執筆者:後藤 猛 氏
(NPO法人イスパJP理事、元在ポルトアレグレ領事事務所長)
「リオ・グランデ・ド・スール州のワインの始まり」
現在のリオ・グランデ・ド・スール州サルトリ知事は、知事に就任する前にイタリア人移住者が多く住む地域にあるカシーアス・ド・スール市の市長を務めており、同知事もまたイタリア系の人です。
サルトリ知事は、対日経済関係も重視しており、昨年、日本を訪問し、東京では、経済界との会合、浜松では講演会の開催、その後姉妹都市である滋賀県を訪問し、リオ・グランデ・ド・スール州と日本との経済交流の増進に努めています。
こうした状況の中、私は、先般、開催された「FOODEX2018」のブラジルブースを見学しました。その際、ブラジル産品の中で、リオ・グランデ・ド・スール州産のワイン会社が数社スタンドに試飲コーナーを設け、広報に力を入れていました。私も以前ポルトアレグレに在勤中にベント・ゴンサウベスのワイナリー巡りをしたことやガリバルディのスパークリングワイン等も堪能したことを懐かしく思い出した次第です。そこで、本稿では、リオ・グランデ・ド・スール州でのワインの始まりについて少し、触れてみたいと思います。
リオ・グランデ・ド・スール州におけるワインの製造は、セッラ・ガウシャと呼ばれる地域においてイタリアのべネト州出身のワイン作りの熟練したイタリア人移住者により、高度に完成するわけですが、同州に最初に移住したのは、ドイツ人であり、1824年にドイツ人により、ブドウ栽培が始められ、1875年にイタリア人移住が始まるまで続きました。そして当時は、ブドウ栽培及びワインは、まだ現地での消費が主であったようです。
そして、1626年にワイン作りのパイオニアと呼ばれるロッケ・サンタクルス神父によりスペイン産のブドウの木の苗が持ち込まれましたが、当時、ブドウ生産は、キリスト教の布教と共にあったようです。その後、1737年には、ポルトガルのアソーレス諸島からリオ・グランデ・ド・スール州への移住が始まり、アソーレス諸島あるいは、マデイラ島からブドウの苗木が持ちこまれました。
そして、1875年にイタリア人が入植してから、ワインの生産は勢いを増します。ただ、当初は、まだ、家庭にて消費するのが主であったようですが、1890年頃からは、移住者達は、ポルトアレグレはじめ他の町へ行商に出るようになりました。
当時の運送手段としては、ロバの胴体の片側に20リットルそしてもう片側に20リットル計40リットルの樽をロバに担がせ、10頭から12頭で列を組んで行商していたようです。そして、行く先々でワインとチーズ、豚肉、豆、麦,コーヒー、砂糖、織物 工具 揮発油等との物々交換を行っていたとのことです。行商の際には、ロバに担がせている大樽から小さな樽に移しかえる訳ですが、ロバに担がせている樽は、独特の形で、そ
れぞれの持ち主がすぐにわかる形をしており、空になった樽はその持ち主に返却されていました。しかしながら、衛生的な問題や生産の際の状態また輸送時の問題等から、ワインは、衛生上良くないものとなっていたことが、珍しくなかったようです。また、大きな町には、ギシギシという音が今にも聞こえてきそうな簡単な作りの荷馬車にワインの樽を積んで運んでいたのですが、なにしろ道が悪いこともあり、輸送は、困難を極めたと言われています。
ポルトアレグレに初めてワインが輸送された旨のニュースが、1884年に掲載されており、その後、樽を作る熟練職人も現れ、徐々にワインの増産と共に販売が促進されました。さらに道路が整備され販売は一層飛躍することとなりました。そして1898年には、イタリアのルッカ出身のアントニオ・ピエルーチニにより、リオ・グランデ・ド・スール州のワインが大消費地であるサンパウロを目指し、ロバの背中にワインを担がせ、サンパウロ州のサン・シマンまで初めて運ばれることになります。更に、その2年後には、イタリアのヴィチェンサ出身のアブラモ・エーベルレが危険を伴いながら、ワインを初めてサンパウロまで運ぶことに成功し、ワインを完売しました。ここにきて、リオ・グランデ・ド・スール州産のワインは、イタリア人移住者の努力により他の州へ運搬できるようになり、新たな段階を迎えることになります。
