執筆者:岩尾 陽 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

 

 

「第二次オイルショックからブラジルの累積債務問題」

1979年に発生した第二次オイルショックにより対外収支が急速に悪化したブラジルは、対外債務の累積額も同様に急増し、重債務国に転落して行きました。当然ですが、国際間の金融は国も企業も信用で成り立っています。 このブラジルの重債務問題は、ブラジル政府が今まで国際金融市場で借り入れてきたお金が、流動性危機、つまり資金不足により返済できなくなるリスクが高まったということです。そうなると、貸し手である先進国政府及び銀行はリスクから逃れるために、まずは新規の融資を控え始めます。 そうなると、国家の資金繰りは益々逼迫し、破綻リスクがより高まっていくという「負の連鎖」に落ち込んでしまいます。その結果、ブラジル政府の資金繰りはまさに破綻寸前に追い込まれました。

 

一方、日本国内では、タイトだった金融市場も落ち着きを見せ、また大手企業も70年代の資金不足から、一転して資金余剰の時代に移りました。 そうなると、余剰資金を土地、株、大口預金、外貨預金などの不動産や金融商品に廻し、本業以外の財務テクノロジー、いわゆる「財テク」がブームとなりました。

 

ブラジル政府は国家財政の資金繰りが逼迫していましたし、日本は余剰資金が銀行の大口預金などに回って、金融機関にお金が集まりました。それを受けてブラジル銀行東京支店は70年代の、日本企業向け融資から、資金の流れを一変させ、企業の余資を大口預金で受け入れ、それを市場で米ドルに換え、ニューヨーク支店経由で本店に貸出すというオペレーションに業務の主体を切替えました。つまり東京市場では、資金の出し手から借り手側に回ったわけです。 というのも、ブラジル中央銀行の対外債務のやり繰り、簡単に言うと「政府のお財布」 の中身はブラジル銀行が大部分を支えていましたから、その帳尻合わせには、東京支店からの送金も必要欠くべからざるものだったのです。東京支店としても、本国の資金繰りを支えるという大きな大義名分がありましたし、また、資金が取れれば金利は少々高くても良い、という本店側の希望でしたから、金利差を収益の基とする東京支店としても、実は大変に利益率の高いオペレーションでありました。

 

ブラジルは国が破綻するかもしれないという累積債務問題で大変でしたし、ブラジルを代表するブラジル銀行の東京支店もその影響を受けて、難しい局面に立たされました。 しかし、一面、あまり声高には言えませんが、ブラジルが苦しければ苦しいほど、私達、東京支店の存在価値が上がりました。1972年に東京支店が開設された時、ブラジル銀行は既に、ニューヨーク、ロンドン、パリなど世界の主要都市、10か所以上に店舗を展開しており、東京にも支店を開設し、日本企業に資金を貸して利益を上げようという計画でした。開店以来、当初の10年はそのシナリオ通りの業務が出来ましたが、それ以降は日本からブラジルへの資金の大逆流が起きました。それは当初の予定ではなかったのですが、結果的に東京支店は、日本で資金調達し、それをブラジルに送るという重要な役割を担うことになったのです。心ならずも東京支店はブラジル政府の苦しかった資金繰りに多大な貢献をすることになった訳です。

 

「日本企業から大口預金、外貨建て預金の受け入れ」

当時、預金カテゴリーの中に、大口預金というのがありました。 記憶が曖昧ですが、たしか5億円以上の預金をそう呼んだと思います。金利の上限規制を受けなかったと思います。余剰資金を運用したい企業は、金利の設定が自由で、他の預金よりも高金利だった大口預金に多く運用をしていました。また、生命保険会社は、高利回りの運用パフォーマンスを顧客や株主にアピールする必要がありましたので、表面金利の高い米ドル建ての預金にも多く運用していました。 当時のドル建て預金の金利は二桁を超えておりましたので、その意味では生保にとって外貨預金は格好の商品でした。 言うまでもありませんが、例えば6カ月物の米ドル預金も、円ドルスワップをしていますから、実際の円ベースでの利回りは一桁台でした。 しかし、アピール重視の、高い表面金利への運用でしたから、実質金利はあまり重要ではなかったようです。

 

1社当たりの預金額は大体10~20億円が一般的だったと思いますが、顧客の内の数社はコンスタントに200億~400億円を運用して下さいました。大変に有難かったことを今でも忘れられません。円資金を預かって、それをスワップして米ドルに換え、それに東京支店の利益(スプレッド)を載せて採算を合わせるという計算は、何時も一瞬の内に出来ないとビジネスチャンスが消えてしまいます。 80年代初頭、ブラジルが累積債務問題で一番大変だった時の3年間、為替のチーフディーラーをしていた私は、右手にお客様との受話器、左手にマネー・マーケット・ブローカーとの受話器を持ってオペレーションをした事を懐かしく思い出します。

 

