執筆者: 田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)

田舎風祭りの典型

聖体祭(Corpus Christi)と並んで、冬の祭典の代表格であるフェスタス・ジュニーナスの中核的存在のサン・ジョアン祭。村落社会の様相を強く醸し出すものでありながらこの祭りが、大都市を含めた全国津々浦々で催される国民的祭典であることには変わりはない。従って、祭りの形態や趣向、内容の点で、場所を問わず本質的には大差がない。が、余興を含めた祭りの構成要素や有り様は、大陸的な拡がりを持つ国土であるために当然ながら、地域的な違いなり特徴がみられるのも事実である。祭り自体が各々の地域の文化的風土や料理(法)、音楽等とも結びついているのはその好例だろう。

ポルトガルからブラジルに伝来したサン・ジョアン祭が、当初、根づいたのは北東部の地であった。そして、いつしかこの祭りは地域の伝統となり、住民の生活にも直結したものとなる。祭りで用いる装飾品や供される食べ物などには、ヨーロッパ(イベリア)のみならず、アフリカおよびインディオ文化が色濃く反映されている。しかも、土地柄もあってか、祭りにはアコーディオンが主役を果たす、地元の代表的なフォホー[(forró)=テンポの速い音楽とダンス]が色取りを添えている。カンピーナ・グランデやカルアルで催されるものがとりわけ、他の地域のサン・ジョアン祭と較べてみて独自性があるのもそうした事由によるものだろう。

ともあれ、サン・ジョアン祭は北東部の人たちにとって欠くべからざる一大年中行事であり、盛大に執り行われるだけに観光の目玉になっており、祭りの期間は内外から多くの観光客が押しかける。ちなみに、カルアルのそれは、野外で催される地域の祭典としては世界最大で、ギネスブックにも登録されている塩梅である。

深刻な貧困や旱魃の問題を抱える内陸部の住民にとっては特に、自らを慰め、喜びを見出すのみならず、雨や火、結婚の守護神に感謝する意味で、サン・ジョアン祭をメインとするフェスタス・ジュニーナスの持つ意味は決して小さくはないのである。サン・ジョアン祭では彼らは麦わら帽子に野良着をまとい、収穫したトウモロコシをベースにした食べ物や飲み物を口にする。そして夜の扉が下りると、焚き火の周りでのクワドリーリャはいっそう白熱を帯び、老若男女を問わず踊り狂うのである。祭りの舞台となるのは、広大な野外空間のアライアル(arraial)に限ったことではない。つまり、身近な居住空間も劇場と化す。祭りを主催する一団は唄を歌いながら通りを練り歩き、家を一軒一軒訪ね、対する訪問を受ける側の住民はこれに応えて、彼らに供するための盛り沢山の食べ物や飲み物を玄関や窓辺に具える。こうした習わしというか催しなどはまさしく、他の地域ではみられない一例かもしれない。

むろん、サン・ジョアン祭はブラジル全土で繰り広げられる。が、北東部以外ではフェスタス・カイピーラス(田舎祭り)の様相を呈するサンパウロ内陸部の、ケルメッセの伝統を墨守したものがつとに知られている。ちなみに、ケルメッセ(quermesse)とは本来、オランダ語のベルギー方言であるフラマン語で「バザーを伴う慈善のフェスタ」を意味する。そのフェスタは元来、カトリック教会が主催する慈善事業の一環で、提供品などをセリにかけられるのが一般的であったようだ。しかし今日では、このケルメッセなる言葉は、「祭りの市」と言った謂いで使われるようになり、住民の遊興の場となっている。会場となる野外にはさまざまな露店が立ち並び、それは日本の村祭りを想起させるものがある。このサンパウロのケルメッセの場合も、カトリック教会が主体的に活動し、学校、企業などが後押しするかたちだ。

中西部、わけても南マット・グロッソ州のパンタナルのサン・ジョアン祭は、その位置する地理的状況や文化風土もあって、特異かつ趣を異にしたものになっている。そこが大沼沢の水の世界であり、時期的にも雨季であることもあって、サン・ジョアン祭では焚き火が水に取って代わる。つまり、身を切るような寒さの中で、サン・ジョアン像が河岸の船着き場まで行列をなして運ばれる。そして、その像は洗い清められるのである。加えて、ここでの踊りの中心はクワドリーリャでもなくフォホーでもない。踊られるのはクルルー[=出自等については諸説があるが、中西部の典型的な民俗舞踊で、通常、男のみによって踊られる。(cururu)]と称するダンスだ。

どの地域のサン・ジョアン祭であれ概して、祭りの舞台となるのはアライアルで、それは囲いがされている場合とされていない場合とがある。そして、そこには通常、満艦飾さながらに色とりどりの紙製の小旗や気球などが飾られる。サン・ジョアン祭の場景を特色づける主要なアイテムである花火、焚き火、気球、クワドリーリャ、フォホー、喜劇化した演出の恋文郵便や田舎風の結婚式、迷信に基づく恋や幸福などを占うシンパチーアス等が、他の余興と合わせてなされるのはまさしくこのアライアルである。

