執筆者:関根 隆範 氏
(ブラジル講道館 会長)

柔道は日本人移民の手によってブラジルに紹介され、農業と共にこの大地に根付いた。ブラジルの柔道は、日本以外の国としては最も古い柔道の普及国として育まれて、100年の歳月が流れたことになる。

嘉納治五郎は日本の武道から世界のスポーツを目指して、柔術の流派を統合して柔道を創設したが、それは明治維新から14年後の西暦1882年であり、それから30年も経過しない明治時代の後半には、柔道は赤道を越えて南半球のブラジルの奥地にまで深く浸透して行く。

その普及の過程は、日本人移民の歴史であると同時に、日本文化の国際的な変遷史であり、更にはブラジル人達が日本の柔道を携えて、他の先進諸国に柔道を指導に行くと言う、新しい波及効果をも発生させて行く日本の文化の伝播拡大段階の始まりとして見ることもできる。

 

柔道は日本で創設されて急速に世界各国に普及されて来たが、1世紀経過した現在、国際柔道連盟には199の国と地域が加盟し、国連加盟国数より多くなった。欧米、アジア諸国だけでなく、ブラジルを含む中南米40数カ国から、アフリカ新興諸国の隅々にまで柔道は普及してきた。ここ数年、ブラジルの柔道指導者が先進諸国の招聘を受けて、ドイツ、フランス、カナダ、メキシコのナショナルコーチにとして赴任して行くと言う現象も起きている。

日本人移民は、土を耕し新しい作物を植え付け、ブラジルの農業の土台作った丈でなく、その傍ら、全国各地に道場を開設し、丁寧に柔道の基本を受身から指導し、青少年を育て上げ、教育してきた。そこで育ったブラジルの柔道は、今や日本人、日系人の手を離れ、純粋なブラジル人が柔道指導者となり世界各国に招聘され日本文化やその哲学、精神文化を伝える役割を果たし始めてきているのである。

 

ブラジル柔道の導入時期

このブラジルに柔道はどのように伝達され、浸透し、普及されて来たのであろうか。

最初にブラジルに柔道をもたらしたのは三浦鑿造(愛媛県)がブラジル海軍の練習艦で柔道を教えた1909年と言う見方もあるが、三浦が柔道に携わった期間は短期間であり、正しくは馬見塚竹蔵(福岡県、柔道二段)だと言う考えが正しいと思われる。馬見塚は第二回移民船旅順丸で1910年にブラジルに到着した。モジアナ線ジャタイ耕地に配耕されて後、サンパウロで州警察で柔道指導を行い、後に1912年に、サンパウロ市グロリア街98番地で柔道道場を開いたが、これがブラジル柔道の始まりとすべきだと考えられる。

当時、道場には畳はなく、枯草で作ったコルション(マット)を紐で縫って3メートルと6メートルに繋ぎ合わせた粗末なものしかなく、そこで稽古が繰り返されていた。馬見塚は当時25の歳で、柔道の指導の傍ら、馬鈴薯の栽培にも努力して、高品質の馬鈴薯種の育成に成功した。コーヒー農園から近郊農業へと移動始めていた日本人移民達にこの馬鈴薯種の供給は大いに喜ばれたと言われている。

一方、1916年には、前田光世六段(青森県、別称コンデ コマ)は、アルゼンチンよりブラジルに入りサンパウロ、ミナス両州の地方都市で興業試合をしていた。講道館の世界普及派遣使節としてアメリカ、ヨーロッパ各国で柔道を紹介した後、前田は一度日本に戻り、1920年に再渡伯し、その後アマゾンの河口ベレンに定住する。

前田はアマゾン移住地選定に外務省派遣団に同行して、長期間奥地視察巡回の支援も行った。柔道指導だけでなく植民地開拓にも携わり、熱帯のアマゾン移民達と労苦を共にする。前田はそれだけでなく、グレーシー柔術の元祖ガスタニオン グレーシーに柔術を教え、世界の柔術大国ブラジルの基盤を作る。グレーシー柔術は格闘技の最強グループとして現在世界の注目を浴びており、最近は日本の全日本柔道選手権者が柔術家に転身して、ブラジルに柔術の修行に来ると言う逆流現象まで起こしている。

 

1920年には西郷隆治六段(隆盛の孫)が移民船で渡伯し、サンパウロで数年柔道の指導を行うが、後帰国した。そして1924年、ブラジル柔道の普及に最も貢献した一人と言われる大河内辰夫(北大農学部、講道館三段)が、ニューヨークにて高峰研究所でジアスターゼの研究を修めてから渡伯する。大河内は大河内製薬所を設立し、事業と併せ、日本の講道館と連携を保ちながら、終世講道館柔道の普及に尽くした。

