t、サンパウロ州20.4万t、ペルナンブーコ州15.2万ton)、ブドウも1991年2,620ha、32,000t、1994年4,100ha、62,000t、2005年10,000ha、240,000tとなっている。2005年のその他果実データをみると、バナナ5,400ha、160,000t、グァバ3,500ha、112,000t、ココヤシ12,000ha、576百万個、アセロラ700ha、18,000tとなっている。

輸出についていえば、2005年のデータでは、ブラジル全体のマンゴ輸出量113,758tのうち104,657tが、ブドウの例では全体51,213tのうち48,652tが、サンフランシスコ河中流域から出荷されている。全輸出量のそれぞれ92%、95%という数字であり、簡単にいえばペトロリーナ地区がブラジル全体のトロピカルフルーツ輸出を支えている構造になっているということだ。

かつては干乾びた痩せ地でしかなかった土地が現在ブラジル有数のフルーツを主体とする農業生産地に変貌した、これがサンフランシスコ河中流域の現状である。ただし、すべてバラ色という訳ではない。過剰生産による相場下落、為替高による輸出業者の苦境、為替リスクを分散するべく国内販売を増やすがゆえの供給過多による一層の国内相場ダウン、こうした一連のマイナス要因により耕地を手放す農家もここにきて増えてきている。これもまた冷厳な現実である。