執筆者:岩尾 陽 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

ブラジル銀行日本支店開設物語 その1

「ブラジル銀行東京支店開店」

 

1972年2月17日、遂に東京支店が開店し銀行業務が始まりました。業務は、そのほぼ100%が大企業向け融資と、日本ブラジル間の輸出入業務に関する貿易金融や信用状の開設などでした。それでも、総合銀行ですから上記の企業向け当座預金の他にも一応、定期預金、通知預金、そして個人向けの普通預金も扱っていました。

当時の東京支店を外から見ると、ホテルのロビーのような風情で、普通よくあるような銀行の雰囲気ではありませんでしたので、一般の方々には入りにくかったと思います。したがって普通預金の大半は、ブラジルから送金される給料の振込口座として指定されたブラジル大使館の職員対象のものでした。個人客が主体の現在のブラジル銀行の様子からは想像も出来ませんが、1980年代までは、預金窓口に来るお客様は、本当に数えるほどでした。

開店直後、私は預金窓口に配属されました。 窓口のリーダーは当時の富士銀行から転職された、私より4歳ほど年上のHさんという女性でした。銀行窓口業務のベテランで、お札勘定(所謂、札勘)の手付きは、ほれぼれするほど鮮やかだったのを覚えています。結局Hさんとは30年以上、一緒に勤務しましたが、その間、彼女の仕事に対するプロ意識、骨惜しみしない勤務態度は尊敬に値するものであり、ブラジル銀行東京支店の窓口業務を支えた功労者でした。私は、札勘を覚える間もなく、数週間後には経理課に配転されました。経理課には一年ほど勤務しました。時代は日本が高度成長の入り口に差し掛かった辺りで、経済活動には熱気があり、企業の旺盛な資金需要の結果、開店直後から大企業向けの大きな金額の融資が始まりました。個々の取引単位は5億から30億円位の融資が中心でしたが、オペレーションの件数は、資金繰り、外国為替を含めても一日数十枚の伝票で用が足りました。コンピュータ導入の前でしたので、計算も、紙のロールが付いた無骨で大きな計算器を使って行いました。経理課では、毎日3時過ぎになると貸付課、預金課、資金課、外国為替課などから上がってくる伝票を借方、貸方に分けて机の上に広げ、それを勘定科目別に選別し計算機で集計します。一年ほどの勤務で、その計算機を打つスピードだけは驚異的に上がったと思います。その集計を基にして、貸借対照表(バランスシートBS)を毎日作りますが、常時動く勘定科目はせいぜい10科目ほどでしたので、出来上がったバランスシートは空欄が多くスカスカでした。今から思えば本当にのんびりしていました。

 

「外国為替課へ配転」

1973年半ばに外国為替課へ配転になりました。支店でも少しずつ新しいスタッフが増えてきました。殆どの職員が、私よりも年上で日本の銀行やメーカーなどの企業からの転職組でした。一方、時間と共に新卒女性職員も少しずつ増えてきました。最近でこそ外資系銀行は人気のある職場ですが、私が就職した頃には、外資系銀行で働きたい人はまだ少数でした。その大半が一匹狼、外国かぶれ、帰国子女でしたが、ブラジル銀行も例外ではなく、ブラジル勤務経験者、両親の仕事の関係でブラジルでの生活経験のある人、日本の企業に適応出来なかった人などが多かったです。日本の支店ですから、日常会話は日本語がメインですが、ブラジルから赴任してきたマネージャー達とポルトガル語で話す時間が多くありました。

