執筆者:桜井 悌司 氏
(日本ブラジル中央協会常務理事)

41年のジェトロ生活ではまってしまったことが2つある。サッカーとオペラである。本稿ではサッカーについて触れてみる。サッカーに取り付かれたのは、1966年のワールドカップ英国大会を記録した「ゴール」という映画を見たことに始まる。イングランドが優勝したのだが、観客のすさまじい熱狂ぶりと試合展開のスピードに強い感銘を受けた。

 

1.マドリード研修生時代(1968~69年)

1968年にマドリードにジェトロ研修生として1年間派遣されたが、レアル・マドリードのホームグランドであるサンテイアゴ・ベルナベウ球場に6~7回程度、足を運んだ。行きつけの理髪店の親父が、サッカーしか興味の無い男で、話題は常にサッカーで、それも嬉々として試合結果を語るのだ。これほど人を魅了するスポーツがあったのだと感心した。当時、レアル・マドリードにはアマンシオやピッリといった名選手が活躍していた。最も印象に残った試合は、1987年~88年の総統盃で、バルセロナとレアルが戦い、バルセロナが1対0で勝った試合であった。当時のスペインはフランコ独裁時代で、1939年から76年までは、総統盃(Copa del Generalisimo)と呼ばれ、76年から今の国王盃になった。あの広大なスタジアムが両チームのファンであふれる。満席のスタジアムでサッカーを見る喜びは格別であった。

 

2.サンパウロ出張時代(1973年3月~5月)

1973年にはサンパウロ日本産業見本市が組織され、出張で3月から5月まで3ヶ月滞在した。休みを利用し、リオに出かけたが、偶然リオの郊外電車に乗ったところ、巨大な建築物が目に入ってきた。隣の乗客に、「あれは何か」と聞いたところ、マラカナンだという。幸運にもその時間帯にサッカーの試合があるとのことだったので急ぎ、飛び降り、スタジアムに馳せ参じた。20万人収容時代のマラカナン・スタジアムで試合を見ることができたのはラッキーだった。サンパウロでは、パカエンブー・スタジアムでコリンチャンスのフォワードであったヒベリーノ選手をみることができた。彼は、メキシコで開催された1970年ワールドカップ優勝の立役者の一人で、左足の魔術師と呼ばれた選手である。

 

3.メキシコ駐在時代(1974~77年)

次の赴任地はメキシコで1974年から77年まで滞在した。メキシコはサッカーの盛んな国ではあるが、当時は、国際的には必ずしも強豪とは言えなかったこともあり、それほど熱心に通わなかった。それでも、1966年に完成した現在世界最大のアステカ・スタジアムに出かけたり、釜本選手を要するヤンマーデイーゼル・チームが訪墨したので、大学都市内のオリンピック・スタジアムに応援したことを覚えている。メキシコ人は、メキシコオリンピックでメキシコを破った日本チームの釜本選手をしっかり覚えていた。

2002年 日韓ワールドカップ準々決勝戦、ブラジル―イングランド戦

4.チリ駐在時代(1984~89年)

チリでは、家族揃って、たびたびサッカー見物に出かけた。1987年は、サンテイアゴでFIFAのワールドユース選手権が開催された。10試合の通し券を3枚購入し、3人の子供たちと順繰りにナショナル・スタジアムに連れて行った。この時は、決勝でユーゴスラビアがドイツを破り、優勝するのだが、当時大活躍した選手が、同国のボバン選手で、後にミラノに駐在した時に、ACミランに所属し活躍していた。その後、国名が変わりクロアチアになったが、首都ザグレブに出かけた時に、ボバンの経営するレストランで食事をした。またチリが誇る最高の選手の一人と言われるカルロス・カセリー選手の引退試合も家族揃って見に行った。家族で近隣諸国を訪問した際にも、チャンスを見逃さないようにした。リオのマラカナン・スタジアムで試合を見物したり、第1回ワールドカップの決勝戦が行われたウルグアイのセンテナリオ・スタジアムやブエノスアイレスのリーベル・プレート・スタジアムを見学した。

 

5.セビリャ万国博覧会時代(1989~92年)

チリから帰国後、スペインのセビリャで開催された「セビリャ万国博覧会」の仕事に1989年から93年まで従事した。8回に分けて、延べ1年2か月の中期出張が続いた。当時、セビリャには2つのチームがあった。セビリャFCとレアル・ベテイスである。ホテルがレアル・ベテイスのホームグラウンドに近く歩いて行けたこともあり、週末はサッカーを楽しむことができた。さらに幸運にも、あのマラドーナ選手が、ナポリからセビリャFCに移籍してきたのである。おかげで2回マラドーナの試合を見ることができた。やや太り気味で昔の動きが見られなかったのは残念であったが、1979年のワールドユース以来であった。

 

6.ミラノ駐在時代(1996~99年)

