会報『ブラジル特報』 2009年5月号掲載

                          浜口 伸明(神戸大学 経済経営研究所教授)



 日本ではほとんど報道されていないが、4月にロンドンで開催されたG20金融サミットで、ブラジルのルーラ大統領は十分に存在感を示した。フランスやドイツと同調して金融機関の規制強化を主張した一方で、これらの国々が慎重な協調的財政出動にも積極的に賛成し、さらに外貨準備からIMFに出資することを約束した上で途上国グループとしてIMFや世界銀行で発言権を強化することを先進国に認めさせた。世界中の注目を集めるオバマ大統領でさえ、ルーラ大統領を「地球上で最も人気者である政治家」と持ち上げるほどであった。ルーラ大統領もオバマ大統領に対して「あなたはブラジルに来ればバイアーノでもカリオカでも通用する」と親しみをこめて応じたとされている。

 ブラジルの存在感は、国際金融危機の中でも堅実な経済状況を維持している自信の表れである。もちろん、ブラジル経済が受けている影響は決して軽微なものとはいえない。2008年は第3四半期まで対前年比でGDPが6%以上の成長を続けていたが、第4四半期は直前の第3四半期から3.6%マイナスとなる急ブレーキがかかり、年間成長率は前年を下回る5.1%にとどまった。外貨純流入額は23.8億ドル(03年)から874.5億ドル(07年)まで順調に拡大していたのが、08年は一転してマイナス9.8億ドルと2002年以来の純流出を記録した。特に、昨年10月から今年1月までの4か月に212億ドルが流出した。これにともなって、為替相場は7月に1ドル=1.5レアル台となって1999年の変動相場移行後の最高値をつけていたのが、11月以降はそれよりも約50%安い1ドル=2.3~2.4レアルの水準にある。この減価幅は、ルーラ氏の大統領当選が確実となったときに資本逃避が起こって経済が混乱した2002年と同程度である。その時以来、ブラジルは経済危機を経験しておらず、今般の世界的な経済不安の中でも、ブラジル経済が危機と呼ぶべき状況に陥ることはないと見る楽観論が支配している。

 ブラジル政府が現在実施している経済対策は、財政出動と金融緩和による景気刺激策である。これは経済学ではありきたりの政策だが、実はブラジルにおいては特筆すべき新傾向だ。というのも、ブラジルにおいて過去20年以上にわたって経済危機に直面するたびに、財政を切り詰め、金利を引き上げるという、逆に不況を深めるような措置が採られてきたからである。重い対外債務を抱え、インフレを管理しきれていない経済では、景気刺激策を採ると一気に政府の債務返済能力への不安が高まって資本逃避が起こり、国家経済が破綻してしまうので、これを予防する応急措置として、たとえ経済の体力をさらに低下させても緊縮政策を採らざるを得なかったのである。そのような経済は外生ショックに対して脆弱で、楽観論が生まれる余地はない。

 つまりブラジルは普通の経済政策が採れる国になったということだ。その助走はカルドーゾ政権時代から始まっていた。同政権のもとで、まずレアル計画でハイパーインフレを抑え込んだ後、民営化と規制緩和で構造改革が進められた。しかし、改革から成長に転換する前に、1990年代末におこった世界的な新興国の通貨危機の連鎖にさらされ、ブラジル自身も99年の通貨危機を経験した。しかし、これを契機に導入された均衡財政主義やインフレ目標金融政策は、ブラジル経済により強固なマクロ経済ファンダメンタルズをもたらした。

 2003年に発足したルーラ政権は、財政支出のばらまきによるポピュリズムに傾斜するのではないかという予想を良い意味で裏切り、前政権の財政・金融政策を完全に踏襲してインフレをほぼ制圧し、政策金利を引き下げる環境を整えた。また、それまで短期で金利が為替相場にリンクされた国債の発行に依存していたために、外生的なショックによって急激に債務負担が増加することが財政にとって問題であったが、債務構造をより安定的なものに転換することに成功した。さらに、国際市場における天然資源ブームによって流入する外貨で潤沢な外貨準備を貯えた。このような周到な準備が今日感じられる脆弱性の克服につながっている。

