会報『ブラジル特報』 2008年
9月号掲載

                      細川 多美子(在サンパウロ、ブラジル文化情報誌“Bumba”編集長)


 「カーニバルにおける日本移民テーマは、日本ブラジル間の友好をうたったものの、現実はむしろ相互理解の浅さが露見し、厚い壁、深い溝、遠い距離が浮き彫りにされた」。今年2月のカーニバル直後、とある雑誌にそう書いた。

 文化を通して何かの形でブラジルを説明したいとあれこれ模索するが、何をいおうとしてもいってしまうとどこかバランスが悪かったり見落としがあるかもしれないという不安にかられ、「とてもまとめるのは無理」とお手上げの気分になる。しかし、百年という節目にあっては、発展継続中の一過程として、総括しない形といえども、文章的にはなんらかの落とし前をつけなければならないだろうということで、行ったり来たりの逆説表現を繰り返したあげく、「日本ブラジル間の交流はまだまだ浅い」と具体的な事象についての考察を素っ飛ばした形で、結論をすり替えてしまった。

 6月18日の移民の日を中心とした公式行事をはじめとする数々のイベントは年末まで続くが、8月現在すでに大半を終えた感で熱は冷めつつある。この時点で感じるのは、やはり目の前に立ちはだかる「厚い壁」である。主人公であるブラジルと日系社会、そして日本。この三者の間に流れる川は、ネグロ川とチエテ川、石狩川くらい温度差のあることが見てとれた。この三者は「百周年」という軸の周辺で、同じものを目の前にしながら違う解釈を与えたり勘違いしたり、それぞれが交錯しながら新たな百年に向けての夢と希望を示した。移民とは呼べない日本育ちブラジル在住20年の自分だけの視点からいえば発見ともいえ、現実的な形で感触をつかめたことは大きな収穫だった。

 各地官民巻き込んでの催しは、すべてを把握するのがとても不可能なほどたくさんあるが、サンパウロ市内で行われた展覧会には比較的大きなものに次の3つがあった。レアル銀行(南米銀行を吸収したスダメリス銀行をさらに吸収した銀行)主催の「私たちひとりひとりの日本」、SESC(商業関連レジャー福祉施設)の「TOKYOGAQUI=東京の画(イメージ)Aqui(ここサンパウロに)」、アブリル出版とサンパウロ州文化局共催による「Japão  daqui (この地の日本)」だ。それらはブラジルの組織が企画・主催したもので、タイトルに表れているように、テーマは「ブラジルにおける日本性」であり、いわゆるオリジナル日本とは一線を画した。

  
ユニークな展示で日系の存在感をアピール

 ブラジルでいう“ジャポネース”は、日本の日本人もブラジルにいる日本人移民もその子孫二世、三世も、時には混血になっても、つり目で出っ歯はDNA的括りでジャポネースであり、日本語でいう日系人との境がなく非常にまぎらわしい。しかし、これら展覧会の中ではブラジル生まれのジャポネースをあえて“ニッポ・ブラジレイロ”と強調するフシがあり、それに連動して日本的な文化を“日系文化”として扱い、あくまでもブラジルで花開いた日系人とブラジル人の手による文化として展示するという形態をとった。そこには陶器に活けられた花ニラや、左前の浴衣風ドレスがあった。日本文化といわれたらイカサマだと異議を唱えたくなるが、すでに日本から脱皮した別種のものであるという認識のもとには、豊かな独創性やここまで根付かせた人々のたくましさ、広く受け入れた許容力などに深く感心せずにはいられなくなる。折り鶴ならぬ折りインコや、アラブ系やイタリア系陶芸家の奔放な作品、トロピカルにデザインされたゴム草履など、なじみのものであるようなそうでないような、不思議な生命力を帯びて存在していた。

舞っているのは融合の証、折りインコ

 これは、ブラジル社会で生まれ育った日系文化を全国民が享受しているということを検証するブラジルサイドの視点だ。日本の焼きそばはソースだが、ブラジルのヤキソバは醤油味かあんかけである、という主張である。文化習慣は確立というレベルに達するのに百年という時間では足りないのだろう、日本の「半端なコピー」という印象を与えるものには歯がゆい思いもないわけではない。伝統を畏れぬ大胆さ、本家を知らないがゆえにできる勇気ある行為(暴挙?)と見ることもできる。

 しかし、知らないという無邪気な白紙部分については日本の側にもあって、それが二国を隔てる致命的な溝を掘っている。前述の展覧会のコンセプトを説明するキーワード「Convivência(共生、共存)」と「Compartilhamento(分かち合い、共有)」、この日本語訳は非常に分かりにくい。知人のインディオがいう「人は誰も未知のものの価値を尊重しない」という嘆きの言葉を思い出し、自戒をこめてこの2単語の意味を考えたい。

 本当にいいたいところは、「移民一世、その子孫二世、三世、四世はブラジル国民を変化させ、自らもブラジル人との交わりの中で変化を遂げた。価値観や創造性、知識体系、技術や情感をともに分かち合いながら、日系人とブラジル人は文化の壁を乗り越え、必然的に両面通行という形で継承文化を再生し、同化・融合を進めてきた」(展示会「私たちひとりひとりの日本」テキストより)ということである。ブラジル社会と日系社会は生活文化を共に体験し、その経験を共有し、互いに影響を与えながらブラジルの発展を支えてきた仲間であるという。

 式典におけるスピーチなどでも「共生」と訳されていたのは、適当な訳語が見当たらないせいだと思うが、共生といえばクマノミとイソギンチャク、昆虫とバクテリア、もう少し広げても人と動物の関係といったイメージが先に立ってしまう。心理学の世界では人間同士の場合でも必ずしも好ましい状況をいうわけではないようだし、ブラジル社会と日系社会の関係を説明するには日本語の観念が追いついていない。いくつものアイデンティティがぶつかり合うことのない日本では経験不可能だから、そもそもそういう言葉が存在しなかったのだろう。

 ブラジル人は、すでに無意識レベルで自分たちが考える以上に日本化した習慣と共に生きている。スシもサシミもマンガもコスプレもすっかり自分たちの細胞に取り込み、カキやポンカンなどは最初からブラジルにあったが如くそれが日本語であることすら知らず、ニラ、ホウレンソウなどと発音しにくい名称もそのままいうようになってきた。

 本来この相互交流こそが両国をつなぐ材料であるにもかかわらず、ブラジル国内でこの共生関係が進化していくと、日本からはますます理解しがたいものになり、実は両国間の溝がもっと深くなっていくかもしれないとすると心配だ。

 一方、日本移民に限らず様々な移民文化が並行して存在しながら融合もしていくという世界でも稀な現象は、一緒に発展を築いた同志としてブラジル国民と各国移民コミュニティにますます誇りと自信を与えていくのだろう。こうしてブラジルは日系社会を称えつつ、それを自らの肉体の一部としてブラジルを祝った。

 日系社会の周辺には、移民中心に日々聞きなれた「郷愁」、「苦労」、「成功談」、「先達そしてブラジルへの感謝」といった言葉が飛び交い、少しトーンが落ちた。 日本の「日本ブラジル交流年」は共生が分かりにくいだけに交流の意味が浅かったか、すっと冷めた。