会報『ブラジル特報』 2009年7月号掲載

                      小林 利郎(協会常務理事)


 アマゾンの真只中、カラジャスの森林の中にあるヴァレ・ド・リオ・ドセ社の迎賓館に宿泊したときの経験である。そろそろ辺りが暗くなりかけた午後6時20分ごろ、突然風が出てきて森林の梢が揺れ始めたかのような音がしてきた。しかし風ではない。あたりの木々の枝や葉は熱帯雨林の蒸し暑い夕暮れの空気のなかでそよりともしていない。その音は大きくなったり小さくなったり、近くなったり遠くなったり、高くなったり低くなったりしながらおよそ30分続いた。そして7時少し前にぴたりと止まり、その後はいくら耳をすませても何の音もしなくなった。これが有名なアマゾンの猿のコーラスだった。静まり返った漆黒の大密林を凝視しながらアマゾンの大自然の大きく不思議な力をしみじみと感じた。

アマゾンの熱帯雨林はその広大な面積もさることながら、最も高い木から最も低い木まで、葉の層が5層あって高く中空にそびえる巨木の梢から低い潅木の茂みまで隙間なく葉が茂っている。従って大体三層の梢からなる温帯の森林よりはるかに多量の炭酸ガス同化作用を行っていて酸素供給能力がずば抜けて大きい、と学んだことがある。しかし周知のとおりそれほど貴重な大アマゾンの熱帯雨林が今急激な減少の危機に瀕している。

 すでに1992年第一回世界環境会議がリオデジャネイロで開かれ、先進工業国はアマゾンはじめブラジルの大自然が開発によって減少しないようその保護を要望した。この時アマゾン州のある政治家は素朴に、「人間の生活のために必要な自然破壊は許容さるべきである」という趣旨の発言をした。先進国の人々にはピンと来ないが、実際あの猿のコーラスの聞こえる大森林の真っ只中で生活していると、大自然の圧倒的な威厳と脅威の前に人間が如何に小さく無力な存在なのかを思い知らされるのである。そしてアマゾンの大森林には猿や豹や大蛇ばかりでなく、猛毒を持った小動物や病気を伝播する蚊やバルベイロ(心臓発作の原因となるシャーガス病を媒介する地蜂に似た虫)のような昆虫、有毒植物、はたまた多種多様な未知の寄生虫や病原菌等目に見えない恐ろしい生物が棲息している。アマゾンの人たちのみならず、森林の近くに住むブラジル内陸の人たちにとってmato fechado(密林)は温帯の日本やヨーロッパのような牧歌的で「美しい自然」ではなく、恐ろしい存在であり、保護すべき対象というよりは「闘って征服すべき強大な相手」という意識があることも理解しなくてはならない。

 日ごろ近代的な環境のなかで生活する先進国の住民にとって貴重な「猿のコーラス」も、アマゾンの人々には、冷房の効いた大劇場でのクラシック・コンサートや洒落たサロンでのボッサ・ノヴァや色とりどりの照明が点滅するロック・コンサートの方がよほど魅力があるのは当然であろう。自然保護と文明のバランスは実に難しい問題なのである。