会報『ブラジル特報』 2009年9月号掲載

                         武田 千香(東京外国語大学准教授、協会理事)


 先の6月、東国原宮崎県知事が、衆議院選への立候補と引き換えに、自分を自民党総裁候補の一人に入れるよう要請したと知って、とっさに「ブラジルっぽい」と思った。なぜそう思ったのかを、事後的に考えて、もしかしたらそこにユーモアによって体制や規範に立ち向かう手法を感じたからかもしれないと思い当たった。今でこそ批判が集中し、支持率も下がり、窮地に追い込まれている自由民主党だが、何といっても戦後の日本のほとんどを支えてきた最大与党である。その自民党に対し、要請を逆手に取り、「私を総裁候補に…」と、奇想天外な要求を突きつけた。足元を見られたかのように、おろおろする大物政治家たち。それを見て、痛快に思った人もいただろう。そこにおかしみが生じたことは、その後、東国原知事の言動に対して向けられた「お笑い的」、「おちょくっている」、「まじめでない」といった反応からもわかる。ただ、その後の展開を見ると、本当にユーモアで体制に挑んだかどうか、そこは微妙だ。

 その真偽はともかく、ユーモアにかけて、ブラジル人があふれるセンスの持ち主であることは、多くの人が認めるところだろう。ブラジルでユーモアは、重要なコミュニケーション手段の一つといってもいい。このことは、しょっちゅう会話に挟まれるピアーダ(笑い話)からも感じ取れるし、ユーモア作家ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモの人気の高さからも明らかだ。そんなブラジルのユーモアを、私は「単なるお笑い」で済ませてはならないと思っている。そもそもユーモアによる笑いは、発話自体と、それがなされた文脈や状況とのズレや齟齬によって引き起こされる。つまりまずは、社会全体の合意または理想となっている「あるべき姿」(自然な発想・展開)が一方にあり、他方に、予想を裏切るような、意表をつく言動がなされたときに、ユーモアは生じる。ブラジルのユーモアが、単なるお笑いで済まないのは、それが多くの場合、規範や制度や公共的な組織に向けられるからであろう。政府機関や政党や聖職者が餌食となるピアーダが多いのはこのためである。こうやって法規や制度による規制や抑圧を、ユーモアで以て切り返すのである。

 このような「あるべき姿」(正当、真面目→ se´rio)と「茶化し」(おかしみ、喜劇的→ co^mico)の対比の間で生じるユーモアは、毒を緩和し、遊戯性を高める。そして、この二項対立こそが、規範にとらわれない新しい現実を生み出す創造的エネルギーになるという意味で、このテーマはブラジルの文化を考えるうえで重要である。「正式」や「規範」を鵜呑みにし、それを絶対化することなく、常にその対極に「非・正式」、「非・規範」の可能性を念頭に置くことで、ややもすれば圧力として君臨し兼ねないそれらの社会機構との揺れの中で、弁証法的な跳躍へのチャンスが生まれる。いってみれば、これは複数のパラダイムを持つ社会や人間の強みであり、自由な発想の源となる。社会全体の規則と、個人の好意や共感や都合の間で調整を図るジェイチーニョも、ユニバーサルなルールとマリシアのせめぎ合いの中で生まれる華麗なフッチボル・ブラジレイロも、このような観点から考えていけるかもしれない。

 1980年代半ば、初めてブラジルを訪れたとき、上を背広・ネクタイといったフォーマルな服装でまとめながら、下にはジーンズをはくという、当時の日本の「常識」から考えれば、実にちぐはぐで突飛な着合わせを見て、私は驚くと同時に、とても粋だと感じ、新しい地平が拓けたかのような感覚を抱いたのを覚えている。フォーマルに対する非フォーマルをも認め、それを融合できたからこそ生まれた新スタイルである。また、一見奇抜で、高級感漂う図柄のおしゃれなゴム草履が生まれ得たのも、やはりこうした文化的土壌があったからではないか。

 日本で最近、不定期で刊行され始めたパロディ雑誌『FAMOSO』(ビートたけし編集長・所ジョージ副編集長)の路線は、そうした創造力あふれるブラジルのユーモアに通じるのだが、はたして日本社会にどこまで、この類のユーモアを受容する土壌があるか…。ともあれ期待とともに、その挑戦を見守りたい。