国民文化創造やフランス革命の思想的基盤ともなった野生の思考

執筆者:田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授、ブラジル民族文化研究センター主幹)

ずいぶん昔のことであるが、アンデス山脈に墜落した飛行機事故のことをご存知の向きもあろう。この事故で世間を驚愕させ耳目を引いたのは、九死に一生を得たその飛行機の乗客が、生き延びるために死亡した同乗の客を糧にしたことであった。

人喰い人種を意味するカニバル[canibal]の語源は、カリバ[cariba]が変化したアラワク語のカニバ[caniba]に発するらしい。小アンティル諸島に住む部族は、“勇猛”を意味するこの言葉で自称していたとも。ところが、彼らの仇敵であり、比較的に穏健であったキューバのアラワク族は、野蛮性や獰猛性を暗示するその言葉を軽蔑的な意味で捉えていたようだ。ともあれ、究極においてカニバという言葉からカニバル[cannibal]という造語を編み出したのは、新大陸に到達したコロンブスであると言われている。

カニバリズモ[canibalismo]とアントロポファジーア[antropofagia]は同義である。後者はギリシャ語[anthropophagía]に由来し、形態上もギリシャ語とほとんど変わらずantrop(o)「=人」+fagia「=食する行為」の複合語から成っている。

ともあれ、人が人を食う風習は、その目的がどうであれ、古代社会では洋の東西を問わず実践されていた。その点では、単に未開社会に限ったものではなかった。非人間的な蛮行とみなされ現代社会からは消え失せているが、部族によっては儀礼等を通じてその名残を留めているものもある。

そうした中にあってブラジルでは、食人の風習が20世紀の中葉に至るまで実践・踏襲されていたこと自体驚きである。トゥピナンバー族、ヤノマミ族、カシナワー族、アラウェテ―族、ウァリ族などがその代表的な部族だ。部族間の抗争は日常茶飯事であり、人喰いの風習(生け贄の祭り)は彼らにとっていわば、戦闘の延長線上にあったと見てよい。われわれが想像するのとは違って、食人風習は決して食欲を満たすものではなかった。年来の仇敵を打ち負かすことによって怨念を晴らし、最高度の復讐の心情を表すことにこそ目的があったようだ。しかも、食われる立場にある戦士の強靭な肉体や、不撓不屈にして勇敢な精神を自分の体内に取り込むことにも儀式の要諦があった。その一方で勝利した部族は、死にゆく戦士に対して賞賛と尊敬の念を払うことにもやぶさかではなかった。

ハンス・スターデン『蛮界抑留記―原始ブラジル漂流記録』

この生け贄の儀式(祭り)については、トゥピナンバー族の囚われの身となったドイツの若き砲術師ハンス・スターデンの『蛮界抑留記―原始ブラジル漂流記録』や、ジュネーブ協会の意向を汲んでブラジルの大地を踏んだジャン・ド・レリの手になる『ブラジル旅行記』、アンドレ・テーヴェの『南極フランス異聞』などが詳しい。いずれの文献も食人の儀式に多くの紙面を割いているが、儀式の有り様についての記述にはさほど大差はない。その全容を上述の文献などから大まかにまとめると、このようになる。

部族間の闘いで一方が勝利すると、捕虜となった戦士は部落に連れて行かれる。戦場で死んだ者はその場で食われるか、あるいは切り取られた首は勝利のしるしに持ち帰られ、彼らが住む家の入り口に具えられる。捕虜の中には子供がいる場合もあるが、すぐに殺されはしないものの、育てられた後では殺される運命にある。部落に着いた捕虜に対して、女や子供は口々にわめきののしって、打ったり蹴ったりして散々な目にあわせる。そして、捕虜の体に灰色の羽毛を張り付ける。その後、族長は捕虜と結婚させるべく一人の女性を指名する場合もある。が、女性は決して夫に愛情を抱いてはならないというルールがある。もし万が一、女が戦士の子を産むと、その子も生け贄の対象となる。

屠殺の日まで捕虜は手厚くもてなされ、十分な食糧以外に、思いつく限りの便宜を受ける。この仕事を担うのは女と決まっている。生け贄の儀式が行われる前に、捕虜を殺すのに用いられるムスラーナ(処刑用の縄)やイベラペーマ(頭を叩き割る棍棒)などの道具が羽毛で飾られる。そして、執行日が決まると、近隣の部族に招待の通知がなされる。

屠殺される当日、招待を受けた部族は大はしゃぎで集まり、おめかしをした女たちはその客人に対して、ごちそうを振る舞い歓待する。屠殺の準備が整うと、酒宴が始まる。むろん、酒とはマンディオカで造ったである。この酒は捕虜に対してもふるまわれた。

いよいよ最期の時。捕虜はムスラーナで強く縛られ、その場に立ち会っている女たちは、それぞれ手にした小石を合図とともにいっせいに捕虜めがけて投げつける。と同時に、族長からイベラペーマを受け取った、羽毛をまとって猛禽類に模した屠殺執行役の男は、一撃にして捕虜の頭を打ち砕くのである。屠殺者は常に男で、生け贄の宴には参加できずその日は終日、ハンモックで休むルールになっている。が一方で、屠殺したことで族長から腕のつけ根に動物の歯でかき傷をつけてもらう。これは当人にとってはこの上ない栄誉であり、部族一同から尊敬の眼差しでみられるのである。

