会報『ブラジル特報』 2005年
11月号掲載

                  
岩崎 透 (東山農場 取締役社長)


東山農場の歴史

東山農場の起源は古く18世紀半ばに遡る。当時、サンパウロ奥地開拓者(通称バンデイランチス)の一部が、カンピーナス郊外に定着、農耕を開始した事に端を発し、その中で砂糖黍生産での成功者の地方豪族が、1798年にポルトガル皇帝よりセズマリアのタイトルで6,400ha(ヘクタール)の農地所有を認められFazenda Ponte Alta を創設したのが原点といえる。

その後、19世紀半ばよりコーヒー栽培も開始、奴隷制廃止後はイタリア移民等を受け入れながら、創業者の子供、孫達が営農活動を継続してきた。1927年に創設者孫未亡人等より3か所に分割された土地3,700haを岩崎久弥が購入、東山農場 (Fazen da Monte D’este) が創設された。

第二次世界大戦中には敵国資産として、一時期ブラジル政府に接収される憂き目も見たが、初代農場長・農学博士山本喜誉司の天敵に拠るコーヒー害虫駆除、ユーカリ植林等の功績も評価され、戦後比較的早い時期に返還された。

因みに、「東山(とうざん)」は三菱創始者岩崎弥太郎の雅名で、三菱各社経営とは別に、岩崎家固有の事業として、農林畜産事業を主体に日本国内をはじめ、戦前は朝鮮半島、台湾、インドネシア、マレーシア、およびブラジルに農場を保有、各地で事業研究開発、振興に尽くしてきたが、敗戦によってそのほとんどを失い、現在は本邦の小岩井農場およびブラジルの東山農場の二か所のみとなっている。ブラジル東山農場の創設者、久弥は弥太郎の長男。

現在、東山農場は総面積900ha弱、うち240haにて120万本のコーヒー樹を栽培、年間 400トンの精選コーヒーを主体に生産するとともに、ブラジル最大の都市サンパウロより120 km、百万都市カンピーナスよりは僅か12kmの近郊の本格的な生産農場として、小中学生の社会化勉強を含む国内外よりの多数の見学客をも受け入れ中である。

NHK放送80周年記念ドラマ 「ハルとナツ」 

本年10月初旬にNHK総合テレビで日本全国ならびに海外の視聴者に向けて放映された 「ハルとナツ・届かなかった手紙」 は、ブラジルに家族とともに3年間の予定で出稼ぎに出た長女ハルと、眼疾トラホーム感染のため、渡航が許されず日本に残された妹ナツが運命の悪戯によって、1934年より2005年までの71年間を離れ離れとなり、ブラジルと日本に分かれ、苦労して過ごすことを余儀無くされた二人姉妹の物語を描いた、橋田壽賀子脚本の大型ドラマである。


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東山農場本館



全体のうち、相当な部分がブラジルで撮影されたが、東山農場はその起源より200年以上の歴史を有し、奴隷小屋、コロノ住宅等19世紀の古い建築物、1920年代末の農場購入当時に建てられた教会、ユーカリ林等が残されているばかりでなく、昔の瓦、材木等の古い資材等も多く保有しており、地理的優位性に加え、一か所でほとんど総ての撮影が可能ということから、ブラジルでの撮影の主要現場となった。ブラジルでの撮影は、昨年5月半ばより約二ヶ月間行われ、日本よりは俳優陣、スタッフそれぞれ30名前後が参加、ブラジル側スタッフ100人前後、日系人を主体とする俳優、エキストラ千数百人が参加した。東山農場は、美術チームの事前準備期間を含めると、半年間はさながら映画村の様相を呈し、明け方より深夜まで、連日大騒ぎが続いた。当時の逸話には事欠かないが、一番印象深い出来事は、撮影開始二日目の早朝、主人公・家族一同がコーヒー農園での初仕事のため橋を渡りコーヒー園へ農作業に出掛けるシーンで、役者10数名、エキストラ100名前後に加え、牛車数台、馬に乗った監督官等も待機、真冬の寒い空気の張り詰めた撮影開始直前の緊迫した場面で、突然、体長1m程度の大型のカピバラ (川鼠)が池の片側より橋の真ん中へ跳び出し、ゆっくりと左右を見回した後、慌てて反対側へ飛び込み、まるで往年のハナ肇とクレージーキャッツのギャグを彷彿とさせる場面展開となり、一瞬、全体の緊張感が和み、その後の撮影もスムーズにいったことである。

