会報『ブラジル特報』 2010年1月号掲載

                                 桜井 悌司(関西外国語大学 教授、協会理事)


2003年11月から2006年3月までジェトロのサンパウロ所長としてブラジルに駐在した。それ以前に、スペイン、メキシコ、チリ、メキシコに約13年、ブラジル出張10数回を数えていたので、赴任にともなう心配はなかったが、サンパウロでの生活は予想よりスムーズに入り込むことができた。その理由を考えると、私がミラノに3年駐在し、イタリア的なものを学んだからだという結論に達した。ライフスタイル、明るさ、楽観主義、デザイン、色使い等々がよく似ているのである。そのような観点から関心を持って調べて行くと、興味深いことがわかってきた。ブラジルで最大の移住者派遣国はイタリアである。私の友人であるイタリア貿易振興会(ICE)のランディ・サンパウロ所長によるとブラジルにおけるイタリア系移住者は8分の1の血の混じりまでカウントすると4~5千万人に達するのではないかという。

 イタリア移民が本格的に始まったのは、1820年で、その後1837年にも移住の波があった。1887年から1920年にかけて外国人移住者のラッシュを迎えるが、その半分以上がイタリアからの移民であった。サンパウロにはイタリア系がたくさん住んでいる居住区がある。例えば、ブラス、ベシーガ、ボン・レチロ等界隈である。イタリア人設計による建築も傑作が多い。例えば、トマソ・ベッツィによるイピランガ博物館、セントロにあるマルティネッリ・ビルやエジフィシオ・イタリアはパウリスタの誇りである。テアトロ・ムニシパル、メルカード・ムニシパルやピナコテカを設計したラモス・アゼヴェドの設計事務所には多くの優秀なイタリア系建築家、デザイナーがいた。絵画の分野でもイタリア系の活躍はめざましい。ピナコテカに行くとカヴァルカンティ、ポルチナッリ、アニータ・マルファッティなどの作品が所狭しと展示されている。経済分野でも一世を風靡したマタラッゾ財閥もイタリア系であるし、現在の経営者を見てもヴァーレ社長のロジェ・ア二ェリ、ペトロブラス社長のジョゼ・セルジオ・ガブリエリもイタリア系である。食文化の面でも、ワイン、さまざまなチーズ、ルッコラやズッキーニなどの野菜、オリーブなどイタリアがブラジルの食生活の充実に与えた影響は計り知れない。イタリアン・レストランもサンパウロにはたくさんあり、値段も高級である。

 一方アルゼンチンやウルグアイをみると、イタリアン系がスペイン系を押しのけ、乗っ取った感があるし、チリでもイタリア系は活躍している。私はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリの4カ国を「チャオ圏」と呼んでいる。イタリア語の挨拶言葉の“Chao”が日常的に使われるからである。

 2006年1月に家内とブラジル南部のベント・ゴンサルヴェスというイタリア系が多い町に旅行する機会があった。そこには、イタリア移民の歴史を映像とジオラマと案内者の語りで再現する「エポペイア・イタリアーナ」(イタリア叙事詩)という小さなテーマ・パークがあった。ヴェネト州出身のラザロという架空の人物がブラジル移住を決意し、ポルトアレグレに上陸、悪戦苦闘して大邸宅を建てるというあっけらかんとしたサクセス・ストーリーである。それを見てガルボン・ブエノの日本移民史料館を思い出した。日本人移住者は総じて成功しているのに、なぜ史料館のプレゼンテーションはかくも暗いのであろうかという疑問である。国民性の違いを認識した旅であった。

 ブラジルは移住者によって成り立つ国であり、宗主国ポルトガルは当然のこと、イタリア、ドイツ、スペイン、アラブ、アフリカ系等も頑張って国作りを行ってきた。ブラジルを理解する上で、イタリア人や第2の移住国ドイツ人の発想法を学ぶことが有益と考える。

サンパウロの移民博物館(筆者撮影)