会報『ブラジル特報』 2010年7月号掲載 エッセイ 栗田 政彦(甲南学園平生釟三郎研究会委員、協会理事)
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平生釟三郎(1866?1945年)は、現一ツ橋大学に編入、首席卒業後29歳の時に東京海上保険にスカウトされ専務取締役となり、中興の祖とも称されるほどに大活躍。大正海上火災保険ほか他社の取締役も兼ね日本の同業界も育てる。59歳の時に社会奉仕に専念するため同社専務を辞任。日本製鉄(株)社長や財界活動、甲南学園創立ほか教育・福祉事業、文部大臣・貴族院議員・枢密院顧問等々、八面六臂の活躍をした巨人である。 戦前から戦後に繋ぐ日本とブラジルとの交流の大偉業や当協会創立理事としての活躍も見逃せない。背景となる平生の世界観は、これからの日本ブラジル交流や日本のあり方を考える時に、あらためてひも解く価値があるといえる。 当協会史料によれば、1932年11月高松宮宣仁親王殿下を総裁に仰ぎ創立され、奉戴式が12月27日に挙行された。11月19日の平生日記には「今朝東京到着、正午外務次官有田氏ノ招ニヨリ同官邸ニ赴キ日伯中央協会創立会ニ列ス。・・余モマタ理事ノ一人ニ加ワリ・・」と創立会の詳細が記されている。2代目海外移住組合連合会長就任直後のことである。 平生の三大偉業の要点は、①連合会会長として、移民政策改革と私費育英会一番弟子の宮坂国人氏を現地ブラ拓の責任者に送り込み、「移殖民の『満足を買い』彼らをしてブラジル移殖の利益を理解せしめなければならない」との経営方針を徹底させ改革を進めた。結果、移民送出数V字回復と記録(1933年29,033人)、農家の定住への環境改善と収入増、南米銀行創設など戦後に繋がる多機能かつ堅実な日系社会構築への基盤も完成させた。 ②1935年実質排日法「移民2分制限法」の制定による関係悪化を懸念した広田弘毅外相や駐ブラジル大使澤田節蔵(第4代当協会会長、平生と姻戚関係)は、ブラジル訪問経済使節団を派遣して国家間関係強化を団長の平生に託した。平生は重点施策として、親善の第一歩は、何を買うかの調査と選択(Giveから)、日本の世界的な繊維とブラジルの綿花を結びつけ、世界貿易に双方貢献することなどを掲げ、両国要人の共働を押し進めた。短期間でブラジルの対日綿花輸出額20倍増など驚異的な成果を供し資源確保にも貢献。経済だけでなく、国家レベルの人と人の触れ合いが高まり、相互理解を促進して移民以外の深い交流も開始された。 ③翌年、平生は訪日ブラジル経済使節団の国賓招聘を実現させる。Salgado Filho 氏を団長とする使節団は、伝統文化と調和した日本の近代化はヨーロッパに引けを取らないことを認識して、交流発展を積極的に推進した。ブラジルのマスコミも連日のように近代日本と日本人を報道し、ブラジルでの日本熱も昂揚する。同氏は帰国後の連邦議会報告で「尊敬する日本を世界から孤立させていけない」と演説するほどに触れ合いを深めた。1937年には、当協会のリオ支部も開設された。3つの偉業の節目では、当協会が主催する数々の行事も行われた。
以上、日本ブラジル関係での平生の考えを要約したが、当時の外交課題にも発信を続ける。「国際交流は経済関係がなければ脆弱、Give & takeがモットー」「自由な通商がなければ国際関係は行き詰まる。強いアメリカは保護主義に走るな」「日本も自給自足論に従って関税障壁を設け他国製品の輸入を禁止すれば、生活 レヴェルの低下と人減らしを覚悟しなければならない」「アメリカと戦争はするな、過剰軍備と強欲で自滅の機会を待て」「隣国中国とは仲良く、政治経済の交流推進」。教育については、「シナを建設する大使命を果す子供を育てるには、優等生教育方式では難しい」。 閉塞感の漂う今の日本、政治不安定、輸出依存経済、世界からの孤立、人口問題、教育、移民、米国、中国、軍縮など、中身は異なっても国家的課題には平生の時代と類似のKey wordが並ぶ。平生の世界観や行動力は、今も大きなヒントがある。 日本が世界で物をいうには、アミゴのように応援してくれる大国が不可欠。唯一の国がブラジルではないだろうか。資源を求めるだけでなく、私達にとって大切な国としての関係構築に、まずはGiveから始めることが大事である。平生の国家論は最近刊行開始された「平生日記」や漫画版でも接する機会が出来た。 |