本店への報告以外の銀行の書類は英語が基本でしたから、タイプライターは必須でした。まだ日本語のワープロもPCも無い時代でした。手動のオリベッティや、国産のブラザーのタイプライターが主流でした。電動のタイプライターが出てきた時には、その軽さやスピードに驚いたものです。時代は日本もブラジルも元気な頃でしたから、外国為替課の主たる業務である輸出入書類の買い取りや信用状発行業務も活発でした。信用状付の輸出手形の年間取扱件数取数が、大体1975件ほどで、丁度、当時の西暦年度と同じくらいだったのでよく覚えています。 その他、輸入の信用状発行、手形買取などを6名のスタッフでこなしました。ブラジルからの輸入金額は大きくありませんでしたが、ソフトドリンク用のガラナエキスなども扱いました。当時、ブラジル銀行には外国貿易局(CACEX)と言う部署がありました。1808年の創立以来、中央銀行機能も持っていたブラジル銀行ですが、1964年にブラジル中央銀行が設立され、金融政策と通貨発行は中銀の仕事となりましたが、外国貿易に関しての許認可を扱うCACEXはブラジル銀行の一部門として残りました。貿易管理当局としてブラジル銀行の中では一番有名かつ怖がられていた部門です。部門の業務として輸出入のライセンス発行をしていましたので、利益移転や脱税に繋がるオーバー・インヴォイスやアンダー・インヴォイスを防ぐために、輸出入商品の価格チェックも厳しいものでした。ブラジルの輸出産品としては、鉄鉱石や牛肉、鶏肉、コーヒー、オレンジジュース、砂糖などが特に有名ですが、日本に関しては、ちょっと意外ですが、結構な量の蕎麦粉がありました。 ある時、CACEXから、蕎麦粉輸出の値段が適正かどうかを調べるために、日本の「蕎麦の相場」(ダジャレではありません)を調べろという指令が下り、私がその報告の担当となりました。 もともと関西系の家庭で育ちましたので、どちらかというと「うどん」派で、蕎麦にはあまり縁がありませんでした。それが、毎日の日課として、業界紙である「蕎麦新聞」で蕎麦の値段をチェックして、CACEXに報告しました。蕎麦専門輸入業者を訪問し、蕎麦に関する色々な知識を得たり、薀蓄を聞かされました。以来すっかり蕎麦党になりました。高級な蕎麦粉は、大吟醸の材料である極限まで削ったお米の芯と同様、蕎麦の種子の、ごく僅かな本当の芯の部分だということも教わりました。

 

「国鉄のストライキと社員旅行」

 

現在のJRは民営化される前は日本国有鉄道、「国鉄」と呼ばれていました。1970年代は、まだ労働組合が大変に強かった時代で、毎年春先になると有名な「春闘」と言う名の下で数日に及ぶストライキが起きました。通勤電車が止まりますから、企業は従業員確保のためにホテルを予約したり、現在ではおそらく絶滅した、或いは絶滅寸前の「貸し布団業者」から布団を借り、社員は事務所で寝泊まりなどもごく普通の光景でした。当時の銀行は、その営業日や営業時間が銀行法で厳しく規定されていましたから、例え鉄道ストライキがあっても、朝の9時には店舗を開かなければなりません。そのため絶対に必要な人員には必ずホテルが用意されました。場所柄、千代田区のホテルを利用していましたから、帝国ホテル、第一ホテル、丸ノ内ホテルなどに泊まることが多かったものです。 まだ若かった私や同僚は、ちょっと不謹慎ですが、実はストライキがとても楽しみでもありました。最終電車を気にせずに、ちょっとお洒落なホテルの部屋で遅くまで飲み会が出来、エネルギーを発散しつつ親睦を深めるのには大変役に立ったと思います。同様に今から思えば、とても良き時代だったなと感じるのが、年2回の一泊二日の社員旅行です。銀行の業績に就いては、後で述べますが、銀行の収益も右肩上がりでした。 また、ブラジル本社も、日本での活動における企業風土に十分な理解も示してくれましたので、年二回の社員旅行も全ての費用を銀行負担でした。東京支店の社員旅行やクリスマスパーティなどのイベントには従業員の家族の参加も歓迎されました。ブラジルから派遣された駐在員と日本人社員が、日光や箱根の旅館で一緒に露天風呂に浸り、浴衣姿で宴会を楽しんだり、本当に楽しい思い出でした。当時の社員旅行は、間違いなく社員が楽しみにしていた親睦イベントの一つでした。

 

「貸付課へ配転」

 