 

ブラジル柔道普及拡張期

1930年代の初め頃には移民の中から柔道場を開くものも出て、青少年の指導、教育が進み、実力者が輩出するようになる。また柔道大会も頻繁に催されるようになり、統一した組織的な活動の必要性が出てくる。大河内は1933年に内藤克俊三段(広島県、鹿児島大学農学部卒、農業技師)、坂田輝夫五段等柔道指導者を集め、剣道の指導者達と共に、日本の武道普及を目的とした伯国柔剣道連盟を設立する。(1933年6月18日)

その中でも内藤克俊は学術、武術に優れ、1918年第一次世界大戦後、日本からアメリカに留学、ペンシルバニア州立大学(農科大学)に学び、1924年にはパリ オリンピックで日本選手として初出場し、レスリングで銅メダル獲得している。内藤は卒業後、1928年にブラジルに渡り、スザーノ農業組合で農事試験場長、組合長などの要職に就きつつ、中央線沿線及びリオ方面に広く柔道指導を行う。

 

同年7月には柔剣道連盟が中央線沿線を中心に、モジ、マリリア、ガルサ、バストスに連盟支部を設立、更にはサンパウロ州奥地に向けノロエステ線、アララクアラ線、ソロカバ線各沿線の各地にも支部を設けてゆく。同連盟は、1941年までに9回に亘り柔道剣道の武道大会を開催している。第一期柔道普及拡張期とも言える。

その間1939年には、日本国外務省が講道館の小谷澄之9段、佐藤忠吾6段を派遣、バストス、リンス、バウルー、モジ、サントスの各都市で柔道模範試合、柔道技術の普及に努めた。首都のリオでは海軍省、陸軍省にも使節団は招待され歓迎を受け、それだけでなく一般大衆を対象にした演技を中央メルカードで披露、紹介もしている。

大河内、内藤は柔道指導は行ったが、それで生計を立てることはせず、生徒から月謝をとろうとしなかったと言われる。小野安一は、しっかり柔道指導を生活に結びつけて、強い選手を育成することに専念した。

武道館の名で全国的に柔道を広げた小川龍造は、月謝はとっても、貧しい生徒には奨学金制度を導入、それだけでなく陰ながら食事まで提供していたと言う。当時ブラジルは経済的に非常に困難な時代であったが、きめの細かい、温かい柔道指導教育を施し、幅広い社会的な信頼をかち得て、サンパウロ市内だけでなくリオ市や遠い地方都市にまでで武道館支部を開き、一大勢力となった。

 

小川龍造(福島県)は、青年時代に柔術、伊賀流、鹿島真揚流を習得し、皇居で柔術の披露を2度に亘り行い、嘉納治五郎が同席していた記録がある。柔術の上に更に柔道を学び、自身の精神修養や、知育徳育体育を実践する嘉納治五郎師範の精紳を体得していた。小川は1934年に移民船ハワイ丸でブラジルに渡り、レジストロに入植するが、後にサンパウロに移り独自の道場(武道館)を開設する。厳しい礼儀作法と正しい技の指導を通じ数多くのブラジルの柔道指導者を育て上げた。その生徒の中から後にブラジル柔道連盟を創設し、連盟会長となるアウグスト コルデイロや、連盟創設メンバーであり、1963年の世界柔道連盟総会で技術部長に選出されたルドルフ エルマ二-も生徒の一人で、エルマニ―はリオ連邦体育大学教授として、柔道、柔術、カッポエイラ、更にジャーナリズを学び、生涯リオ地域の柔道指導者として、80歳近い現在でも尊敬を受けている柔道指導者である。

 

しかし第2次世界大戦が始まる1942年には連盟は解散を余儀なくされ、一時沈滞するが、この頃でも、小野安一、直一兄弟達は、(農業移民として19、18歳で渡伯、コーヒー園から出てサンパウロの中心街に道場を開けた)ブラジル人生徒を多く指導し、ブラジル社会での柔道普及に成果を上げた。

 

戦後の柔道

戦争による敗戦は日系人社会に様々な問題も引き起こしたが、矮小な日本人が5年間にも亘って巨躯の欧米人と矢尽きるまで戦ったその精神や気力を見直す風潮も生まれて、日本の武道、特に柔道に興味が向けられた。小野安一道場を始めとして、萎縮していた青少年の精神を鼓舞しようと、徐々に奥地の集団地にも柔道が再開され始め、機運を盛りあげて行くことになる。

 