1996年から99年までは、ミラノに駐在した。何をさておき、最初にしたことは、1996年-97年のACミランのシーズン・チケットを購入することであった。イタリア語でアボナメンティといい、ホームグラウンドで行われる17の全試合を同じ席で見られるというものである。当時ミランには、イタリアで最高のディフェンスと言われたフランコ・バレージやパウロ・マルディーニ、フォワードのロベルト・バッジオがいた。鹿島でも活躍したブラジル人のレオナルドもやって来た。ところが、その年、不満足な成績に終わったのである。ちょうどその時、かの有名なブラジルの誇るフォワードのホナウドがライバルのインテルに加入するという情報が入った。早速、シーズン・チケットをACミランからインテルに乗り換えた。チームを乗り換える行為はイタリア人にとっては、許せない裏切り行為である。こちらとしては、サッカーを楽しむことが目標であるので、特に罪悪感は感じなかったが、イタリア人には乗り換えのことは話さないようにしていた。当時、インテルには、チリの英雄であるイバン・サモラーノやアルゼンチンのザネッティが活躍していた。ライバルのユーヴェントゥスには、あのジダンやデル・ピエロがいた。中田もペルージアに入団し、輝いていた時代であった。さらにフィオレンティーナには、バティ・ゴールで有名なアルゼンチンのバティストゥータが在籍し、全盛期の様相であった。サッカーの試合は常に楽しかったが、いわゆるダービー戦はサンシ-ロ・スタジアムが満席になり、サッカーの魅力を堪能することができた。ミラノ駐在中の1998年には、ワールドカップ・フランス大会があった。幸運にも、リヨンで行われる日本とジャマイカ戦のバスツアー・チケットを3枚入手できた。ミラノにいた3男と東京から呼び寄せた次男の3人で出かけた。日本は敗戦したが、中山選手が日本人として、カップ史上初めてゴールした試合であった。次男の航空賃、入場料、バス代、ホテル代も合わせ、しめて30万円かかった。その他記憶に残る思い出としては、サンシーロ・スタジアムで観戦中に猛烈な霧が発生し、数メートル先が全く見えなくなり、30分くらい試合が中断したことがあった。さすが「霧のミラノ」と実感した貴重な経験であった。イタリア駐在時代には、数えてみれば42回サッカーを見学した。日本のサッカーマガジンにも「Jリーグを発展させるには-セリエAに学ぶ」という記事も寄稿した。

2002年 日韓ワールドカップ準々決勝戦、ブラジル―イングランド戦でのホナウド選手

7.サンパウロ駐在時代(2003~06年)

最後は、2003年から2006年にサンパウロに駐在した。せっかくの機会なのでしっかり見ようと考えたが、2年5ヶ月の間に8回しか見られなかった。その理由は、サンパウロでは、チケット購入がイタリアほど容易ではなく、直接スタジアムで購入しなければならないこと、有名選手がほとんど欧州に出かけているので、スタジアムが満員にならないことが挙げられる。サントスにも出かけ、試合や博物館を訪問した。サンパウロ駐在の日本人は治安の問題を気にするようであるが、私は2度ばかり一人で地下鉄に乗り、サッカー見物に出かけたこともあった。秘書のマリアさんにそのことを話すと、「所長たるものそのような危険なことをしてはいけません。」とこっぴどく叱られた。しかしサッカー観戦でトラブルに巻き込まれない方法もしっかり会得した。(連載エッセイ12を参照のこと)

 

8.日本でも

今から振り返ると、回数は多くはなかったが、日本国内でも結構有名選手を見ている。例えば、1970年にポルトガルのベンフィーカが訪日したが、その時には、かの有名な「モザンビークの黒豹」と呼ばれたエウゼビオも出場してした。また1979年には、FIFAのワールドユース選手権が東京で開催され、アルゼンチンが優勝したのだが、その時に大活躍したのが、マラドーナや横浜マリノスに入団したラモン・ディアスであった。ヴァリッグの友人からチケットを入手し、トヨタカップにも2回出かけた。1983年と34年で、83年には、ブラジルのグレミオとドイツのハンバーガー、84年は、ウルグアイのペニャロール英国のリヴァープールであった。いずれも南米が勝利した。1996年は、日伯修交100周年記念の年で、組織委員会がブラジルからコリンチャンスを招へいした試合も見ることができた。

面白い経験としては、2001年にオープンした埼玉スタジアムで行われたイタリア代表と日本代表の試合がある。こけら落としは直前に済んでいたが、ピッチの芝が張り付いておらず、あちこちで剥がれ、前半終了後、多数の整備要員が大童で修復してした。このような芝の状況でワールドカップは大丈夫かなと心配したが、さすが日本、本番時には何の問題もなかった。日本と韓国で開催されたワールドカップも当たるはずが無いと考えたが、一族郎党で応募したところ、準々決勝戦のチケット4枚が当たり、息子たち3名を引き連れて、静岡のエコバ・スタジアムに出かけた。幸運なことにブラジルとイングランドという組み合わせであった。ブラジルのホナウド、ヒバウド、ホナウジーニョの三羽烏やベッカムも見ることができた。チケット代、新幹線代等でここでも20万円を散財した。埼玉スタジアムの日本とベルギー戦も幸運にも見ることができた。思えば、サッカーには結構なお金を投資したものである。

