会報『ブラジル特報』 2008年7月号掲載
フォンセカ酒井・アルベルト清(城西国際大学語学教育センター助教)
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カセギの時期区分
日本ブラジル交流年として、各メディアでも日本人のブラジル移住の歴史が広く取り上げられている今日。いわゆる「デカセギ」現象によって1980年代から日本へ渡ったブラジル人ないし南米出身者の現状も一般的に知られるようになってきたといえる。今一度その流れを振り返って、日本社会にとってどういう意味を持つのかをここで考えたい。 研究者によって若干解釈は異なるが、デカセギ現象は4つから6つの時期に区分されることが多い。デカセギの前史とも呼びうる期間(1980年代~90年)に渡ってきた人びとは、主に日系一世の男性だった。経済的困難に直面した人びとが文字どおりの「出稼ぎ」目的で短期間来日していたのである。日本国籍を有しているため、この日系人たちは問題なく日本と南米を行き来することができたが、その人数規模はまだ少なかった。ただし、日本への出稼ぎ斡旋は組織的に行われるようになり、そのルートが制度化された時期でもあるいわれている。 本格的にデカセギが始まったのは、日系人二世や三世の入国と就労を正式に可能とした改定入国管理法が施行された1990年である。それにともなってデカセギ者が急激に増加し、出身地域と社会層の多様化、そして年齢層の若年化のような特徴が現れる。周知のように、この人びとは主に人手不足に悩まされていた製造業の労働力になり、東海道地方や群馬県などに集住する傾向があった。 1990年代半ば以降は、デカセギはもはや「出稼ぎ」ではなく、日本滞在の長期化の兆しを見せてくる。彼らの居住地も全国的に拡散し、様ざま職業に従事するようになる。
これらのメディアは、特定の文化的・民族的マイノリティ向けに発信される媒体であるため、「エスニック・メディア」と呼ばれている。特に新聞などの報道メディアに焦点を当てると、どのようなニュースが在日ブラジル人に注目されてきたかが分かる。当然といえるかもしれないが、ニュース内容の変遷は先述のデカセギの時期区分に対応しているのである。最初は短期的な日本滞在が前提とされていたため、ブラジルや南米の事情が主として取り上げられていたが、徐々に日本の情勢が報じられることが多くなり、さらにコミュニティの統合を目指す言説や実践がみられるようになる。
1990年代後半からは、ブラジル人コミュニティが定着するにつれ、自らの権利を主張する反面、子供たちにつきまとう教育や犯罪の問題が報道されるようになる。これについて少し触れることにしよう。在日ブラジル人の犯罪は多方面から問題化されてきており、例えばサンパウロ大学法学部とロンドリーナ州立大学で2002年8月に行われた伯日比較法学会主催の「日伯比較法及び在日ブラジル人就労者に関する国際シンポジウム」で採択された「サンパウロ・ロンドリーナ宣言」でも、非行の問題が大きな焦点になった。
しかし、実際に統計的にみても、ブラジル人の犯罪率は日本人のそれより著しく多い訳ではない。もちろん非行は実在する問題であり、早急な解決が必要である。ただし、人びとが脅威として感じているものはマスメディアの作用などによって増幅されているのであり、一種のモラル・パニックが蔓延しているのではないかと私は思う。
むしろ、犯罪について語られるときに重要なのは、ブラジル人と日本社会の関係がいかに定義付けられるのか、という点である。つまり、犯罪を非難することによって、ブラジル人コミュニティのある種の合意が模索され、それと同時に「日本」とどう付き合うべきかということが議論されるのである。例えば、移民を寛大に受け入れる体制が必要なのか、それともより厳しく取り締まるべきなのか、ホスト社会をいかに尊敬すればよいのか、などのように。 また、ブラジル人児童の教育について語られる際も、不就学や学校への不適応の問題を日本政府の責任として訴えるだけではなく、自ら状況を改善しようという方向性の変化を見出すことができる。短期間で大金を貯める夢を求めに来た親が、仕事に追われながら日本滞在が長期化していくにつれ、子供の将来にまで考えが及ばない状況が生じる。すなわち、デカセギという状況の中で、不就学という結果が引き起こされるある種の必然性があり、そのことが最終的に犯罪につながるという構図が頻繁に提示されてきた。しかし、その状況を非難するばかりだと将来に対して積極的な態度を持ち得なくなるため、次世代の刺激になるような「成功した」ブラジル人少年・少女に脚光を浴びせるようになった。 以上のような報道を通して、在日ブラジル人は日本社会との共生を見つめ直してきたといえる。しかし、日本社会も自らを見つめ直すべきではないだろうか。
新たな視点に向けて 多くの研究では、デカセギ者は日系人、ブラジル人、もしくは日本人としてどのようにアイデンティファイできるのかが問われており、これらの範疇に分類できない新たなアイデンティティが誕生しつつあることが主張されている。労働者として来日した日系人たちは、もともと多様な国籍や背景を持っている上、日本では固定的な枠組みを超えたリアリティを生きている。日本と母国の文化の相違から生まれる葛藤や劣悪な労働を経験することもあるが、工場のラインや外国人集住団地などでは豊かな「多文化的」環境が生まれたのも事実である。 「日系人問題」は、もはや「日系人」もしくは「ブラジル人」または「外国人」だけの問題ではないのではないだろうか。これらのカテゴリーに沿った視点は、特に次世代にとっては現実味のないものになりつつあるだろう。 本稿を執筆中に、自民党の外国人材交流推進議員連盟が今後50年間で1000万人の移民を受け入れる提言をまとめた。日本の総人口の10%を移民が占める「移民国家」を目指しているこの提言は、自民党内のみならず国内で広範な論議をもたらすと期待できる。国籍や文化的背景がどうであれ、日本にいる外国人を単なる「ゲスト」としてではなく、日本社会の一部として認識されるようになってきた証しであるといえよう。こういった新たな社会関係の中で、20年間来日してきたブラジル人、そして今後来るであろうブラジル人の位置付けを考えなおす必要性も迫ってきた。 |