戦士が撲殺されると、老女たちは流れ出る血を集めようとヒョウタン製の容器を持って駆け寄る。他方、母親たちは赤ん坊にも死者の血を味あわせようと、自分の乳房にもそれを塗り付ける。捕虜の身体は切り裂かれ、腹部の内臓と肉の部分に分けられる。そして、大きな土鍋で煮るかモケーンと呼ばれる木の枝で作った格子状の網の上で焼かれる。ちなみに、インディオによるこの焼肉の方法はブラジル風バーベキューであるシュラスコ(churrasco)の起源とみなされている。通常、硬い部分は焼かれ、主にそれは男子が口にする。柔らかい内臓の部分はミンガウ(粥状)にして子供や女性に供される。16世紀のイエズス会士であったジョゼー・デ・アンシエッタ神父は、焼き肉からしたたる血を両手で集めてはなめ回し、手足を貪り食うことで顔中が血だらけになった食人種の、おぞましい光景に生き地獄を見たような印象を綴っている。そして、人肉を食う老女の顔がしわだらけで身体から悪臭を放っているのは、忌み嫌うべき風習によるもの、と観る。しかも、人肉を食い、骨をかじる恐るべき儀式こそが老化、老衰の要因であり、垂れ落ちた乳房、しわくちゃの顔などにその典型を見ているのである。[西洋の]聖人は死ぬとバラの香りを放つが、罪深き[食人種の]魂は身体の退化をも引き起こす、とも記している始末。

このように生け贄の儀式は、現場に居合わせた西洋人の目には残虐非道なものに映った。しかしながら、モンテーニュの場合はそういう見方には与せず、偏見を排して食人種のインディオに対して共感を寄せている。国王シャルル九世と共に、ブラジルから連れて来られたインディオに接見したこの思想家は言う、「我々は彼らを、理性(レゾン)という尺度で、野蛮(バルバール)だと呼ぶことはできても、我々を基準にして、彼らを野蛮(バルバール)だと呼べはしない。―我々は、あらゆる野蛮(バルバール)さにおいて彼らを凌駕しているのだから」と。さらに加えて、捕虜が作った食人に関する歌に言及してモンテーニュは、「歌の着想の見事さと、食人行為の野蛮さがみじんもない」点も吐露する(「第30章 人喰い人種について」[モンテーニュ著(宮下志郎訳)『エセー2』、59~86頁])。

高潔にして善良なるインディオ像についての見方は、モンテーニュの言説が大いに影響を及ぼしたことは否めない。事実、17・18世紀の啓蒙主義の思想家たち、わけてもジャン=ジャック・ルソーの考えのみならず、フランス革命の根底をなす理念、すなわち、自由、平等、博愛の精神にさえも反映されている。これに連関して、ブラジルの思想家アフォンソ・アリーノスは自著『インディオとフランス革命』(O Índio e a Revolução Francesa)の中で、インディオ社会の美徳は、自由、平等、博愛の精神であると観る。その上で、はや16世紀の初頭にフランスに連れて来られた、純粋無垢で穢れのない「善良なる野蛮人」との接触・交流のなかで、当時の思想家、哲学者を中心とするフランスの知識人たちは、彼らのそうした美徳を学び、それが思想的基盤となり、ひいてはフランス革命の起爆剤となった、と力説している。

この言説の真偽は別にして、18世紀以降、ブラジルのインディオは文学の主題(インディアニズモ)となり、わけても19世紀中葉に始まるロマン主義時代にあっては、国民的象徴ともなった。1922年の「近代芸術週間」を契機に発現するブラジルの近代主義においても、食人種インディオは、国民文化をよりオーセンティックなものにするための象徴的な存在となった。ちなみに、脱植民地化を図る意味でロマン主義は、国民文化の創造とブラジル発見に努めた。が、20世紀初頭に至ってもこの国の文化は旧態依然、外国の模倣の域を出ることはなかった。この問題を切実に受けとめた近代主義者たちは、原始主義や地方主義を標榜する傍ら、真の意味でのブラジルの発見に腐心することとなる。そのためには何にもまして、旧植民地本国の影響から完全に脱し、ロマン主義が希求した、理想化したものとは異なる、真の国民的アイデンティティーの構築が彼らには求められた。ペドロ・アルヴァレス・カブラルによって発見される以前の、原初的なブラジルの世界へ立ち返ることの重要性。これを誰よりも痛感したのは洋行帰りの詩人のオズワルド・デ・アンドゥラーデであった。そして1928年、食人種よろしく外国文化を飲み込むことによって、ブラジル独自の文化、文学を創造すべきであるという趣旨の、「食人宣言」(Manifesto Antropófago)をアピールしたのであった。結果として、過去の伝統であったインディオの人喰いの風習の概念(antropofagia)は、近代主義の美学との関連でも活かされ、植民化される前のブラジルを再発見し、外国の影響からは無縁の固有の文化を醸成する運動へと展開する。野生の思考の象徴たるインディオの食人風習は、ここでも重要な役割を果たすこととなった。