会報『ブラジル特報』 2010年5月号掲載 文化評論 岸和田 仁(協会理事)
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人文科学ばかりか社会科学まで縦横に論じ、該博な知識と強靭な論理に裏打ちされた批評を展開したウイルソン・マルティンス(1921−2010)が、1月30日クリチーバで永眠した。享年88歳。ブラジル的知性を代表する一人が、また消えてしまった。 マルティンスについて、筆者の私的回想をさせていただくと、初めてブラジルの地に踏み入れた1979年のシーンが思い出される。到着したリオ国際空港の雑誌書籍売り場であれ、駐在地レシーフェの本屋であれ、平積みされた新刊本コーナーで目立っていたのがマルティンス畢生の大作『ブラジル的知性の歴史』(全7巻)(1976−79)であり、一冊を手にとってはその物理的重さと内容の質的濃厚さに圧倒されてしまったからだ。筆者にとってはまさに「第一次ブラジルショック」であった。 この大著は16世紀から20世紀までのブラジル文芸史を通観した作品であるが、その圧倒的な分厚さと濃密な叙述は類書の追随を許さない。なにしろ第一巻(対象期間:1550-1794)が585頁、第二巻(1794-1855)が546頁、というように各巻が600頁ほどの厚さで、7巻もあるのだから。文学が主体だが、科学、哲学、音楽、芸術から社会思想までカバーしており、文字通り「ブラジル的インテリジェンス」の通史であり、初版が出てから30年以上たった今日でも、文学史・思想史研究に金字塔を打ちたてた名著であり続けている。 さらに、ブラジル社会を理解するための基礎文献の一冊とされているのが、『ある異形のブラジル』(初版1955)だ。これはドイツ、イタリア、ポーランドなどの欧州移民によって形成されたパラナ州のケーススタディーといえる歴史社会学研究であり、ジルベルト・フレイレが『大邸宅と奴隷小屋』で示した、先住インディオ+ポルトガル+アフリカという三つの文化の混血・融合がブラジル社会を形成したという“定説”への、南部ブラジル事例を通じた批判であった。 マルティンスはパラナ連邦大学法学部を卒業し判事として法曹界で働きながら、文学研究も継続し、フランス文学研究で文学博士を修得。出身大学教授(フランス文学)を経て、20年以上にわたって米国(ウィスコンシン大学やニューヨ−ク大学)で教鞭をとったが、並行してエスタド・デ・サンパウロ紙やジョルナル・ド・ブラジル紙の文芸時評を30年以上も続けた。論調は保守基調であったが、「作家について論じることはしない、作品を評するのが自分の仕事だ」と語っていた。 筆者の記憶に残っている彼の批評文の一つが、19世紀バイーアの黒人解放奴隷たちによるアフリカ回帰運動をテーマとした歴史小説『水の家』についてのものだ。これを作家アントニオ・オリントが書き上げ、初版が1969年に上梓された時、その文学作品としての質をいち早く評価したのが、辛口批評家として知られるマルティンスであった。筆者が彼の書評を読んだのは、発表されてから20年以上たってからだが、今からみても「ブラジル文学史に残る傑作・名品」との彼の評価は確かに正鵠を射ていた。 ブラジルのモデルニズモを論じた論文は、ポ語はもちろん英語やスペイン語でも知られているし、ブラジル演劇の歴史についての著作もあれば、ブラジル政治に関する論文もあり、数ヶ国語による、その膨大な著作リストを眺めると、該博な知識を駆使した知的業績の広さと深さには感嘆するばかりである。さらには、翻訳もいくつも手がけており、一番有名なところでは、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が知られている。 筆者は彼を「ブラジルの加藤周一」と勝手に命名しているが、古代から現代までの日本文学を独自の視点から読み解いた『日本文学史序説』が刊行されたのは1980年、『ブラジル的知性の歴史』全7巻が揃った1979年の翌年だ。一人で日本文学の歴史を全て通観し叙述したのは加藤周一と小西甚一の二人だけだが、ブラジルの全文学史に関して一人でやり遂げたのはマルティンスしかいない。また、梅棹忠夫の『文明の生態史観』を批判し、日本文化の雑種性を説いた『雑種文化』の精神は、マルティンスのG・フレイレ批判に通底するものがある。 加藤周一とウイルソン・マルティンス、今や二人の知の巨人を偲ぶことしかできない。 |