 

9.サッカーを通して考えたこと

1)地元に密着するということ

世界のいずれのプロリーグでも各チームは地元に密着している。日本でも当時のJリーグの川淵チェアマンが強力に主張し、そうなった。イタリアでは、年間のシーズン・チケットの売り上げ枚数が新聞に公開されている。当時のセリエAチーム18チームのシーズン・チケットの売り上げは、スタジアムの収容能力の50%から70%であった。金額は、正規の金額が100とするとシーズン・チケットの値段は、55になり、女性や子供はその30%引きで39となるので比較的買いやすくなっている。当時、大宮でイタリアについての話をすることもあり、大宮アルデイーリャに問い合わせたところ、10%程度ということであった。Jリーグももっと地元に密着することを真剣に考えるべきである。せめて3割くらいがシーズン・チケットの売り上げとなることを期待したい。

2)出稼ぎ国にみるブラジル選手とアルゼンチン選手

ラテンアメリカのサッカー選手にとって、欧州等でプレイすることが夢である。貧困から脱出し、家族を幸せにすることに繋がるからである。ひとたび欧州等に渡ると収入が飛躍的に増加し、知名度を高めることに繋がる。ブラジルもアルゼンチンもサッカー大国ではあるが、プレイする国を選ぶに際して、かなりの違いがあるように思える。ブラジルの場合は、開放的かつ外向きで、アラブでも中国でも共産圏でも、まさに世界のどこへでも出かけて行く。一方アルゼンチン人は、もっと内向きである。行先は、もちろん例外はあるが、宗主国のスペインと移住者が多いイタリアにおおむね限定されている。日本にも、ブラジル人プレイヤーは多いが、アルゼンチン人は少ない。昔、横浜マリノスにいたラモン・デイアスは例外的である。チリ人は、アルゼンチン人ほど内向きではないがブラジル人ほど開放的、外向きではなく、その中間である。

3)ブラジル代表ロナウド選手にみるフォワードの役割とヨーロッピアン・ドリームフォワードの役割は言うまでもなくゴールすることである。極端に言えば、通常はほとんど動かずとも、ボールが来たときに迅速に動き、シュートを打ち得点するのがその役割である。インテルに入団したブラジル代表のロナウド選手の動きを何度か見ている内に、この選手は、行動範囲がかなり限定されていることがわかった。日本人のフォワードであれば、ピッチを駆け巡り、時にはディフェンスの役割をも果たすとチームのためによく頑張っているという評価される傾向にある。おそらく日本人の勤勉志向から来ているのだろう。しかし、よく考えてみれば、フォワードは、チャンスの時には、いち早く動き、集中して、ゴールにまで結びつけるのが仕事である。ロナウド選手の場合、ボールを受け取ってからの初動の動作やフェイントは、普通のフォワードの5%か10%くらい早いような印象を受ける。FCバルセロナのメッシ選手は、ロナウド選手よりよく動くが、いざとなるとスピードが俄然加速化され、相手方のデイフェンスの選手がついていけなくなる。日本のフォワードもピッチを駆け巡らなくてもいいので,いざというときに確実にゴールしてもらいたいものだ。

ロナウド選手の移籍金の推移を資料等でみると、ラテンアメリカ出身のサッカー選手にとって「ヨーロッピアン・ドリーム」とは何かが理解できる。彼がミナス・ジェライス州の「クルゼイロ」から1994年にオランダの「PSVアイントホーフェン」に移った時は、60万ドルであったが、1996年のスペイン「FCバルセロナ」の移籍時には、1,700万ドル、1977年、イタリアの「インテル」移籍の際は、1,900万ポンド、2002年の「レアル・マドリード」に移った時は、3,900万ドルに跳ね上がったのである。貧困脱出どころか一躍大金持ちに変身となる。

4)選手、監督、審判を評価する

イタリアで夜に放映されるサッカー番組を見ると、非常に興味あることがわかる。サッカ―解説者が、プレーした選手一人ずつの評価するとともに、監督や審判なども厳しく評価するのだ。翌日の新聞を読むと、選手の評価が10点満点でなされる。6点がまずまずで、なかなか7点や8点がもらえない。全く活躍しなかった選手は、SC(評価するに値しない)ということになる。選手、監督、審判の評価は、同じくスペインやブラジル、その他ラテンアメリカでもなされる。日本の場合、このような制度がなく、それほど活躍しなくても、○X選手は勝利に貢献したというあいまいな報道がなされる。日本サッカーがさらに強くなるには、選手の評価制度を確立することが必要である。それには、解説者の見識やサッカー記者の実力を強化するための更なる切磋琢磨が要求される。