会報『ブラジル特報』 2009年7月号掲載
<アマゾン日本人移住80周年記念寄稿>

                      川田 敏之(日本人アマゾン移住80周年記念祭典委員会 相談役


アマゾン河中流の街アマゾナス州の州都マナウス市に、西部アマゾン日伯協会と呼称される大きな日系の団体があり、アマゾナス州・ロライマ州・ロンドニヤ州・アクレ州と4州を統括している。この4つの州に戦前戦後多くの日本移民が自営開拓者として入植した。

第二次大戦前
 1929年10月12日サントス丸で9家族32名、単身青年17名、計49名が神戸を出発し、アマゾナス州マナウス市の下流約300kmの地点にあるマウエスに30年1月2日に入植し、不老長寿の妙薬と云われる「グァラナ」を計画栽培した。その後、30年7月22日第二次13家族39名、単身男女17名計56名が到着、30年10月30日第三次3家族8名到着、現在の基礎をなした。

 グァラナの由来はインディオの神話にある、その昔マウエ族というインディオの酋長に美しくて賢い一人の娘があった。彼は娘を大変可愛がっていたが、なぜか娘は病弱だったので種々の薬草を煎じて飲ませたが、いくら飲ませても効果なく、年頃になるとますます痩せ細り、遂に不帰の旅に出てしまった。娘はその前に「私は本当に皆様によくして頂いたので、その御礼にマウエ族のために不老長寿の薬草を差し上げます」と約束した。酋長は懇ろに娘を葬り墓の上に3日も泣き伏した。ふと墓を撫でると小さな草が芽生えてどんどん伸び、やがて花が咲き、黄金色の実を付けその中から真っ黒な娘の目玉の様な輝く種子が出てきた。これが娘の約束した不老長寿の薬草に違いないと思い、その実を植えた。
マウエ族の地は「マウエス」となりグァラナの一大生産地としてアマゾナス州の経済の一端を支えている。

 1926年在リオデジャネイロ日本大使館は、アマゾナス州政府より日本人移民を入植させてほしいとの要請を受けた。ちょうどその頃大使館には日本の青年実業家の山西源三郎氏より植民地に適した土地の調査依頼が来ていた。山西氏は日本移民がまだ入植していない場所を探していた。大使館は早速アマゾナス州よりの申し出を伝えた。彼はサンパウロ市で工業を営む粟津金六氏を誘いマナウスへ向かった。27年3月8日の州官報に法令第114号第3条に依り2年間の期限で100万ヘクタールの土地内の選択権の許可が発表された。山西氏は日本に帰りアマゾナス州との契約を履行するため、いろいろな方法を試みることとなるが努力はまったく実らなかった。万策尽きた後、彼は国会議員の上塚司氏を訪ね、この計画の援助を求めた。上塚氏は先ず日本の外務省を通じ契約期限を2年間延長することをアマゾナス州政府に要請し、直ちに調査委員会を結成数ヶ月の研究調査の後、州都マナウスより390km下流の町パリン・チンス市郊外16km地点のビラ・アマゾナスにアマゾニヤ調査研究所を設立、30年10月21日に州政府より「法人」の許可が下りた。

 一方、同年国士舘学園の分校として日本高等拓殖学校が設立された。ここで学生は心身を養い、植民の実務と理論を学んだ。この学校の卒業生は「高拓生」と呼ばれて、その方々の子から孫へと開拓の遺志を引き継ぎ、現在でも高拓会という会を運営し社会に貢献している。

 さて、前述の高拓生はすべての公共設備・宿舎の受入体制が完了したビラ・アマゾニヤに第一陣として47名とその家族総勢109名が1931年6月20日に到着した。32年には第二次60名の高拓生を送り出した日本高等拓殖学校は、分校の地位より独立法人の学校に昇進している。ちなみに、高拓生はその後第7回生まで総計266名が入植した。

 彼等は調査研究所の方針としてインド麻(現地名:ジュート)の栽培をすることになり、全員作付はしたが伸びが悪く、1mから2mくらいにしかならず、製品としての価値もなく、他の作物に切り替えたり、アマゾンに失望して他州に行く人も出始めた頃、ジュート栽培に確乎たる信念を持って挫けることなく続けてこられた尾山良太氏の耕地に植えられたジュートは3月中旬になって脇枝が出始め蕾をつけ、白い小花を咲かせた。丈はせいぜい1m80cmくらいで生長が止まったのだ。彼は絶望の気持ちで耕地を見回していたら、ふと1本のジュートの姿が映った。それは枝を出さずに他より伸びが良いように思われた。彼はあちらこちら探し回りもう1本見つけた。この2本に添木をして、今度来た時にすぐ見つかるようにした。

 その日から彼は毎日見廻り生長を観察した。20日経っても2本のジュートは脇枝を出さず、なお伸び続けた。その間、河の水は増水を続けた。彼は毎日を漕いで500mの河を渡り2本のジュートを見に行った。インド種の種子の中に良い種が混ざっていたのか、突然変異なのか分からなかったが、生長を続けている1本は根腐で駄目になり、残った1本は蒔いてから4ヵ月後にやっと花が開き実を結んだ。丈は4mに達していた。これから採れたゴマ粒より小さな赤褐色の種子であった。

 このように、苦心惨憺の結果得た種子は大切に育たれ、数年後にはブラジル・コーヒーの袋として、また穀物類の袋として一大産業に発展したが、第二次大戦の勃発により、ブラジル政府により、アマゾニヤ産業KKの資産は没収され、会社すべての施設・設備は競売に付された。アマゾン・ジュートの功労者尾山良太氏は昭和47年89歳で亡くなられた。

