ジェトロ・サンパウロ所長として、2003年11月に赴任した。ブラジルには、それまで10回以上出張していたが、駐在は初めての経験であった。当初の予想に反して、極めてスムースにサンパウロ生活に融け込むことができた。その理由を自分なりに考えてみたが、イタリアのミラノ駐在経験が役立ったというのが結論である。ブラジルは2億人を超える人口を持つ世界第5位の人口大国であるが、移民によって成り立っている国である。数多くの移民の中で、一番多いのがイタリア系移民なのである。友人のイタリア貿易振興会のサンパウロ事務所長に言わせれば、8分の1の血の交わりまで入れると4,000~5,000万人くらいになると言う。日系人も150万人くらいと言われているが、同じ計算で行くと4~500万人になろう。サンパウロの名物建築を見てもイタリア系の建築家の設計によるものが多く、ブラジルのショッピングセンターに行くと、店舗のデザインや色使いは極めてイタリア的である。ファッション、ライフスタイル、あげくは、人々の明るさ、楽観主義、モノの考え方までイタリア人によく似ている。容易に融け込めたのはそのためである。
イタリア移民が本格的に始まったのは、1820年で、その後1837年にも移住の大きな波があった。1887年から1920年にかけて外国人移住者のラッシュを迎えるが、その半分以上がイタリアからの移民であった。サンパウロにはイタリア系がたくさん住んでいる居住区がある。例えば、ブラス、ベシーガ、ボン・レチロ等界隈である。イタリア人設計による建築も傑作が多い、例えば、トマソ・ベッツィによるイピランガ博物館、セントロにあるマルティネッリ・ビルやエジフィシオ・イタリア(イタリア・ビル)はパウリスタの誇りである。市立劇場(テアトロ・ムニシパル)、市立市場(メルカード・ムニシパル)やサンパウロ州立美術館(ピナコテカ)を設計したラモス・アゼヴェドの設計事務所には多くの優秀なイタリア系建築家・デザイナーがいた。絵画の分野でもイタリア系の活躍はめざましい。ピナコテカに行くとカヴァルカンティ、ポルチナッリ、アニータ・マルファッティなどの作品が所狭しと展示されている。経済分野でも一世を風靡したマタラッゾ財閥もイタリア系であるし、政治家、経営者、スポーツ選手も輩出している。食文化の面でも、ワイン、さまざまなチーズ、ルッコラやズッキーニなどの野菜、オリーブなどイタリアがブラジルの食生活の充実に与えた影響は計り知れない。イタリア・レストランもサンパウロにはたくさんあり、値段も高級である。
一方アルゼンチンやウルグアイをみると、イタリアン系がスペイン系を押しのけ、乗っ取った感があるし、チリでもイタリア系は活躍している。私はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ペルーの5カ国を「チャオ圏」と呼んでいる。イタリア語の挨拶言葉の「CIAO」が日常的に使われるからである。北米のメキシコでも「チャオ」が使われている。
2006年1月に家内とブラジル南部のベント・ゴンサルヴェスというイタリア系が多い町に旅行する機会があった。そこには、イタリア移民の歴史を映像とジオラマと案内者の語りで再現する「エポペイア・イタリアーナ」(イタリア叙事詩)という小さなテーマ・パークがあった。ヴェネト州出身のラザロという架空の人物がブラジル移住を決意し、出資者を募り、勇躍ブラジルへの移住を決意する。ポルトアレグレに上陸、悪戦苦闘して、最後は大邸宅を建てるというあっけらかんとしたサクセス・ストーリーである。それを見てガルボン・ブエノの日本移民史料館を思い出した。日本人移住者は総じて成功しているのになぜ史料館のプレゼンテーションはかくも暗いのであろうかという疑問である。国民性の違いを認識した旅であった。
ブラジルは移住者によって成り立つ国であり、宗主国ポルトガルは当然のこと、イタリア、ドイツ、スペイン、アラブ、アフリカ系等も頑張って国作りを行ってきた。当然日本人移住者のブラジル社会に対する貢献も絶大である。ブラジルを理解する上で、イタリア人や第2の移住国ドイツ人の発想法を学ぶことが有益と考える。
投稿者:桜井悌司 氏
(日本ブラジル中央協会発行、「ブラジル特報 2010年1月号」を加筆修正したものである)