執筆者:山岸照明氏
(Yamagishi Consultoria Ltda. 社主、元アマゾナス日系商工会議所会頭)

連載63 アマゾン河で連載エッセイを書き始めましたが、もう少しこの大河の話をさせて戴きます。
前回の説明で 河川の流域距離は 本流+支流の流域距離で現すとお伝えしましたが、アマゾン河の支流は大小 1,100 の支流が、存在し1,000Km以上の流域距離の支流は19箇所、その合計流域距離は36.997Km と成ります。

例えば、ボリビアーブラジルを流れ、ブラジル南部よりマナウスへの重要な輸送水路 である マデイラ河 は3,250Km,  ブラジル西部を ペルーより縦断するプルス河は3,211Km   と 此の2支流で 本流流域距離より長距離になります。まあ、地球上の大河の大小は別にして、大海に注ぐ、河水は人間を含み、全ての生命に必要な飲料水を始め、自然の富を運んで来て呉れます。

 

アマゾン大河は我々人間のみならず地球の命にも絶え間なく富を齎してくれますが、最近(2010年か ??)現在のアマゾン大河の真下に平行して大河が流れていることが判明しました。アマゾン河は二階建てだったのです。

 

2011年当時 「実業のブラジル」 に毎月 「アマゾン便り」 と題し、投稿して居たのですがその件を取り上げた稿を転載します。

 

「アマゾン河の地下水流発見」

「延長約6000KMに及ぶ地下水流を発見した。上下二つの流れはほぼ同じ流域(西より東へ)を流れている。この発見は1970年より1980年にかけて、ペトロブラスがアマゾン河流域の探鉱のために穿孔した241の竪穴の温度記録を元に割り出した結論である。この発見をした地理物理学者のヴァリアー・ハムザの名前をとり ハムザ河と呼ばれるこの大河の水量は3000㎥/秒 で、アマゾン河の水量13万3000㎥/秒と僅か2%、しかし、サン フランシスコ河の水量2700㎥/秒よりも大きい。数字が大きすぎてにわかに計り知れないが、例えばサンパウロのチエテ河の水量は大雨で大増水した時の水量は1000㎥/秒との事である。」

以上、第二アマゾン河の発見当時のニュースをお伝えしましたが、その後調査も進み今(2017)では色々な調査結果が発表されていますが、どうやら,流水量は、アマゾン本流と同等との結果が出ているようです。

最後に、もう一つ、アマゾン河の最大支流の ネグロ河に橋が架かっています。マナウス市とネグロ河右岸のイランヅーバ市を結ぶ3,600mの大橋で、2011年に完成しました。アマゾン河を境にブラジル北部は南北に分断されていますが、この橋により南北の連携が出来てきました。ネグロ河大橋はアマゾンに掛かる唯一の“大橋”です。
アマゾンの人々 

南米大陸に人間が住み着いたのは紀元前1万1千2百年( 11,200 AC)と言われています。米州大陸の先住民インデイオは、北東アジアより渡ってきたモンゴル系アジア人という言い伝えがほぼ常識として知られています。現に 私もマナウスに着いた当時、川沿いの市場等の周りを裸で駆け回る子供たちのお尻には鮮やかな蒙古斑点が見られ“成る程”と思っておりました。

又、マナウスの学校の教科書には日本の縄文時代の土器が、アマゾンで発見されているとの記事を見たことがありますので、少しでも確認を取りたいと考え調べて見ました。以下概要を以下に記します。

一般的に東洋より、又太平洋より米国大陸への移民ルートは添付図が示すルートが考えられています。しかし、このルートを見ると、もしベーリング海峡が未だ繋がり、又は氷河期で凍結していたとすれば、最も可能性が高いルートですが、極寒の地域、食料も乏しい地域を家族連れで、長時間をかけ徒歩で 移住することは簡単な筈ではありません。

移民ルート

1964年南太平洋のシェパード諸島の火山島、バヌアツ共和国で奇妙な土器の破片が14個見つかりました。この破片は日本の縄文土器に似ており、バヌアツの土には含まれていないミクロバーライトという成分が含まれている、との調査発表がされました。(ハワイ、ビショップ博物館) ついで、この土器作成年代は約5000年前で、このような円筒下層式土器が出土するのは日本の青森県周辺です。(オックスフォード大学分析)

 