直物相場と先物相場の開きを、直物レートで割り、それに360を乗し、期間日数で除す、 即ち、(直先の開き/直物相場 X 360/期間日数) この計算式にそれぞれのファクターを瞬時に叩き込んで、ディーリングを実行するかしないかを判断する力が要求されました。まだ30代の若さでしたから、判断力、瞬発力とも十分に持ち合わせていましたから、自分でも期待に十分お応え出来たと自負しています。 ヒリヒリとした緊張感もありましたし、ブラジルや銀行にとっては良き時代ではありませんが、個人的には仕事にやりがいがあって楽しく、また良き経験を積ませていただいた時代でもありました。

 

「為替デイーラー用語」

ちょいと余談ですが、幸田真音(こうだ・まいん)さんという作家がいます。
関口宏が司会する、TBSテレビ日曜朝の人気番組「サンデーモーニング」でも時々、コメンテーターとして出ていますし、作家としても主に国債などの金融をテーマにしたベストセラーを出していますからご存じの方も多いことでしょう。

彼女は作家になる前は、アメリカの銀行で債券トレーダーなどの経験があります。 彼女のペンネームの真音(マイン)は、実は為替ディーラー用語のmineから来ています。 為替相場と言うのは刻一刻変化しますから、ディーラーは通貨の「売った、買った」を即断し、直ぐに注文に繋げる必要があります。

通常、ディーラーと市場のブローカーはホットラインで繋がっていますが、相場が沸騰してくると両者とも興奮度合いが高まり、注文も大声で、早口になりがちです。 そんな場面で、受話器に「売ったー!」「買ったー!」などと叫ぶと、相手には「ッた―!」としか聞こえなくなる時があります。ディーラーは「売ったー!」つもりでも、ブローカーには「買ったー!」と聞こえたりして、そうした聞き違いによるトラブルが頻発しました。百万ドル、1千万ドルを聞き違えて反対の取引になってしまうと大問題となり、大きなペナルティが発生します。こうした事態を改善するために、ディーリングの世界では幾つかの用語の統一がされました。 例えば、買ったはMine、売ったはYoursという風に。

またスワップ取引では、「払う」はgiven、 「取る」はtakenなどです。 ですから幸田さんの「まいん」は、ディーラー用語から採られたペンネームです。その他、ディーリングは限られた時間でのやりとりなので、言葉の短縮もいろいろとありました。たとえば、電話の「もしもし」は「もし」, 文章英語の for you は 4Uなどです。

 

「日本の金融機関からのクレジットライン」

ブラジル銀行東京支店では、ブラジル累積債務が大幅に悪化する以前から、本国の要請もあり、日本のインターバンク・マーケットから、大量の資金(インターバンク・ローン)を調達していました。 当時10行以上あった都市銀行は言うまでもなく、大半の地方銀行、相互銀行、信用金庫、県信連など広範囲に及んでいました。毎月末に、借入先金融機関と金額を本店にレポートする仕事がありました。ブラジル人マネージャーと、それぞれの銀行名、金額、ローン期日などを口頭で読み合うのですが、日本語では普通の地方銀行の名前が、ポルトガル語にすると笑ってしますようなものが幾つかあって、その度に彼と笑い合った思い出があります。

 

まあ、海外の都市名が日本語にすると笑っちゃうのと似ています。例えば、マルデアホ、スケベニンゲン、シリフケ、 ボインシティ、オナラスカなどの逆バージョンです。話がそれましたが、ブラジル銀行東京支店は上述の通り、日本中の銀行とインターバンク・ローン取引(ブラジル銀行の借入)がありました。

そして、そのように獲得したマネーを、ニューヨーク支店経由で本国に転送していました 。当初は、東京市場でのブラジル銀行の信用リスクも高かったので問題ありませんでしたが、累積債務問題が深刻化するに連れて、徐々にそうした銀行からの調達が困難化し、資金が先細りになっていきました。また、心配になった日本の地方銀行の資金部長が新幹線に乗って東京支店を訪問され、私達は、「貴行からお借りしているインターバンク・ローンの期日決済は何も心配いりません。」 と、今思い出しても、あまり説得力の無い説明をしておりました。

そうしている間にも、ブラジルの累積債務問題はますます深刻の度合いを深め、カントリーリスクが増大し、当然ながらその影響を受けたブラジル銀行の信用も東京を含め世界の金融市場で悪化していきました。そのころ、パリでOECD加盟国を中心とした各国政府が集まって、ブラジル政府の累積債務問題を討議しました。 所謂「パリクラブ」と呼ばれる会議です。元々は50年代のアルゼンチンの債務延滞問題のリスケジューリングについて討議されたのが始まりですが、後年には中南米やアフリカ諸国の累積債務延滞問題も討議されるようになりました。

パリクラブは主として政府間の公的債務のリスケジューリングなどが議論されますので、各国とブラジル政府の公的債務に就いてのリスケが話し合われました。

 