1908年には、モンテ・ネグロとラゴア・ヴェルメリャとの間で道路が完成し、この時期から各地に広がる交通網が整備されました。その後、1910年には、カシーアス・ド・スールとモンテ・ネグロとの間に鉄道が開通し、運送手段が飛躍的に発展することになりました。さらにポルトアレグレまでの鉄道が開通し、ワインの生産及び販売が一層近代化されました。
2017年の統計によると、高級ワインを49.31百万リットル生産している他、一般的なワインを254.15百万リットル生産しており、現在、リオ・グランデ・ド・スール州のワインの生産は、ブラジルの90%に達するまで成長しています。
「カシャッサについて」
ブラジルのサトウキビというと先ず東北伯を思いうかべますが、レシフェ市内から近郊の砂糖キビ畑を訪れると畑というより、砂糖キビの小高い丘がどこまでも連なっているといった風景が目に飛び込んできます。雄大な景観の中、灼熱のまぶしい太陽が燦燦と照りつける中、まだ刈り取り前の緑の丘と既に刈り取られた後のあわい黄色を帯びた丘が連々と繋がっています。そして、眼下に広がる緑と黄色を帯びた丘のコントラストが実に美しく、まるで画廊から一枚の絵を取り出してきたような風景が印象的でした。そして、その丘と丘との谷間をあたかも丁寧に縫い合わせるかのように刈り取ったばかりの砂糖キビを車体が見えなくなるほど荷台に背負い、ゆっくり、ゆっくりと進む小さなトラックの情景を思い出します。そして、その小高い丘の上には「PITU」や「51」といったブラジル全国で消費されているお馴染みのメーカーの巨大なビンの広告が雲一つない紺碧の空の下、丘の上にドンと構えていたことが印象的でした。
カシャッサは、現在、東北伯のみならず、ミナス・ジェライスやサンパウロ等他の地域でも製造されていますが、ブラジルの最も南で霜や雪も降ることもあるリオ・グランデ・ド・スール州のポルトアレグレ近郊のイボチにおいて良質のカシャッサが生産されていることに在勤していた当時驚きました。このカシャッサを製造している醸造所は、ポルトアレグレ市近郊の人口約2万人のイボチにあり、同市では、花を栽培している農家も多く、街には、緑が多く、花の咲く時期にはとても美しい町です。町の人口の約90%がドイツ系移住者、約10%が日系移住者と言われており、同市には、日本人移住資料館が2010年に開館しています。この日本家屋をイメージした資料館には、南伯に移住した日本人移住者が当時使用していた農機具や衣服、玩具等が移住の歴史を説明したパネルと共に展示されており、小規模ながら日本風の庭園が造られています。また、同資料館の横には、土俵も設けられています。
イボチ市としては、同市に既にあるドイツ移住資料館と共に日本人移住資料館を観光名所としたい意向であり、同資料館前の広場では定期的にフェイラを開催したり、ドイツ人移住資料館を活用し、年に一度「花祭り」を開催する等観光振興に力を入れています。また、イボチには、既述のとおり、ドイツ系移住者が多い影響も有るのかもしれませんが子供から大人まで参加しているオーケストラがあり、各地において演奏も行っています。
前置きが長くなりましたが、イボチ市内から車で緑に囲まれ、木漏れ日が漏れる静かな森の中を抜けるとサトウキビ畑が現れ、そのサトウキビの茂った小道をさらにかき分けるように進むとその奥には、きれいに整備された木造の小さな醸造所「WEBER HAUS」が忽然と現れます。イボチの人口の90%がドイツ系であり、この 「WEBER HAUS」は、その名で想像出来る通り、ドイツ人移住者が、1848年に、他の農作物と共に家庭で飲むためのカシャッサを作ったのが始まりです。1948年には蒸留窯を導入し、その後サトウキビの種類の選定、耕作地の改良等が重ねられ、今日に至り、現在では、ヨーロッパはじめ中国、日本等にも輸出されています。