執筆者:桜井 悌司 氏(日本ブラジル中央協会常務理事)

ブラジルの贈収賄事件に関する興味ある3つの点

 

今、ブラジルで大問題になっているペトロブラスを中心とした贈収賄事件、「ラバジャット事件」の動きをフォローしていると、いくつかの信じられないことが指摘できよう。まず第1は、収賄者の限りない広がり、第2は、収賄額の巨大さ、第3は、贈収賄方法の露骨さである。その背景となる国民性の相違につき独断で考えてみた。

 

シェークスピアの作品「ジュリアス・シーザー」に出てくる「ブルータス、お前もか」を思い出させるくらいに次々と収賄者が出てくる。大統領、大臣、連邦上下院議員等国内の政治家のみならず、ベネズエラ、ボリビア等ラテンアメリカの大統領等にまで広がっている。収賄しなかった連邦上下院議員を探す方が難しいくらいである。まるで「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的現象である。クリーンと思われている日系議員の名前も取りざたされている。興味ある点は、日系議員の場合、その真面目さを反映してか、収賄金の額が、ブラジル議員と比べて、俄然低額なことである。

 

第2の贈収賄額の巨大さは、日本人の発想からは信じられないくらい巨額で、2~3桁上でないかと思えてくる。しかも年々エスカレートしてくる。日本でも昔、ロッキード事件のように大きな金額の賄賂の話があったが、総じて規模が小さいと言えよう。最近の新聞やテレビの報道を見ていると、ラテン人もびっくりするほどの小さな額、例えば、10万円以下の贈収賄や接待でも新聞沙汰になり、逮捕されたり、あちこちから大なるバッシングが加えられる。収賄者は、容赦なく再起不能なまでに叩かれる。

 

第3の賄賂の露骨度合いもびっくりするくらいである。先進国であればもっとスマートな方法で贈収賄が行われるのであろう。ブラジルでも、おそらく、もう少し目立たずにやっていたと思われるが、今回のように限りなく収賄者数が広がりを見せると自ずと露骨なやり方になってくるものと想像される。

 

贈収賄を考える上での2つのポイント

ラバジャット事件から、日本人とブラジル人やラテン系の国民性も考慮し、2つの点を指摘したい。1つは、寛容力と許容度の相違、2つ目は、リカバリー・ショットの有効度の相違である。

 

ブラジルやラテン系の人々は、総じて寛大な性格を持っている。自分に対しても他人に対しても寛大である。時間に対しても寛大だし、お金に対しても、寛大である政府予算などは、時折ルーズとも思われる時もある。

どこの国でも、贈収賄は罪であり、法律に抵触する。そのことは誰もが知っていることである。しかし、ここで問題となるのは、どの程度までが、大目に見られるのか、許容範囲なのか?ということである。日本とブラジルでは相当大きな、相違があると思える。例えば、日本の場合、公私混同は嫌われるところであり、ラテンの世界から見ると十分に許される、極めて些細な公私混同も排除されがちである。ネポテイムズに対しても慎重であり、限度を心得ている。贈収賄額にしても、前述のように、ラテン人なら何の関心も呼ばないほどの小額でも反応する。これに対して、ブラジルやラテンの世界では、公私混同の幅が相当広く、アミーゴにでもなると、日本人から見ると、公私混同と思えるようなことをダメ元で頼んでくる。ラテン系のアミーゴを持った人なら経験したことであろう。しかし、これはどちらかというと公私混同の限度に関わる問題であり、どちらが正しいというような問題ではない。

 

