今やMPB(ブラジル・ポップ音楽)の重鎮となっているシコ・ブアルケ。最初のアルバム『ペドロ・ぺドレイロ』をリリースしたのが、彼がまだ工学部の学生であった1965年であったから、ミュージシャンとしてのキャリアは40年以上というベテランである。 そのシコがシンガー・ソングライターとしての名声に加え、作家としても才能を開花させてきていることは周知の通りである。彼の小説第三作『ブタペスト』(2005年)は、邦訳(武田千香訳、白水社)も出ているが、リオ在住のゴーストライターの主人公がたまたまブタペストに降り立ち、そこで一人の女性と知り合って、という二都を舞台とする愛の物語である。
ストーリー展開も技巧的すぎることもなく、文学的完成度の高い作品に仕上がっているので、多くの読者を獲得したのは当然である。 ブラジル国内だけで27万部以上というベストセラーになっているが、その映画化が進められ、5月22日から、全国一斉公開されている。この映画(ワルテル・カルヴァーリョ監督)の評価も高く、これまた大いに話題となっている。 こうした話題性と同時並行するように、シコの四作目の小説が3月末に出版され、新聞文化欄のスペースをハイジャックしてしまっている。発売直後にベストセラー(フィクション分野)順位の6位に登場、その後も8週続けて2位から4位くらいのところをキープしている。
この小説のタイトルは『こぼれたミルク』(直訳)。これは、西洋全般のことわざ(英語では、It is no use crying over spilt milk.「覆水盆に返らず」)のポルトガル語版からきているので、この意味からすれば『覆水』という訳になる。 2007年から書き始めたというから、二年越しの仕事の成果だ。主人公エウラリオ・モンテネグロ・デ・アスンサゥンは1907年6月16日にリオで生まれ、100歳を超えた今、入院先の病室で看護士に自分の家族史を語り続ける、というストーリーが展開される。 1808年のポルトガル王室のリオ移転に同行したご先祖は、モザンビークからの黒人奴隷貿易で財を成し、男爵に叙せられる。 これが主人公の曽祖父。その子、すなわち主人公の祖父は、帝政時代の有力政治家で、バイーアのカカオ農園やサンパウロのコーヒー農園を所有していたが、奴隷制廃止論者として、全ての黒人奴隷をアフリカに回帰させよと主張した人物。父親は第一共和制時代の有力上院議員で、本人は有力者になり損ねたが、息子は、毛沢東主義派コミュニストになり、1964年からの軍政下で獄中へ、その息子、すなわち主人公の孫は、モーテルで暗殺され、その子(曾孫)は麻薬の売人、という家族。没落する名門ファミリーの物語、という設定である。 主人公の妻マチルダは、父親と同じ政治グループに属する下院議員の婚外子(バイーアの愛人が生んだ子)で混血、その彼女が16歳の時結婚、その後失踪、というような自分史の独白が続く。
いわば、ブラジル近現代史を文学作品のなかに取り込んだ小説であり、独白調の文体の完成度も高いと、玄人筋の評価は大甘気味。例えば、フォーリャ・デ・サンパウロ紙(3月28日付け)に一頁以上もの長文書評を載せた文芸評論家ロベルト・シュワルツの評価は「最高!」というものだ。
一方、総合週刊誌ヴェージャの書評は相当辛口であり、この作品はマシャード・デ・アシスの『ドン・カズムーロ』や『ブラス・クーバスの死後の回想』の構成を真似ただけで、マシャードの完成度には全く到達していない、としている。(この書評のタイトルからして「ほとんど死後の回想」とマシャード作品のタイトルをもじった、おちょくり基調だ。)文学としての評価はともあれ、超話題作であることは変わらない。
初刷7万部とのことだが、再刷も決まったようで、読書界の関心はすこぶる高い。筆者も発売直後に早速購入し一読したが、私的評価をすれば、「100点満点の80点くらい」だろうか。 文学作品としては、ストーリー性含め前作『ブタペスト』のほうが完成度は高いな、との読後感をもったが、父親(著名な歴史学者セルジオ・ブアルケ・デ・オランダ)のDNAを受け継いだかの如き、歴史の読み込みをフィクションに生かした才能には脱帽せざるをえない。
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