会報『ブラジル特報』 2013年3月号掲載

                         井上 睦子(東京大学国際部長、前在ブラジル大使館一等書記官)


はじめに

 今や世界第6位の経済規模を有するブラジル。2011 年1月に就任したルセーフ大統領は、ブラジルを最も先進的で、格差 の少ない、起業家精神に溢れた中間層の国にすると表明し、そのために様々な政策を打っている。代表例としては、大規模 なインフラ整備等を内容とする成長加速化計画、また、格差 是正と公共投資の意味合いを有する低所得層向け住宅建設計画などハードもので比較的短期間での成果が期待される政策、 および今般本稿にて紹介する理系人材育成戦略 Ciência sem Fronteiras (「国境無き科学」)を挙げることができる。これはソフト面での投資であり、政策の効果は中長期にわたって現れるものである。これらの短、中、長期的政策の組み合わせにより、足腰の強い、今より一歩進んだ国にしようというのがルセーフ大統領の思いであろう。 
 ブラジルは食糧やエネルギーなどの資源に大変恵まれ、これらが主たる輸出品目となっている。ごく一部、中型ジェット旅客機の製造など国際競争力を有する工業製品があるものの、製造業の国際競争力は全般的に極めて低い。ブラジルが次の発展 段階に登ることができるかどうかは、付加価値あるモノを創り出したり、その源となり得るような研究成果を出したりできるかにかかっている。そのためには、人材育成が不可欠だ。そこで打ち出されたのがシエンシア・セン・フロンテイラスである。 

 北米および欧州の経済が行き詰り、中東やアフリカの一部では民族や政治体制の問題が表面化する中、ブラジルは安定した民主主義体制に加え、資源に恵まれた自然災害の少ない広大な国土を有し、経済成長にともなって交通や港湾などのインフラ需要はまだまだ伸びる。このような国を放っておく国があるだろうか。北米、欧州は勿論のこと、中国、韓国も「国境無き科学」を活用してブラジルの理系人材育成に協力することにより、高等教育、学術、科学技術、ひいては経済面でブラジルと win- win の関係を戦略的に構築しようとしている。さて、日本はどう関わっていくか。

シエンシア・セン・フロンテイラスの内容
 (1) 概要 
 


 シエンシア・セン・フロンテイラスは、約10万人の理系分野のブラジル人の学部生、博士課程学生およびポスドクをブラジル政府の奨学金で外国に留学させることにより、ブラジルの科学技術発展の促進、競争力の強化を図ること等を目的とする、ルセーフ大統領のイニシアティブにより立ちあげられたプログラムである。

 特徴は、各国企業等でのインターンシップを重視し、ブラジルの産業育成につなげることを明確に目標としている点である。実施期間は2011~15年の予定であり、対象分 野は、理学、物理学、化学、生物学、地学、バイオテクノロジー、コンピューター・サイエンス、情報技術等、理系全般となっている。

  (2) 日本での受入れ
 2012 年7月31日(火)、シエンシア・セン・フロンテイラスについての日本ブラジル間での協力文書に、独立行政法人(以下(独)) 日本学生支援機構(JASSO)、高等教育支援・評価機構(CAPES)および国家科学技術審議会(CNPq)の理事長名で署名がされた。 
 日本では具体的の受け入れ機関は、大学、大学共同利用機関法人および研究開発型独立行政法人である。約80の機関が受入れ可能としており、1年間の目標受入れ人数は1,300人である。 
 学部生および博士課程学生を対象とした、いわゆる「サンドイッチ」型プログラムは、学位取得までの中ほど1年程度を外国で学ばせるものであることから、ブラジル人学生が効率的に自身の専門分野を学ぶことができるよう、日本での受入れ機関は、英語で授業等を提供できる機関とした。 
 学部生については、2013年の秋の受入れに向けて、本年1月中旬に日本留学への応募が締め切られ、多数の応募があった模様である。CAPES および CNPq による学生選考ののち、JASSO が学生の希望を踏まえて学生と受入れ候補大学とのマッチングを行うこととなる。 
 博士およびポスドクについては、基本的に国別公募は行っておらず、以下のとおり、世界各国共通のスケジュールで公募が行われている。

 応募者は、外国の大学等から予め受入の内諾を得た上で、 CAPES 及び CNPq に奨学金の登録申請をすることとなっている。 
 日本留学については、査証取得のスケジュールの観点から、第2回の奨学金支給開始時期を希望する場合は第1回のタイミ ングで申請登録するといったように、1回前倒したスケジュールでの申請登録を勧めている。