ラテンの世界では、貧富を問わず、政府、政府機関、公社公団、企業で出世し、収賄者の仲間に入るくらいになると、一族郎党やアミーゴが黙っていない、何とか出世者がもたらす恩恵や甘い蜜にたかろうと集まってくる。仮に一人だけ清廉潔白でいたいと思っても決して一族郎党、アミーゴは許してくれないだろう。そんなことをしようものなら、一族郎党やアミーゴ仲間から爪弾きされる。特に貧困層出身者の場合、一族郎党は千載一遇の機会を逃すはずがない。日本の場合もネポテイズムが存在するが、元々許容度の幅が狭いのと、少しやりすぎるとマスコミ沙汰になることもあり、限定的と言える。日本人は、総じて裕福で、他人に頼ることを潔しとしないという性格も影響しているのかもしれない。

 

誰でも最初に収賄金を受け取る時は、恐る恐るであろう。しかし、回数が重なると、慣れで麻痺してしまう。さらに、収賄金の要求もエスカレートして行くのである。加えて、自分だけが甘い汁を吸っていると、周りから足をすくわれることもありうるので、アミーゴ社会のルールに従って収賄仲間を増やしていくことになる。発展途上国では仕事をする上で、賄賂は必須と言われてきた。自分たちが賄賂を贈らなければ、他企業が贈ることになり、プロジェクトを取られてしまい、勝機を逸することになる。OECDなどで賄賂を禁止するルールが出来上がっているが、なかなか贈収賄絶滅とまではいかない。発展途上国で、ビジネスをする場合、プロジェクトの契約額の10%とか15%をキーマンが賄賂として受け取る例もあり、中には、Mr. 10%とかMr.15%と呼ばれている人もいると言う。露骨度もこれくらいのレベルに達すると比較的清廉潔白な日本人ビジネスマンとしては、なかなか手が出なくなるし、むしろ手を出すべきではないと思われる。

 

ブラジルやラテンの世界では、一度又は数度、悪いことをして、有罪になった人でも、再び、三度、表舞台に出てしぶとく活躍する人が少なくない、特に政治家に多くみられる。日本では、名誉回復のためのゴルフでいう名誉回復・失地回復のための「リカバリー‣ショット」はなかなか認められない。一度でも破産したり、事業に失敗したりすると、その後成功しても名声に尾を引くケースが少なくない。ラテン世界では、寛容度の幅が大きいので、「リカバリー・ショット」に対して、総じて寛大である。表舞台に出てきた人物もあたかも何も悪いことをしなかったかのように堂々と振る舞うのを常とする。この点も、贈収賄問題が繰り返されることと関連してくるように思える。

 

1970年代に、メキシコに駐在していた時には、腐敗した警察官についての話題が多かった。街角に立って交通違反を取り締まる警察官も成績が良く、上司の覚えが目出度いと、白バイ、さらにパトカーに乗れるようになるという。出世すればするほど「mordida」(小賄賂)の収入が飛躍的に伸びるのである。それぞれの警察官が、収入の全額を受け取れるのではなく、機会を与えてくれた上司に対して上納金を納める必要がある。当時の雑誌によると、真面目な警察官は上司に上納金を支払えないので、週末の土日にパトカーを借り出し、収入を増やしたと報じられていた。ブラジルでも、警察やマフィアの世界では上納金が存在すると思われるが、政治の世界では、ラバジャットの贈収賄金がどれほど上納金として使われたかを知りたいものだ。とりわけ労働者党で上納金がどのように政治資金に使われたのを解明して欲しい。

 

欧米では、よく司法取引が使われる。日本大百科全書によると、「被告や容疑者が罪を認めたり、捜査への協力や他人の犯罪について供述や証言する見返りに、検察が求刑を軽くしたり、訴因が複数ある場合にはその数を減らすことを認める制度」となっている。今回のラバジャット事件でも、ペトロブラスや大手ゼネコンのオーデルブレヒトの幹部の証言が多用され、それら証言に基づき起訴される政治家も急増している。このような大掛かりな贈収賄事件では、司法取引は最適の方法と思われる。日本に、司法取引制度は存在しないのは、大掛かりな贈収賄事件がないからかなと何の根拠もなく思ってしまう。

以上、全く個人の意見である。