1976年から外国為替課から貸付課へ配転となりました。私は外国為替課長代理となっていましたが、ある日突然、当時の支店長ジュリオ・ラモス氏から、「明日から貸付課長と交代。」と指示がありました。何の前触れもなく突然の配転でした。銀行では融資業務が花形職種の一つと言われていましたから、私にとっては嬉しい人事でした。日本は高度成長期で、企業の資金需要が非常に旺盛な時代でしたから、金融市場は超タイトな状況でした。銀行も顧客に対する融資枠は十分にあるのに、貸出資金が不足する時代でした。ですから、誰でも名前を知っている財閥系の東証一部上場の銀行ですら、グループ内の金融では資金需要が賄いきれず、ブラジル銀行も含め、在日外資系銀行支店にも沢山の有名企業が融資を受けるために列を成しました。東京支店の融資単位は、大体5億~30億億円が一般的でした。1970年代は日本のインフレも30%近い年もありましたし、当然、貸出金利も二桁以上が普通という、とんでもない時代でもありました。銀行間には、銀行同士で資金の融通をするコール市場と手形割引市場というものがあります。短期資金の貸借をするコール市場は有名です。手形市場も一般にはあまり知られていませんでしたが、その規模はコール市場を上回るほどでした。手形市場の資金貸借期間は1カ月から数か月に及び、コールに比べると中期的なものです。ブラジル銀行も企業に融資をする資金の調達先として、手形割引市場を利用していました。その手形割引市場のレートが、東京支店の貸出コストになり、それに上乗せ金利(スプレッド)を乗せたものが貸出レートとなります。当時は、融資担当者として毎日金利の交渉をしていましたので、今でもよく記憶しておりますが、その手形割引レートが一番高かった頃は、何と年利、13.875%でした。つまり、銀行間の貸借金利が、臨時金利調整法で規定されている金利上限に限りなく近いという、今の金利状況からすると信じられないような時代でした。 その銀行間の調達コストに、顧客企業の信用度によって数パーセントを上乗せして貸し出ししていましたから、出来上がりの実行貸出レートは年率15%を超えていました。

但し、一般的には融資金額の20~25%程度の歩留り預金を貰っておりましたから、その預金で金利調整した表面金利は15%を下回るものでした。その預金のことを、私達はCompensation Depositつまり金利調整預金と呼んでいました。これが誰でも名前を知っているような超一流企業への貸出レートでした。現在の金利水準に慣れた人には、アコムやプロミスなどの消費者金融の最高金利のようなレートに思われるでしょうが、その水準が70年代には当たり前だった時がありました。銀行にとっては、実に収益性の高い商売が出来た良き時代でありました。

 

「日本銀行の窓口規制とヒアリング」

 

当時、金融の世界では大変に有名だった政策の中に「窓口規制」というのがありました。英語では、文字通りWINDOW GUIDANCEと呼ばれていました。70年代当時、銀行貸出の余りにも急実な伸びに対して、政府は文書化された法律ではなく、日常の銀行業務をモニターする「日本銀行営業局」の窓口で、各銀行に口頭で毎月の貸出の増加限度額を伝えました。 法律に依らず日本銀行の判断で金融政策が実行されるという誠に日本的な、世界に例を見ない制度でした。

各銀行は営業局から間毎月の増加限度額を口頭にて指示されます。その限度額を超えて、その月の貸し出し純増額がそれを超えてはいけません。ブラジル銀行の場合は毎月30億円程だと記憶しています。ですから、1年で360億円の貸出純増が認められていました。資金需要の旺盛な時代でしたから、東京支店も限度一杯、貸出を増加させました。少し大袈裟に言うと、その限度以上の融資申し込みがありましたので、今月はどの企業に枠を振り当てようか迷うこともありました。何とも銀行にとっては恵まれた時代ではありました。

日本銀行との関係では、その他に「月次ヒアリング」と言うのがありました。毎月、日銀営業局の担当者から、「何日の何時に来てほしい。」と電話がありました。日銀関連のニュースで総裁や理事が車から降りてきて建物に入るシーンをよくニュースなので見ますが、私が毎月通ったのも、同じ地下2階にある、隣の来客用入口からでした。ニュースを見ると、今でも懐かしく思い出します。そこから3階か4階にあった営業局に行って、担当官と面談です。 話の内容は、前月の融資の増減、新規融資顧客の説明、そして全体的な東京支店を取巻く資金需要動向、ビジネス環境でした。

