会報『ブラジル特報』 2009年5月号掲載

菅藤 和彦(KBP代表.元川崎製鉄ブラジル事務所長)


 

 今年に入り、世界の鉄鋼業のリーダーであるArcelor-Mittal(以下AM)グループが、その主力製鉄所であるツバロン製鉄所を売却するのではとの憶測記事が流れ世間を騒がせた。この製鉄所誕生は、1970年代初めにブラジル政府の鉄鋼半製品輸出指向の一貫製鉄構想に川崎製鉄が関心を持ち、1973年イタリアの鉄鋼公社とともにブラジルの鉄鋼公社シデルブラス(以下SID)と覚書を交わしたのが発端といえる。当時の川鉄は伸び盛りの企業で、戦後千葉に製鉄所を建設し、次いで主力製鉄所である水島製鉄所を立ち上げており、さらなる展開を目指し海外進出の意欲に燃えていた。確かに鋼(半製品)を持ち込めばコスト競争力は増すだろうし、環境問題を心配せずに増強を図れる。当時半製品市場は無かったが、米国鉄鋼業の老朽化がその視野にあった。

1973年10月31日、シデルブラスのアメリコ総裁と川鉄藤本社長間の議定書調印式
(岡山県倉敷市にて。左はプラチニ商工大臣、右端イタリアFinsider代表)
―『川崎製鉄五十年史』第三節「ツバロンプロジェクトと海外事業の展開」より

 覚書は交わしたものの、その前後で石油危機が勃発、投資環境が急速に悪化したため、構想を事業レベルに詰めてゆく当事者間の話しあいは難航した。漸く1980年起工式となったが、世界経済が疲弊している中で、51%のシェアーを持つブラジル側の資金調達に一抹の不安があった。それが建設があらかた進んだ段階で表面化し、ブラジル側調達責任のうち5億米ドルが調達不能という事態が発生、建設中断の危機に陥った。川鉄はSIDの要請を受け、ことの重大性に鑑み日本でリース団を結成し何とかこの資金を調達し窮地を凌ぎ(83年4月)、同年11月高炉の火入れにこぎ着けた。この製鉄所はリオドセ社(現 ヴァーレ)の鉄鉱石積出港に隣接し、原料炭搬入と半製品積み出し専用港も日本の資金援助で作られた。典型的な臨海製鉄だった。

鉄鋼不況下だけに、川鉄にとってはツバロン製鉄からの半製品輸入は重荷だった。そのため半製品市場形成に向け、川鉄とリオドセの両者で米国西海岸にあった製鉄会社への資本参加が図られ(1984年)、そこと次いで韓国の東国との間でも長期契約が結ばれた。販路が次第に固まっていったものの価格は依然として低水準であったため、経営は依然厳しかった。

こうした状況を大きく変えたのが、1992年に行なわれた同社の民営化入札だった。ブラジル政府は海外鉄鋼資本がこの入札に参加することを強く希望したが、川鉄はこれを断り、結局リオドセと国内金融機関2社がコンソルシアムを組み落札した。新株主団はツバロン製鉄の経営権を握ると即座に一連の大型合理化投資を断行した(連鋳機、高炉、熱間圧延)。こうした矢継ぎ早の戦略投資は大きな生産コスト削減効果をもたらし、折からの世界的な鉄鋼市場回復基調と相俟って、ツバロンはコスト競争力の高い製鉄所としての評価を得るに至った。

現在ツバロン製鉄は100%AMグループの傘下に置かれている。AMの手で第三高炉も稼動し、今や年産800万トン体制に近く、旗艦ともいえる存在である。そこに至る過程では多くの企業がこの事業に参加し、そして去って行った。

世界の鉄鋼業に半製品市場を形成しようとのブラジルの思惑は見事に花を咲かせたといえる。しかしながら、そのコスト競争力は欧州にあるAMの製鉄所で活かされている。それは必ずしもブラジルの望むところではない。コスト競争力がブラジル国内に蓄積され、この国の鉄鋼業が栄えることこそ彼らの願いであるといえる。

 今、AMがツバロンを身売りする話が出てきた。ブラジルはこれに関心を寄せている。出来ることなら国内製鉄をサポートして買わせたい考え方もある。偶々ウジミナスは増強計画を持っており、その背後にはソフトアライアンスを謳う新日鉄が居る。面白い。