大河内辰夫は、1953年に日本の講道館に要請して、高垣8段の引率で日本選手権保持者吉松義彦7段、大沢慶己5段を招聘、各地で柔道技術の披露を再開する。その際、全伯柔道大会も催され、講道館柔道系列の深谷清節道場、日系人青年主体の武道館、日伯混成の小野道場の間で火花が散り、深谷道場が優勝した。その深谷道場の選手はサンパウロ市最上流社会スポーツクラブの一つと言われるピニェイロスクラブのメンバーが中心で、ブラジル人の選手のみで構成されていた。

彼らの柔道は、技に優れていただけでなく、試合態度、礼儀作法が抜群に立派で、日本の先生達の称賛を受け、主将のマルチンスとドルバルは後に講道館から5段の段位を贈られた。日本の柔道はブラジルでその正しい国際化柔道として結実したものだとまで褒められた。

1957年、全伯講道館柔道有段者会が設立され初代会長に上記ドルバル カストロ シルバ(弁護士、後にサンパウロ州刑務所長)が就任した。理事長には大河内辰夫が選出される。翌年には講道館有段者会の支援で、ブラジルの法律に則った公的組織としてサンパウロ州柔道連盟が登記され、社会的な認証も受けられた。小野道場のルシオ フランコがその初代会長に就任し、大河内辰夫が技術部長に就いた。

同年、日本移民50周年の記念祭が行われたが、外務省は講道館の小谷澄之8段、篠原4段を派遣、アルゼンチンからの15名の選手との合同で日伯亜親善祝賀国際柔道大会が挙行された。

戦後になって、日本の経済の復興は加速され、海外に積極的な進出を展開するが、1962年には新日本製鉄を中心とした企業グループがミナス州イパチンガ市に日伯合弁事業としてウジミナス製鉄所建設を開始した。市に隣接する場所には柔道の大道場が建設された。阿南惟正、田尻慶一両氏は、新日本製鉄の本社から派遣され、日本企業として世界に冠たる企業文化の国際的信頼性構築を織り込んだ進出を敢行する。未開墾の山中に柔道の道場を建設し、現地従業員、町の住人、進出企業従業員家族が柔道の稽古を通じて一緒に汗を流し合う共有の場として誕生する。企業進出は、利益を追求することが究極の目的ではあるが、日本民族が国際的に展開する企業活動の新しい試みとしてブラジル社会ではこうした社会に益する企業活動の考え方を、今迄にない多国籍企業のあり方として敬意を払い、農業と併せて根強く、深く日本民族の活動をブラジルで広げることになる。ウジミナスには神永昭夫、須磨周司等全日本選手権者が指導に派遣された。

1965年リオ市建設400年祭の式典の際、第4回世界柔道選手権大会が開催された。大会終了後世界各国の選手団120名はサンパウロに招待されパウメイラスクラブで国際親善試合が成功裡に実現された。

1970年には、パンアメリカン柔道大会で、ブラジルチームは優勝、ブラジル柔道の国際的水準になったことが立証される。小野寺郁夫(8段、宮城県)はブラジル監督として、ジュニアも含めた選手育成に貢献し、隆盛期の基盤を築いた。1971年の世界ジュニア柔道選手権スイス大会で、ブラジルは全階級に出場、同年ドイツで行われた世界選手権大会でブラジルナショナルチームは銅メダルを獲得する。

 

岡野脩平監督と石井千秋のオリンピック銅メダル

1972年 岡野脩平監督(北海道、中大柔道部 8段)のもと石井千秋(栃木県 早大柔道部)はミュンヘン 五輪でブラジル柔道初の銅メダルを獲得する。

ブラジルは、この頃まではどの種目においても殆どメダル獲得ができなかった時代で、石井千秋は帰化してブラジルに初めて柔道でオリンピックメダルをもたらした。

監督の岡野脩平は北海道釧路出身で中央大学柔道部時代、学生柔道最盛期の中大レギュラー選手として活躍。卒業後大谷重工の労務担当勤務後、28歳でブラジルに渡り、数々の事業を起こす。と同時に、学生柔道で培った講道館柔道を教育的見地から伝達することに努め、戦後においてブラジル柔道の水準を石井とともに急速に向上させた功労者と言われる。

オリンピックで獲得した石井のメダルは、その後のブラジル柔道に確たる自信を持たせただけでなく、開発途上国状態のブラジルの他のスポーツにまで影響を与えたとさえ言われたその成果大きい。そして、ブラジルオリンピック委員会は、その後柔道に対して、常に上位の予算は割くようになり、その結果常時メダル獲得種目としての位置付けが整うことになる

1982年 全伯講道館柔道有段者会は、日本の講道館の創立百周年記念を祝して、日本、世界に先駆け講道館百年祭をブラジルで挙行した。嘉納行光講道館館長、松本芳三8段、安部一郎8段が招待され、日本の柔道界と共に祝した。

