会報『ブラジル特報』 2010年月号掲載

                            松井 一(ブラジル戸田建設(株) 取締役支配人


当社がブラジルに進出したのは今から38年前、1972年です。日本での得意先であった協栄生命様がブラジルに進出し自社ビルを建設することになり、その工事を請け負うことになったのがきっかけです。

 最初に建設したのはパウリスタ大通りにある協栄パウリスタプラザビルです。当時建物の設計は日本で行いました。そのため日本の建築基準に準拠した設計で工事を開始しました。ご存知のように日本は地震国であり建物設計も地震を想定した強固なものでした。ところがブラジルは地震の無い国です。建設作業にあたったブラジル人は何故こんな太い柱を作るのかと不思議がっていたようです。仮にブラジルに大地震が起きてもこのビルだけは倒れないだろうといわれたようです。また当時のブラジルの建築基準法では外部の避難階段を設けることは義務付けられておらず、それをこの建物に設置しようとしたところ無駄なものだと思われたようです。ところがその後サンパウロでも高層ビル火災が相次ぎ、外部避難階段の重要性が認識されるようになりましたが、建築基準法が改正されるまでにはかなりの年月を要しました。今では当たり前になっている避難階段ですが、実は今でも古い建物には備え付けられておりませんので注意が必要です。

 1970年代のブラジルは日本からの企業進出、工場建設ラッシュであり、当社もサンパウロとマナウスの二箇所に拠点を設けました。特にマナウスは活況を呈し、大型の工場建設が相次ぎました。当社以外にも日本から数社が建設事業に参入していました。他社が日系企業の工場建設に専念する中で、当社は日本における得意分野である学校・病院に対して営業を行い、少しずつですが実績を重ねて行きました。同様に日系企業の工場建設で培ったノウハウを基に、日系以外の工場建設についても営業を行っていきました。そうして当社はブラジル進出後の早い段階から着々と現地化を図っていきました。

 80年代に入り、ブラジル経済は低迷することとなります。日本からの企業進出も急減し、日系企業の建設需要はほとんどなくなりました。それにともない、日系建設業者も潮が引くように撤退していきました。当社も同様に苦しい時期はありましたが、過去の実績をもとにブラジル企業からの受注により低迷期を耐え続けました。当社も撤退の可能性が全く無かったわけではありませんが、当社が建設した建物をお使いになられているお客様に対する道義的な責任もあり、また多くの従業員を抱えその生活を守るという使命もあることから、とにかく会社は存続させなければならないと考えておりました。幸い親会社も長期的な視点で経営を行っていくことに理解を示し、必要な支援は惜しまない姿勢を貫いてきました。毎年毎年地道に実績を重ねた結果、現在までにブラジル国内に600件を超える建物を建設するに至りました。まさに継続は力なりといえましょう。

 ブラジルでは設立後1年以内に倒産する企業が約30%、設立3年以内では約50%に達します。10年を超えて存続する企業が珍しいといわれる社会において、当社は38年間事業を続けてきました。これも当社を信頼し工事を発注してくださったお客様方と、当社で働いてくれた従業員およびその家族のおかげだと思います。

 再来年には当社も設立40周年を迎えることになりますが、これは単なる通過点です。当社は唯一の日系ゼネコンとしての使命を全うし、ブラジルの建設企業では困難である「高品質の建物を予定工期内に納品する」ことに全力を尽くし、ブラジルの経済発展の一端を担い続けることができれば、これに勝る喜びはありません。

「継続は力なり」を実践するブラジル戸田建設スタッフ