(3) 日本留学に対するブラジルの関心  
 世界の学生がまず目を向ける主な留学先といえば米国や欧州各国であるが、ブラジルの政府、大学関係者および学生は日本への留学に非常にも高い関心を持っている。 
 2012年6月21日に行われた日本・ブラジル外相会談では、パトリオッタ外相からシエンシア・セン・フロンテイラスによるブラジル人留学生の受け入れに関する協力要請があり、同年11月に訪日したピメンテル開発商工大臣が藤村内閣官房長官を訪問した際には、日本のシエンシア・セン・フロンテイラスについての協力に対して感謝の意が表された。 
 2012年7月29日~8月3日には、CAPESのギマランエス理事長を団長として、ブラジル外務省教育テーマ課長、また、サンパウロ大学、カンピーナス大学およびITA(航空技術大学) 等を含むブラジルの主要大学の幹部計30名が訪日した。参加者からは、これほど多くのブラジルの大学関係者が一度に訪日したのはおそらく初めてであり、日本の教育研究への関心の高さを示している、といった声が聞かれた。
 日本滞在中、ブラジルミッションは、在京ブラジル大使館、外務省、文部科学省、東京大学、京都大学、大阪大学、筑波大学、横浜国立大学、芝浦工業大学、(独)宇宙航空研究開発機構(JAXA)、(独)物質材料研究機構(NIMS)、(独)理化学研究所(スーパーコンピューター京)、(独)日本学術振興会(JSPS)、国立大学協会、 日本科学未来館および東京国際交流館を精力的に訪問し、日本の教育研究事情を視察するとともに、人脈の構築を図った。 
 また、8月21日~24日には、日本への留学生獲得のため、山野文部科学省審議官(高等教育局担当)を団長として、JASSO, 北海道大学、東北大学、筑波大学、東京大学、横浜国立大学、名古屋大学、大阪大学、九州大学、早稲田大学および芝浦工業大学の代表者計30名がブラジルを訪れた。サンパウロ大学およびリオデジャネイロ連邦大学で開催した留学説明会では、それぞれ約300名の学生が出席し、会場は満席となった。サンパウロ大学のアドネイ副学長によれば、このような盛況ぶりはイギリスの大学説明会以来、とのことであった。全体説明の後に設けた各大学のブースにはブラジル人学生が詰め寄せて熱心に質問をしていた。

各大学のブースで情報収集する学生 
於:サンパウロ大学
各大学からのプレゼンテーションを聞く学生 
於:リオデジャネイロ連邦大学


(4)インターンシップ
 先にも述べたとおり、シエンシア・セン・フロンテイラスでは、 各国企業等でのインターンシップを重視し、ブラジルの産業育成につなげることを明確に目標としている。
 ブラジルでビジネスを行う日本企業にとって、質の高い現地人材の確保が課題になっているという声が少なからず聞かれるが、いくつかの日本企業ではシエンシア・セン・フロンテイラスを戦略的に活用し、日本に留学しているブラジル人学生に対するインターンシップの機会の提供を通じて、ブラジルの大学との関係強化や人材育成協力を始めた。 
 後述するが、他国の企業の中には、より積極的にシエンシア・セン・フロンテイラスを活用してブラジルとの関係を強化しているところがあり、日本の企業もより戦略的に協力するメリットがあると考える。

諸外国の動向
  (1)各国への留学状況
 シエンシア・セン・フロンテイラスの公式サイトの最新情報(2012年12月6日更新)によれば、CAPESおよびCNPqが承認した国別奨学者数トップ10の国は次のとおりである。
 米国(約4,700名)、ポルトガル(約2,900名)、フランス(約2,600名)、スペイン(約2,400名)、カナダ(約2,100名)、 イギリス(約1,800名)、ドイツ(約1,700名)、オーストラリア(約800名)、イタリア(約600名)、オランダ(約600名)である。そして、11位は韓国(約200名)となっており、日本は19位で29名である。ちなみに、インドは2名、ロシア は1名、中国は記載がない。この結果は、教育研究レベル、言語的なアクセスのしやすさが背景にあると考えられるが、例えば、最も進出企業数が多い外国がブラジル、というドイツでは、ドイツ語教育はドイツ側が負担して積極的にブラジル人学生を受け入れている。また、韓国については、産業界の積極的なコミットメントも背景に、戦略的に多くのブラジル人学生を受け入れている。

 (2)各国企業の取組 

 Hyundai、british Gas、General EletricおよびBoeing社など、ブラジルにおけるビジネスを重視している各国の企業は、ブラジル人の人材獲得を目的として、戦略的にブラジル人留学生をインターンとして受け入れることを表明し、CAPESおよび CNPq と協力関係を構築している。Hyundaiについては、韓国だけではなく、世界各地のHyundaiにおいてブラジル人学生のインターンの受入れを行う戦略をとっている。

(3)日本ブラジル間でのシエンシア・セン・フロンテイラスの発展
 日本の今後の経済成長やイノベーション、国際化を通じた活性化および国際競争力の向上を図る上で、日本はもっと積極的にシエンシア・セン・フロンテイラスに関わるべきではないか、というのが、ブラジルの政治・経済的な力や今後のポテンシャル、また、諸外国のシエンシア・セン・フロンテイラスとの関わり方も見た上での率直な私見である。 

 ブラジルは世界最大の日系人社会を有し、その数は150万人ともいわれる。日系人は、ブラジル社会において、一般的に勤勉、誠実、といったポジティブな評価であり、ブラジルの農業や工業の発展に多大な貢献をしてきた。また、日本は教育熱心で技術力が高い国というイメージが定着している。過去に日本政府の奨学金により日本留学した少なからぬ人々が、ブラジルの主要大学で教員となっている。このような背景を日本は活かさない手はない。 
 今後、日本ブラジルともに産学官が連携してシエンシア・セン・フロンテイラスを実質的に活用することにより、両国の高等教育、学術、科学技術および産業の協力が、活性化し、発展することを心から望んでいる。

〔参考サイト〕
ブラジル公式サイトトップページ


 http://www.cienciasemfronteiras.gov.br/web/csf/home
ブラジル公式サイト日本のページ
 http://www.cienciasemfronteiras.gov.br/web/csf/japao

日本の受入れ機関情報
 学部生および博士課程学生
 
http://www.jasso.go.jp/study_j/csf_e.html


 ポスドク
 http://www.mext.go.jp/english/science_technology/1319964.htm

 http://www.mext.go.jp/english/science_technology/__icsFiles/afieldfile/2013/01/16/1325194_01_3.pdf