1988年 韓国のソウルオリンピックでは、アウレリオ ミゲールが、軽重量級で金メダルを獲得、続いて1992年にはスペイン バルセローナオリンピックで、ロジェーリオ サンパイオが中量級で金メダル獲得した。80年、90年代にはオリンピック、世界選手権大会でブラジルはメダル獲得常勝国として成長する。

1995年 日伯修好100周年を記念して、全伯講道館柔道有段者会は、全日本柔道チーム男女14名の選手団を招待、リオ、サンパウロ、イパチンガ市で国際親善大会を挙行した。

 

南米講道館建設、と姿三四郎ポ語翻訳版出版

2006年には、サンパウロ州政府、サンパウロ州柔道連盟、全伯講道館柔道有段者会が共同で、日本国外務省、草の根資金の享受が実現され、サンパウロ市内のイビラプエラ公園の敷地内に、270畳の南米講道館道場を建設計画。青少年柔道教育プログラムも併設した設備を完成させ、国内全国から選抜した優秀な人材を育成、柔道指導者の訓練、複数の外国選手団との合同練習可能設備を建設した。この道場はブラジル国内の選手強化練習は勿論の事、身体障害者オリンピック選手養成、型、護身術研修、幼少年柔道指導に活用されるだけでなく、欧米、日本、中南米、アフリカ諸国からの合同練習、国際的交流の場として非常に多大の効果をもたらすことになる。

日本に柔道修行に行くよりコスト的に安価に日本の柔道に極めて近い稽古ができると事と、ブラジル人独特の明るい、友好的な対応が世界の各国から喜ばれ運営されている。

2007年、富田常次郎著 姿三四郎 ポルトガル語版が、翻訳者林慎太郎氏の協力で出版された。林慎太郎氏は作家谷崎潤一郎の甥に当たり、柔道黒帯のエンジニアーでもある。この翻訳作業には外務省、国際交流基金の援助が受けられ、約10年掛かりで、柔道の歴史、技の解説、時代の背景説明も細かくて翻訳され、出版された。

同年にはリオで、130カ国参加の世界柔道選手権大会がブラジルで初めて開催された。ブラジルは3階級で金メダルを獲得、日本に続き世界第2位の成績を収めることができた。

 

更に質的成長期に向かうブラジル柔道

ブラジルの柔道は農業移民によりもたらされたが、その後、夢多き柔道家が参加した。戦後は日本の学生柔道連盟の有段者によりブラジル全国に分散した柔道指導が実行され、他国と違って質の高い柔道をブラジルに定着させることになる。岩船貢(ミナス)今永幸誠、安達敬之助(サンパウロ)吉田和男(バイア)は拓殖大学出身、松尾光久(ポッソス)東京農業大学、宿利憲生(バルジニア)日本大学、中央大学、早稲田大学、慶応大学の黒帯達は、技の指導だけでなく、日本の歴史や、精神文化の細かい違いを懇切丁寧に教えた。更には段位の決定システム、大会の運営、大会選手選考の標準化、指導者としての倫理指導、道場の整理整頓、寒稽古まで、国情を図りながら指導する。根気よく、自分の子供を教えるように、拙いポルトガル語を駆使しながら。

2014年8月に安倍晋三総理大臣が來伯された折、「日伯スポーツの絆」が両国政府間で検討され、交流を増幅させる具体的計画として発表された。安倍総理自ら時間を割いて、我々ブラジル柔道関係者とも親しく交わりを持たれた。その際、ブラジル柔連パウロ会長は、ブラジル柔道人口は200万人にまで達し、オリンピック委員会(IOC)、世界柔道連盟にも公表され、成長していると伝えた。この数字は、今迄世界最大の柔道人口をもつとされていたフランスの60万人、日本の40万人を大巾にしのぐ数字として、柔道創始国日本の元首をも驚かした。ブラジルの柔道は広く全国的に広がった事の証左と言える。

 

最近は、ブラジル国内で学校教育に柔道を取り入れる事を具体化している地域もでてきている。更には、貧困地域の教育に活用しようとする動きも広がり、柔道連盟と連携して、公共事業体が法令化する地域も出てきた。そうした動きを後ろ押しすべく、世界的に活躍してきたブラジル柔道選手達も、活動に真摯に参画している事を我々は知っている。

  様々な問題を抱えながら成長を目指すブラジルだが、青少年だけでなく、シニアー層、女性層、身体障碍者も含めたあらゆる層に、正しい日本の講道館柔道を伝達することにが、次世代を担うブラジルの若い指導者達の国の建設に、役立つものと確信している。丁寧で、強固な文化地盤形成の為に、今後10年、20年の地道な努力を継続することが、我々にも課せられた責務と考えている。