縄文土器

ここで、日本で作られた縄文土器が何かの理由でシェパード諸島に運び込まれたとの説が問われて来ました。そして、エクアドルのバルデイビア地方でも日本の縄文土器そっくりの土器が数多く発見されました。分析の結果、その原料は全てエクアドルの土と、判明し俄然、日本より縄文人が移住していた、という説 が起こり、約5000年前、縄文人が南米大陸に移動した可能性が高い、(米、スミソニアン研究所) また縄文文化は南太平洋ポリネシアより発祥との説も挙げられました。しかし、日本の縄文人は どうやってエクアドルまで 行けたのであろう???と疑問が沸いて来ます。

 

話が、アチコチにブレますが、1993年青森の遺跡でタイ、マグロ、ニシン等の魚の骨が大量に出土しました。これ等の魚は太平洋を流れる千島海流や日本海を流れる対馬海流に乗って来ます。縄文人は5000年前に外洋まで乗り出す海洋技術を持っていたのです。当時の丸木舟は二隻並行に並べ、脇に浮きをつけたアウトリーガー カヌーのような物で、その実験安定度を測定したところ、台風クラスの波を受けても転覆しないことが分かったそうです。とすれば、黒潮反流―フィリッピン迂回―島伝いに南下―エクアドルというルートに乗れば、バヌアツへも たどり着けたと容易に考えられます。

又、前記の回路図には載っていませんが、縄文人が海洋技術を持っていたとすれば、極寒そして食料の無いベーリング海峡を徒歩で米国へ向かうより、(日本より海のハイウェイといわれる黒潮がアメリカに向かい流れている)このハイウェイに乗れば、最も上陸できる可能性の高い場所はカナダ南部から、アメリカ西海岸に成ります。(東京商船大学 水中考古学博士茂在虎男教授)

 

北太平洋の海流は、ほぼ時計回りに流れ、日本付近を北上し、東進、アメリカ西海岸に沿って南下するカリフォルニア海流と成り、やがて赤道以前で北赤道海流となります。そうすると一見、アメリカ大陸からはなれ、南下出来ないことになるのですが、北赤道海流となる直前、北緯5度付近で赤道海流とは反対に赤道反流に乗ることが出来ます。そして次に陸地とぶつかる所がバルデイビア土器の発見されたエクアドルの海岸になります。

 

では、どうして縄文人は日本より移民しようとしたのでしょうか? 当然の疑問が生じます。バルディビア土器文明が始まったのは、約5500年前のことですが、丁度この時代、南九州一帯で大規模な地殻変動が起こりました。先ず6300年前、九州南部の海底に横たわる鬼界カルデラ(薩南海域約21平米火山活動による鍋底型地形)が地上空前の大爆発を起こし、火山灰が少ない所で60cm、多い所では5mも積もり、作物は日照が軽減し壊滅したのです。5500年、4500年にも大噴火が起こり、縄文人は決死の脱出を試み、その一部が黒潮に乗り、エクアドルに到達した、と考えられています。

 

また、秋田、青森当に遺跡を残した縄文人は 極度の寒波に見舞われ、太平洋に向かうか、黒潮に乗るか、又は ベーリングを徒歩で渡るルートに挑戦したと思われます。以上のように、縄文人が南米に渡り、その文化を現地に伝えたことは疑いないことと思われます。そして、アマゾン各地で縄文文化は拡大し、縄文土器の類似土器が出土しています。

 

縄文人のアマゾンに伝えた技術の貢献は、筆舌に尽くせぬ物があります。南米原産で近代文明に最も利用されている物にゴム産業が挙げられます。ゴムは6世紀のアステカ文明、11世紀頃のマヤ文明でもその使用が見られます。この製法は 複雑ですが、先ずゴムの木より、樹液を採取し加工します。樹木の幹に斜めに切り口を作り、流れ出る樹液を器に貯めて集めるのです。この方法は漆器の製法と同じで、地球の反対側の二つの地方で、同じ方法で原料を集め製品を生産しているのですが、果たして偶然でしょうか?日本の縄文人は漆の木に斜めに切り口を刻み 樹液を採集していたのです、従って、このゴムの樹液の採集方法も縄文人が技術を伝えた、と考えられます。5000年昔に 既に日本の技術がアマゾンに齎して居た事を考えると、私の心は踊りだします。