古くからある施設と資材を活用して組まれた多数のセットは、撮影後も大部分はそのまま保存することになり、農場訪問者へ公開している。

移民100周年に向けて

ブラジルにおける東山事業の一環として、1934年に本邦より当地に進出した最初の製造事業として日本酒「東麒麟(あづまきりん)」の生産を開始、醤油、味醂、味噌、米酢等、種々の和食調味料を、別会社・東山農産加工において製造している。創業より長年の間は、日系人主体の販売で日本酒の消費も低迷していたが、ここ数年間は、ブラジルの国民酒ともいえる砂糖黍原料のピンガに換えて日本酒を使って果実とミックスした、当地伝統のカイピリンニャならぬサケピリンニャが、当地でファッション・ドリンクとして大人気を博しており、増産・増設に嬉しい悲鳴を上げるほどとなった。

 これは、昨今のブラジルにおける健康食品としての日本食ブームの一端を担う現象と思われる。ただし、問題はブラジル人に本来の日本食、味付けの基本が充分には理解されていないことで、大半の人たちは、醤油のプールに刺身を泳がせ、御飯にすら大量の醤油をかけるなど、日本人から見ると眉を顰めることもしばしばであるのが実情である。また、ブラジル人の食生活の問題は塩分、糖分の摂取過多で、それによる心臓病、糖尿病などが多いが、日本食だから健康に良いとの誤った認識を是正し、時間は要しても本来の日本食の味付けの基本、すなわち、あくまでも素材本来の味を大切にし、その良さをさらに引き出すため、例えば隠し味など、少量の和の調味料を使用することにより、本来の旨さを引き出すことを、ブラジル人にも充分に認識してもらいながら、あわせて健康にも良い料理を楽しんで貰えるよう、地道な普及活動を農場・農産加工の二社で協力し、着手したところである。

具体的には、ブラジルの伝統的なシュラスコ料理は岩塩のみでの味付けであるが、例えば鶏の心臓は醤油、日本酒、味醂で味付け、脂っこいクッピン(セブ牛の背のこぶ)の肉は、みじん切りのニンニク、生姜を醤油とともに食することで、それぞれより味わいが深くなる。他部位についても、一部は酒粕・味噌漬け、米酢等を活用し、さらにその他の幾多のブラジル伝統料理に関しても、和風味付けを加えることを提案しているが、これらを食したブラジル人はその味に驚き、歓んで舌鼓を打ち、日本的な調味方法の魅力を評価するようになってきている。

ブラジルは田中角栄元首相の肝煎りで開始されたセラード農業開発プロジェクトにより大豆の生産倍増を達成、今や世界最大の生産国となったにもかかわらず、相変わらず食用大豆消費が少ないのが現状である。ルーラ大統領が提唱する飢餓撲滅運動 (Fome Zero)を達成するためにも、当国に相応しい形での食用大豆の消費拡大、ならびに和風調味料の使用を推奨することによって、日本文化をブラジル人の食卓にもさらに積極的に導入、健康的な食生活を提唱したい。この事が2年後には東山農場80周年とともに、翌年2008年は日本人移民100周年を迎え、種々の記念行事、箱物の建設が企画されてはいるなかで、本当の意味での実の有る日伯親善強化の実現ではとの基本的な考えにもとづき、東山農場では、及ばずながらも引き続き、その場を提供して行く所存である。


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