また、そのころ商業銀行の銀行間の債務救済やリスケジューリングに就いても「プロジェクト4」と呼ばれるプログラムが立ち上がりました。

状況がこれ程悪化する前には、日本の多くの銀行からマネーを調達できていましたが、時と共にポロポロと取引銀行数が減って行きました。最終的にはほとんどの銀行が取引を継続せず、プロジェクト4で合意のあった10行程度の都市銀行だけがローンを継続してくれました。後年、ブラジルの状況が少し回復し、プロジェクト4の縛りが無くなり、ローン提供が自由裁量になった途端に、最後までローンを続けてくれていた大手4行も去って行きました。まだまだリスクの高いブラジルに資金を貸すのは、それぞれの銀行の健全経営の観点らは難しかったという事実は、頭では十分理解していましたが、一個人の気持ちとしては、とてもとても寂しいものでした。寂しいと言えば、その頃、元高級官僚として有名だった方がブラジルから叙勲されたことがありました。

たまたま受勲直後に何かのパーティでその方にお会いしたので、お祝いの言葉を述べたところ、彼からは「累積債務で評判の良くないブラジルからの勲章は出来たらお返したいな。」 的な言葉を聞かされました。少なくともブラジルの銀行で働いていた私には胸にグサリと刺さる話でした。私はその方を優秀な官僚として大変に尊敬していましたが、その気持ちが一度に冷めてしまうほどの悲しい経験でした。

 

「融資と預金のセット取引」

前述の通り、80年代になってからは国内企業への貸出が減り、代わりに大口預金や外貨預金の受け入れが増えたのですが、貸出がまったく無くなった訳ではありません。また、銀行からの調達は「プロジェクト4」終了と共に消滅してしまいましたが、一般の大手企業、特にブラジルに現地法人を持つ企業からは、まだブラジル銀行を信用しているからと、大口預金を継続して頂いておりました。

しかし、そうした企業も少しずつブラジルリスクに敏感になってきましたので、徐々に預金が減らしつつありました。どうすればこうした事態を改善できるか我々は考え始めました。

答えは割と簡単に見つかりました。もし企業がブラジル銀行に預金するのを、ブラジルの信用度が低いから躊躇するなら、その預金をするお金を、東京支店が貸し出せば良い。そうすれば、何か問題が起きても、貸出と預金を相殺できる、つまり企業はリスクなしで運用できるということです。では何故そんな取引が出来たのかを説明したいと思いますが、その前に銀行業務で基本的に禁じられている「歩積・両建て預金」に就いてお話しをする必要があります。銀行が顧客に貸出をし、その資金の一部を両建預金として拘束することは、独禁法上の優越的地位の不当利用として厳しく禁止されています。つまり、強者による弱者へのパワハラであるという認識です。しかし、当時、私たちが行った取引については、取引先が一流大企業であり、銀行に対して対等の立場であること、また、そもそも企業が利回りの良い預金で運用したい時の、その資金を東京支店が融資するのですから、パワハラ的な両建預金の定義からは外れます。

ですから、この取引は、当時の監督当局であった日銀や大蔵省からも何も問題はないと判断されていました。では、どうして貸出と預金がセットになった取引で、銀行も企業もウインウインで利益を得ることが出来たのかを説明しましょう。 それは銀行から見ると一つのパッケージ化された取引ではなく、二つの独立した取引であったからと言う点です。

まず始めに

①貸出取引です。

このエッセイ「その2」で書きましたが、銀行は市中で調達した資金にスプレッドを上乗せして企業に貸しますので、銀行には利鞘利益が生まれます。

②企業は借入れた資金を、借入金利より高いレートでブラジル銀行東京支店に預金することにより利鞘利益が生まれます。

③銀行は、預かった預金をスワップして米ドルに換え、スプレッドを上乗せして、ニューヨーク支店経由、本店に運用し、ここでも利鞘利益が生まれます。

要するに、顧客は②で利益を得、東京支店は①と③で利益を得ました。ブラジルと言う国が累積債務危機に陥り、政府、ブラジル中央銀行のグローバルな資金繰りのために、取れるお金は幾らでも、少し高い金利でも取りたかったという、その時代の特殊な事情が可能にした、稀な、そして不思議なオペレーションでしたが、そんなこともあって、ブラジルは何とか一番厳しい場面を切り抜けることが出来ました。

 

その後、90年初頭、日本でもバブル崩壊で厳しい時代が始まりましたが、バブル時代の余力はまだ幾らかは残っており、地方の工場などでは厳しい労働者不足の時代を迎えました。 一方東京支店では、企業の資金需要も無くなり、財テクも終焉し、「さあこれから何をすればサバイバル出来るのだろうか?」と真剣に考えなければならない時がやってきました。 まさにその時、ある「神風」が吹いてきました。

連載92:ブラジル銀行日本支店開設物語 その2

連載85:ブラジル銀行日本支店開設物語 その1