戦後の移住
 1945年8月の終戦により、海外からの引揚者、国内の疲弊した政治経済その他の打開策として、52年に外務省の外郭団体として海外移住協会連合会(海協連・現JICA)が発足し、53年より中南米に移住者を国策として送り出した。この年より移民は移住者、移民船は移住船と呼ぶようになった。西部アマゾン地区はすべて自営開拓移住であり、熱帯病と闘いながらの原始林伐採から始まった。

 1953年9月12日、マナウスの対岸にあるベラビスタに第一次23家族が入植、その後第六次62年10月20日まで139家族が入植、蔬菜・マンジョカ・胡椒・ゴム・果樹など多くの作物を栽培したが、特にこれといって移住地の特産物には恵まれなかった。現在は養鶏・柑橘類などで落ち着いた営農を行っているが、入植時の耕地の条件、その他で退耕者が続出、現在は23家族が営農に励んでいる。

 アマゾナス州の北部に位置するロライマ州のタイアーノ移住地に第一次として入植された人々は、54年12月アマゾン大河下流、アメリカのフォード自動車会社が開設し現在は北伯農事研究所の管轄になっているゴム園で、雇用労勤者として入植したが、ブラジル政府により55年9月に全員強制退去となり、再移住地として前記のタイアーノに移ったのは9家族で、その他はパラ州の各地に分散した。タイアーノ移住地はロライマ州の州都ボアビスタ市から西北90km。タイアーノ地区内の大草原の中に点在する森林島の一つで、標高200~300mの丘陵地で地味が良く気候も良かったが、ボアビスタ市までの道路が悪く遠距離のため農地を離れた人も多く、現在は数家族のみとなっている。

 アマゾナス州の州都マナウス市より北へ41kmにあるエフィジェニオ・サーレス移住地の入植は、第一次1958年11月10日で、第四次61年8月10日までに55家族が入植、胡椒・蔬菜・果樹・パルミット栽培を大きく行うが、現在は養鶏が主な生産物である。 西部アマゾン地区では一番大きな入植地で、法人農業協同組合があり、入植者の教育・文化を推進する自治会などもあり、活気に溢れた植民地である。2008年は入植50周年の記念式典・行事も盛大に行われた。現在の植民地在住は32家族である。

 マナウス市より南へ865km地点にあるロンドニヤ州の州都ポルトベーリョ市郊外15kmにあるトレーゼ・デ・セニンブロ移住地は1954年7月に29家族、61年呼寄せ2家族の計31家族が入植した。

 この移住地の特色は、州農務局の方針でゴム栽培であり、天然ゴムの種子採集・苗床作りから始まり、米・野菜の短期換金作物により生活費を得るも耕地が悪く生産が上がらず、熱帯病のマラリヤの猖獗を極め最悪の状態に陥ったことも再々あり、当時の海協連農業指導員 上森六園氏は薬より食糧をと、ベレンの支部に打電したこともあった。

 この様な苦しみから脱却したのは1960年から70年にかけてサンパウロへ通ずる国道の建設と州内に数ヶ所の錫の鉱石発見採掘も始まって、市の人口が増加し、農産物の需要が大幅に伸び経済的にも安定した。特に養鶏に力を入れ、州政府と交渉、軍用機でサンパウロより初生雛を一度に6000羽を空輸したこともあった。現在は入植時の移住者12家族のほか、ブラジル南部からの人々もポルトベーリョに住み、日本人の家族も増え続けている。

 奥アマゾン ボリビアと国境を接するアクレ州の州都リオブランコ市より南に30km地点にあるキナリー入植地に入植したのは1959年6月14日であった。日本を出たのが3月3日の雛祭りの日で、アマゾン河口の街ベレン市に着いたのが4月9日(日本は10日)、現天皇の御成婚の日であり、マナウス市が5月5日アクレ州のリオブランコ市に着いたのが6月14日、実に日本を出発してから3ヶ月以上もかかり地の果てに来たという感じであった。

 第一次6家族・第二次は8月7家族の計13家族で、ゴムの植付が義務づけられていた。キナリー入植地の特長は、アマゾン管内でも最高に土地が良い所で、稲などは背丈2m、1株の根元は直径20cmにもなり3年くらい無肥料で連作できる地力があった。州都リオブランコ市まで道路は雨期になると農作物の搬出が出来なくなり、バナナ・パパイヤは家畜の餌となった。現在は、移住地に在住するのは数家族のみになり、そのほかは他州に転出、滅び行く移住地の感がする。

現在の日系人・日系企業の概況
 西部アマゾン地区の中心地アマゾナス州マナウス市は、1880年後半よりアマゾンの天然ゴムの集散地として栄えたが、1910年頃よりマレー半島のゴムプランテーションが成功するとゴム景気は後退した。68年にマナウスがフリーゾーンに指定されてから景気が回復し、日本の有名企業の進出、またサンパウロ州などにある日系企業の進出もあり、現在アマゾナス日系商工会議所に登録されている数は55社である。

 マナウス市には西部アマゾン日伯協会があり、会員数240名のほか、カントリークラブ・日本文化振興会・高拓会等があり、特に日伯協会が運営する日語学校の生徒数は約600名であり、その80%は非日系である。

 
ジュートの刈り入れ(出所:アマゾン高拓会) 州の記念日パレードでのポルトベーリョ入植者
アマゾン 収穫したジュートを手にしている入植者 (出所:アマゾン高拓会)