 

「貸出資金調達のレバレッジ(梃子効果)について」

信用さえあれば世の中を苦労少なく歩いて行けます。その最たる物の一つが金融だと思います。信用さえあれば、借りたい金額を、限りなく低い金利で借りることが可能です。信用の無い会社や個人は、消費者金融や質屋、ひどい場合は闇金融のお世話になったりします。例えば、「遠くの親戚よりも近くの質屋」などと、一見優しそうな質屋の宣伝を駅のホームの看板で見ることがあります。ほのぼのと温かそうなフレーズですが、質屋での借り入れも、実は相当にシビアであります。

その反対に、信用があれば上記の如く、高額を低利で借りる事が可能です。銀行業務における銀行の信用度と顧客の信用度も然りです。 70年代はブラジルがまだ第二次オイルショックから始まった累積債務問題に苦しむ前でしたから、ブラジル銀行も信用がありましたし、東京支店の顧客である一流企業も高い信頼度を誇っていました。

ここでは、信用が信用を産む、金融のレバレッジに就いて少しお話しいたします。信用さえあれば、小資本でも大きな収益があげられるという見本です。例えば、1970年代初頭の円の対ドルレートは、大体300円位でした。ブラジルから34百万ドルほどを持って来て、それを円転すると100億円になりました。 後の話を判り易くするために、金額は110億円としておきます。それを最初の貸出先の優良企業に融資したとしましょう。ここでは、仮にA社とします。A社は信用がありますから、担保を下さいなどと、無粋且つ非礼なことは言わずに、東京支店は喜んで無担保で貸します。必要なのはたったⅠ枚の単名約束手形です。今の一万円札を少し横に延ばした位のサイズの、たった一枚の用紙に約束手形と書いて、そこに金額、満期、支払地、受取人、振出地、振出日、振出人の署名または記名捺印すれば、それが大きな金額的価値を持つ約束手形に変わります。それが信用です。A社の代表取締役が、110億円と書き込み、それに記名捺印すれば、ただの紙切れも110億円の価値を持つ単名約束手形に変身です。単名(sola firma)とはよく言ったもので、正に一人の記名捺印があれば良かったのです。当然ですが、信用度の高い同社の約束手形は、日本銀行、あるいは市中銀行間の手形割引市場からブラジル銀行がお金を調達する時の担保適格手形でありました。

さて、ブラジル銀行東京支店は、その手形を受取り、代わりに110億円をA社の当座預金に振り込み、貸出業務は完了します。そして、資金の梃子効果はここからです。東京支店は、その手形を担保にして、銀行の約束手形を振出し、それを日銀公認の資金ブローカーである「短資業者」を通じて手形市場で割り引いて貰います。その時の担保掛目が110%です。 つまり、A社の110億円の手形を担保にすると、100億円が調達出来ました。 そして調達した100億円を、次はB社に貸し出します。そのB社の手形を担保にすると、同じように手形市場で90億円が調達出来ました。その90億円の手形を担保にすると、また80億円が調達出来ました。 それをドンドン繰り返す、即ち梃子を掛け続けると、理論上、最初の100億円の資金が、最終的には1200億円近くに上ります。これが資金のレバレッジです。ですから、信用のある銀行が,信用のある企業にお金を貸せば、小資本でも大きな融資残高にすることが可能になるのです。当然ですが、70年代の大半の銀行は、かくして高収益を謳歌することが出来たのです。まあ、上手い話は長続きしないのが世の常で、この手形割引市場も、80年代の超金融緩和によるバブルの発生などで大蔵省の規制の対象となり、バブルともども消滅してしましました。  それから間もなく、第2次オイルショックが起き、重債務国となったブラジルの暗い時代が少しずつ近づきつつありました。                                         (続く)