会報『ブラジル特報』 2008年3月号掲載
―70年代ブラジルの経済ナショナリズム― 飯田 治(嘉悦大学特任教授・元本田技研工業取締役)
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リオデジャネイロで乗り換えたYS11が高度を下げる。翼下をかすめんばかりの摩天楼に度肝を抜かれているうちにサンパウロはコンゴーニャス空港に着陸した。1968年5月のことである。以来40年に亘る私のブラジルとのお付き合いは、南米のニューヨーク、サンパウロから始まった。 定宿はセントロのプラッサ・ダ・レプブリカにほど近いオテル・カ・ドーロ。フォルクスワーゲン2ドア、通称甲虫のタクシーは、コンゴーニャス空港からアヴェニーダ・サントアマーロを通って、40分ほどかけてホテルに到着する。波打つ舗装と穴や溝が目立つ道路は乗用車、ヴァン、バス、トラックに占領され、排気と騒音は鼻や耳を塞ぎたくなるような有様。まさに、馬車から一気に自動車社会へ移行したブラジルの縮図であった。当時のブラジル自動車産業はフォルクスワーゲンが市場の60%を占めるVW全盛時代。乗用車に加え、大型バスが煙突から黒煙を盛大に吐き出しながら我が物顔に走る。派手な模様や箴言を車体一杯に描いたトラックが轟音を響かせ走り去る・・・サンパウロの街路は喧騒、混沌の顔の下に不思議なエネルギーが漲るブラジルの象徴であるかに見えた。 この地に二輪車を植えつけるのだ、でもどうやって? 長期出張の都度ぶつかった大命題であった。「ワーゲンのように企業の命運を賭けて、会社ごと引越しするくらい大規模に出てこなければブラジルでは成功しません」とは、当時「ブラジル進出成功の鍵は?」と尋ねる度に日・伯の政財界人が異口同音に下したご託宣であった。軍事政権の下、インフレ克服に努め、経済発展の緒につきはじめたブラジルの将来性に着目したホンダは、輸入代理店経由で1967年まず発電機を手がかりに次いで二輪車の市場開拓に着手した。高関税で販売価格がCIFの3倍にもなる状況にもめげず、ホンダが現地法人ホンダ・モートル・ド・ブラジルを設立したのは71年10月で、初代支配人の私は弱冠32歳であった。前年ヤマハが現地法人を設立し、代理店体制では太刀打ちできなくなった事情もあった。
危ない、汚い、壊れる、貧乏人の乗り物、という二輪車のマイナス・イメージと戦い、委託販売という商習慣を改めつつ、新しい時代の乗り物として富裕層を中心に市場を切り開いていった。勿論、現地生産なくして将来なし、と信じていたので、日本側には生産検討チームを編成してもらい、現地側は工場建設用地を大車輪で探し廻った。その結果1974年初頭にはサンパウロ州アニャンゲイラ街道の110km、カンピーナス市に隣接するスマレに45万坪余りの土地を購入することができた。ちなみに、この土地で22年後の1996年、ホンダの四輪車生産がはじめられる。2007年の生産は10万台。高品質、低燃費のホンダ車はVW,GM,Ford,Fiatに伍して独自の地歩を固めつつある。トヨタに対しても現段階で鼻の差で、先行しているのは、ブラジル・ホンダ第一世代の一人としていささか面映い思いである。 着々と二輪車市場創造に実績を挙げつつあったが、好事魔多し、73年の第一次オイルショックから、空気ががらりと変わった。国際収支の急速な悪化、対外債務急増、IMF介入という事態に直面し、輸入抑制、さらに事実上の輸入禁止措置が採られたため、二輪車市場の拡大には現地生産が絶対条件となった。また、ITに端を発した輸入代替、国産化気運は、南部の工業先進地域と中央政界に強烈な経済ナショナリズムを醸すに至ったのは当然の成り行きといえる。多難な75年の幕開けである。
生産の成否は現地調達率60%以上に懸かるので、ある日系地場メーカーと二輪車部品生産を前提とした合弁合意書を交わし、手付金の支払いも済ませた。同社の日系二世の後継者は大変野心家で、二輪車部品生産に飽きたらず、ホンダ二輪車の生産を望んでいた。彼は時の経済ナショナリズム、輸入代替国産化の動きに乗じ、密かに中央政府に働きかけ、ホンダが提出済みの生産プロジェクトに異を唱え、同時に部品ではなく完成車の生販合弁が最善の方策だと圧力をかけてきた。完成車生産と販売を自らの主導権のない合弁に委ねる選択肢は無いので、当然拒否。交渉不調のまま生産プロジェクトはブラジリア政府で立ち往生、一方、競合するヤマハが既にサンパウロで生産を始めるに至り、ホンダが折角築いて来た独自の販売網は商品枯渇目前という空前の危機に陥った。 川中島決戦か日本海海戦か、ここでホンダの敵前回頭大作戦の発動となる。国内資本保護という経済ナショナリズムが経済危機と南部工業界の圧力に誘発された国策なら、周辺諸国と国境を接し、膨大な天然資源が眠っていながら過疎、未開発のアマゾン開発もまた国策。地政学的にも、こちらの国家戦略上のニーズは経済再建のニーズに勝るとも劣らない筈。ナショナリズム高揚のこの時期、敵視される外国資本の生きる道は国策への積極的貢献であると判断し、マナウス自由港地域監督庁(SUFRAMA)の門を叩いた。マナウスの輸入代理店と連携してプロジェクトの早期認可を働きかけたが、南部商工業界のマナウス自由港に対する反感、反対は想像以上に強かった。本来、現地調達義務なしの自由港地域恩典にも拘らず、自主的に32%実行を申請するなど、南北の綱引きの渦中で、なんとか認可に漕ぎつけ、記録的スピードで76年後半には生産を開始することができた。生産会社に現地代理店の資本参加(36%)を得たことも、その後のSUFRAMAやアマゾーナス州との折衝やホンダの真摯な事業展開に対するブラジリア政府の理解増進にも大きな力となった。(現在は生産と販売を合体した現業会社が南米本社の傘下で活動している) その後紆余曲折はあるもののホンダの二輪車は、快進撃。今や、ブラジル全土で日常の風景の一部と化した観があり、2007年の生産は150万台、シェア80%を誇っている。マナウス工業団地は二輪車および部品メーカーの集積地に成長している。失われた10年(85~94)の間に、かつてブラジルの誇りであった南部ブラジル機械工業の有力企業は、ほとんど例外なく外資に買収され、ナショナリズム盛んな当時の片鱗すら留めない。世は挙げてグローバリゼーションの時代である。 南部の経済ナショナリズムがホンダをマナウスに進出させ、アマゾン地域開発というもうひとつの国策実現に貢献できたのは歴史の皮肉とでもいうほかない。今となっては知る人も少ない、経済南北戦争がホンダのマナウス進出を後押ししたというお話である。 21世紀の大国、と揶揄を込めて呼ばれていたブラジルが21世紀の今日、現実の大国として存在感を示している。ブラジルが中・印と異なり、BRIC’sの中で安定的な成長を示しているのは、同国のインフラや社会制度が進んでいる証左であるといえよう。バブル崩壊後、本社の危急とばかりブラジルから引き上げてしまった日本企業の何と多かったことか。今からでも遅くはない。長期的に、じっくりと構え、「小さく生んで、大きく育てる」方針で進出しても十分に成功は期待できる。71年にホンダが現地法人を作ったときの事業計画は販売台数年間3,600台。資本金はわずか150万ドルであったことを付記して本稿を締めくくる。
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