演 題:写真集『回帰するブラジル』を語る
―ブラジルからアフリカ・アジアへ、そしてまたブラジルへ
講 師:渋谷敦志(しぶやあつし)氏(写真家、フォトジャーナリスト)

 

渋谷敦志 氏(写真家、フォトジャーナリスト)

渋谷敦志 氏(写真家、フォトジャーナリスト)

フォトジャーナリストとして活躍中の渋谷氏。つい数週間前、取材先のタンザニアで三人組強盗にやられ、仕事道具のカメラはじめ、パスポート以外の全ての所持金品を強奪された、という壮烈な経験談から話が始まり、ご自身のフォトジャーナリズム論を淡々と語った1時間となった。

ベトナム戦争取材中に亡くなった沢田教一のような戦場写真家に憧れた渋谷氏は、大学2年の時(1995年)、京都で開催された「写真展WORKERS」でセバスチャン・サルガドを知ることになる。サルガドのような報道写真家になろう、そのためにもサルガドの出身地ブラジルを知ろう、ということで、「日伯交流協会」の研修生でサンパウロへ。研修先が、二宮正人弁護士事務所という、様々な知的影響を受けられる素敵な環境であったことは、今思っても、稀有の幸運であった。事務所で研修生として“お手伝い”したが、事務所が定期購読していた主要新聞雑誌で、サルガドが何回も別刷り特集で取り上げられていた。週末は深夜バスでリオに出かけたり、研修が終わってからは、ノルデスチからアマゾンまで足を延ばした。

ロンドンで本格的に写真の勉強をしてから、まず取り組んだのが「国境なき医師団」日本支部のエチオピアやケニヤにおける活動の写真による記録であったが、無医村の多いアフリカのなかでも、一番強烈な体験が、内戦末期のアンゴラであった。2000年から2002年にかけて何回も滞在取材したが、MPLA(アンゴラ人民解放運動)とUNITA(アンゴラ全面独立同盟)との間の内戦によってばらまかれた地雷の数は、5百万個だった。地雷は人を殺すよりも、人を障害者にする兵器で、25年に及ぶ内戦がとんでもない数の障害者を生み出した。

rm0923_02 アフリカにおける、もう一つの負の側面が、食糧不足で、人為的に飢餓が起されていた。こうしたアフリカ取材のなかで、写真を撮ることの意味を激烈に考えさせられ、一時、眠れなくなるほど煩悶したが、アンゴラでノルデスチのセルタゥン(内奥部)を想起し、ブラジルへ“回帰”することを心に決めた。

2002年9月、渋谷のBUNKAMURAにて開催された、セバスチャン・サルガド写真展「EXODUS」の場において、サルガドとの共同記者会見の場に彼と並んで発表できたのは、身に過ぎて光栄なことであった。

主な写真についての、語りのキャプションのさわりを列記すると、

  • リオ
    普段着のリオは、風景も住民もなんとも魅力的。
    最大規模のファヴェーラ”ホッシーニャ“は何回も訪れたが、仲介者の友人のおかげもあろうが、一度も危険だと感じたことはなかった。最後に行ったのは昨年2015年のイースター時期で、キリスト復活劇のストリート・パフォーマンスを地元劇団がやっていたが、外来観光客もおらず、素直に感動した。

    弓場農場
    農業労働と芸術活動を並行して展開している弓場農場を、最初に訪問したのが2002年だが、その後も10年以上付き合い続けている。最初の訪問時子供だった世代の多くが、青年となり日本に来ている。

  • バイーア
    サルヴァドールでは、アンゴラ・コミュニティーを実感した。バイーアのカーニバルは、リオのサンバ行進と違って、音楽と踊りがベースだ。

 

こうしてブラジルに回帰してきたが、自分(渋谷氏)としては、ブラジル人から“パッション(情熱)”と“生きる力”をもらったし、もらい続けていると思っている。

講演後、特別参加の二宮弁護士から発言があり、「私の弁護士事務所でこれまで研修したのは、30名にもなるが、渋谷君は、最も優秀な一人だと断言できる。セバスチャン・サルガドと共同記者会見したことが象徴的だが、写真というアートを通じた、彼の報道活動、社会活動に敬意を表したい」とのコメントをいただいた。

 

日  時
2016年9月23日(金)14:00-15:30
会  場 虎ノ門法経ホール
東京都港区西新橋 1-20-3虎ノ門法曹ビル B1F

[JR山手線・京浜東北線・東海道本線「新橋」駅 日比谷口・・徒歩7分、東京メトロ銀座線「虎ノ門」駅 1番出口徒歩5分、都営三田線「内幸町」駅A3出口 徒歩3分]
会  費 会 員 1,000円
非会員 2,000円
その他 講演会の参加者の方には、渋谷さんの写真集『回帰するブラジル』を特別価格で販売致します。

『回帰するブラジル』定価3700円2700円

お問合せ 日本ブラジル中央協会 事務局
担当:宮田、上条
info@nipo-brasil.org