 さらにルーラ政権下では、低所得層の正規労働市場への参加が拡大し、消費市場を成長させたことが、経済を安定的な成長路線に導いた。そのなかにおいて、消費者向けの融資の増加が重要な役割を果たした。融資を得られるようになった低所得層は、これまでになかった市場を形成する「新中間所得層」に台頭した。彼らの旺盛な購買意欲により、自動車市場では大衆車の売れ行きに牽引されて空前の活況を呈した。

 しかし、国際金融危機は、国内消費を支えてきた消費者向け融資に暗い影を落としている。国際金融市場で資金調達が困難になったために、国内の金融市場もタイトな状況が続いており、金利が上昇した。中央銀行は法定準備率の引き下げや政策金利SELICの引き下げによって流動性を確保しようとしているが、他方で景気の減速による雇用情勢の悪化が返済延滞リスクを高めているために、金融機関が設定するスプレッド(貸出金利と資金調達金利の差)は逆に広がって、政府が意図するように金利が下がらず、消費の冷え込みが続くことに危機感を持っている。
 
 民間銀行に以前のような金融仲介機能を期待しにくい状況の中で、政府は政府系の金融機関から融資を拡大させようとしている。しかしその効果は政府の期待どおりに現われていない。業を煮やした政府は、融資のスプレッドの引き下げに非協力的なブラジル銀行(国立)の頭取を更迭するという荒っぽい手段に出た。いかにも政府のいらだちを象徴する事件であるが、政治的介入を嫌った株式市場では、アメリカ大陸最高の収益性を誇る同行の株価が2日間で10%以上も下落した。

 他方、財政面からの景気対策は少しずつ効果を発揮している。大衆消費時代の象徴となった自動車産業にターゲットを絞って、融資を課税対象とする金融取引税の引き下げで購入コストを引き下げ、小中型車を対象として工業製品税を減免し、新車価格を引き下げる政策が昨年末に導入された。この政策は3月までの時限的な政策であったが、この政策の効果によって1~3月の新車販売台数が昨年同期を3.1%上回る実績をあげたため、6月まで期限が延長された。自動車メーカーはこのようなサポートの見返りに雇用を維持することを求められている。

 政府はさらに追加景気対策として、100万世帯を目標に持ち家購入を支援するプログラムを3月末に発表した。これは、連邦貯蓄金庫を通じた低利融資と失業時の返済保障、建設資材の工業製品税減免を含むものである。

 国際金融危機の影響として現れているもうひとつの懸念要因は、輸出の減少である。今年1~3月の輸出額は昨年の同期間よりも19.4%少ない311億ドルに留まった。貿易黒字は昨年よりも2億ドル増えたが、これは輸入が昨年を21.6%も下回ったためで、かえって不景気を反映する結果といえる。輸出品目の中では鉄鉱石や大豆などの主要な一次産品は昨年よりも輸出額が増加している一方で、自動車、自動車部品、鉄鋼などの工業製品は激しく落ち込んでいる。国内販売が伸びない中で、輸出にはけ口を求めることができない状況が続けば、製造業の雇用情勢が今よりも深刻になる可能性がある。

 政府は以上のような国際金融危機の影響があっても、2009年の経済成長率は2%のプラス成長を維持するという見通しを掲げているが、実際には経済成長率は限りなくゼロに近いだろうという見方が一般的のようである。10年には、次の大統領を決める選挙が予定されている。憲法で三選が禁止されているルーラ大統領が景気を浮揚させて栄光の中で任期を全うし、彼が後継者として指名するジウマ文官長に引き継ぐことができるのか、あるいは野党に政権を明け渡すことになるのか。今後の政治のシナリオにも確実に影響が及ぶ経済動向が注目される。