こうしたサン・ジョアン祭に欠かせない余興を含めた構成要素の主たるものを前編で列挙したが、以下、その代表例を略述することにしたい。焚き火(fogueira)は祭りを特色づける最たるものの一つだ。それは、サンタ・イザベルが、山上で火を焚いて自分の子供であるサン・ジョアン・バチスタの誕生をキリストの母マリアに告げた合図、に由来すると考えられている。が、もっとも祭りと火を巡る起源は異教徒にあるようだ。ともあれ、23日の夜に焚き木に点火されると、祭りは最高潮に達する。余談ながら、焚き火の後の灰は肥沃の源となる。従って、北東部の農民は豊作を願って、翌年植え付けるトウモロコシの種を灰と混ぜて保管するらしい。

祭りの火蓋を切るのは、実質的な祭りの始まりを告げる気球であった。通常、灯された5個から7個が天空に放たれ、その気球には願い事などを綴った短冊が結び付けられる。こうした習わしは今日では、火災の原因になるために法律で禁じられている。にもかかわらず、気球が夜空を舞っている光景を目にすることは少なくない。

サン・ジョアン祭を惹きつける魅力と言えばやはり、中世に英国で生まれ、18世紀から19世紀の間に、フランス王宮の高貴な踊りとしてもてはやされた、「4人ペア」を意味するクワドリーリャだろう。ブラジルにはポルトガル王室の移転(1808年)に伴い、他の多くの祭りの習慣と共に伝わった。特筆すべきは、この踊りは単にフェスタス・ジュニーナスに限ったものではなく、カーニバルなどの他の祭典でも社交界を中心に踊られた点だ。共和政時代になると、都市部でのクワドリーリャは廃れ、あまり見かけられなくなる。ところが、工業化と農村部からの大量の国内移住が始まる1950年代になると、再びよみがえることになる。といっても、ダンスの主役は以前の貴族ではなく農村部の住民に取って代わるのである。サン・ジョアン祭が田舎祭りの典型とみなされる意味で、この事象は黙過しえないことだろう。

祭りを盛り上げる余興はあまたあるが、マストのてっぺんに牛脂もしくはグリスを塗った一種の木登りパゥ・デ・セーボ(pau de sebo)も一興だ。ポルトガル起源で、北東部では伝統的なものになっている。滑り落ちやすいマストを度重なる挑戦で頂まで登り詰めた者には、そこに具えられている賞品を獲得できる。ちなみに、マストは6月の三聖人に敬意を表して建てられ、肥沃を象徴するものでもある。地域によってはそのマストは、歌とダンスを伴いながら建立され、花や果実で飾られたりもする。

迷信や占いに基づく、一種の祈願でもあるシンパチーアスのなかでは、結婚や恋占いに関するものが主流を占める。例えば、両手に新品のナイフを手にして焚き火の熾(おき)の上を素足で歩く。その後、そのナイフはバナナの木の茎に差し込まれる。翌日、抜き取ったナイフの茎に浮かび出た染みのイニシャルが結婚する相手となる、と言う類の占いなどは、人口に膾炙した典型的なものだろう。

他方、新郎新婦と神父に仮装した田舎風の結婚の儀式(casamento na roça)も祭りには必須のアイテムである。かつて内陸部の村落社会では、神父の不在のために結婚の儀を挙げるのにも一苦労だったらしい。そのために実際、神父抜きで住民が焚き火の周りに集って式を挙行することが少なくなかったようだ。祭りでの田舎の結婚式は艶笑小噺的な寸劇で、プロットはお決まりのパターンで、男が娘を連れて駆け落ちし、激怒した娘の父親は警察を介して連れ戻すがすでに身ごもっており、神父を呼んで式を挙げる、といった塩梅。論じたいことは山々あるが、残念ながら紙面は尽きた。別の機会に譲りたいと思う。ブラジル研究家として名高いフランス人のロジェ・バスチードは、祭祀のなかでは、サン・ジョアン祭がもっともブラジル的であると述べている。最後に、まさしくそうしたブラジル的な、一種の遊戯詩である恋文郵便[郵便配達人の役割を果たす人を介して恋心を抱く人に宛てた恋文]の事例を紹介して、このエッセイを終わりたい。

 

Se jogares fora esta carta, me amas;
もし君がこの手紙を捨てれば、君はおれを愛しているっていうこと。

Se rasgares, me adoras;
もし君が破れば、おれが大好きだってこと。

Se guardares, por mim choras;
もし君が大事にしまっていれば、おれのために泣いているっていうこと。

Se queimares, quers casar comigo.
もし君が燃やせば、おれと結婚したがっているっていうこと。