執筆者:田所 清克 氏
(京都外国語大学名誉教授)
発見される前のブラジルには、500万から600万ほどのインディオ(先住民)が居住していた。が、500年に及ぶ歴史過程、わけても植民地時代の初期において、正当戦争という名の下での異民族による虐殺や奴隷狩り、同化政策、さらには西洋人がもたらした疾病等によって人口は激減した。そして今や、この国の全人口(約2億900万人)のわずかに0,4%ほどを占めるに過ぎない。にもかかわらず、社会史家にして人類学者であるジルベルト・フレイレも『大邸宅と奴隷小屋』(Casa Grande e Senzala)の中で力説している通り、インディオがブラジルの社会や文化に果たした役割とその影響は決して少なくない。
ブラジルに留学した折に筆者は、そのことと合わせて、来着したポルトガル人植民地開拓者との間のコミュニケーションの媒体となった先住民族の言語の一つであるトゥピー語の、ポルトガル語に与えた影響の深さについても改めて思い知らされた。事実、ブラジル「発見」からほぼ2世紀半の間、アマゾンのマラジョー島から南部の大西洋沿岸にかけて話されていたトゥピー語、厳密には古トゥピー語(tupi antigo)と、トゥピー語を主体とした混成語のリングア・ジェラル(língua geral)は、少なくとも植民者とトゥピー系民族との間の共通語となり、後のブラジルのポルトガル語にも測り知れない影響を及ぼすこととなった。
ことほど左様に、アフリカ言語同様にトゥピー語の存在とその影響は、ブラジルのポルトガル語を考える上で看過しえないものがある。アフリカ言語、中でもヨルバ語およびバントゥー系出自のそれが、どちらかと言えば音韻や形態面で顕著であるのに対して、トゥピー語の影響は語彙面で際立っている。地名はむろん、動植物相、自然現象、信仰、道具、食物や料理(法)など多方面に亘るそうした語彙がいわば国語化して、現に辞書の中に収められている。ブラジルを訪ねられた人であれば、ポルトガル語とはいささか異なる綴りの語彙と発音に特色のある、トゥピー語の存在に気づかれた方もおありであろう。北海道の半数余りの地名はアイヌ語出自と言われる。それ故に、ブラジルの地名が少なからず、主にトゥピー語出自のインディオの言葉であること自体、もはや驚くに足りない。
『ブラジル語』(A Língua do Brasil)の著者であるグラッドストン・C・デ・メーロは、アフリカ言語との関連においてトゥピー語が、語彙面でブラジルのポルトガル語を豊かなものにしたことを形容して、アフリカの言語の影響が垂直的(・・・)であるのに対して、インディオのそれは水平的(・・・)であると述べている。ちなみに、後編でも引例するがその国語化したトゥピー系の言葉は、通説では5000語にも及ぶらしい。
ところで、ブラジル「発見」当初のポルトガル国家の関心はもっぱら、香料貿易の対象となる東アジア方面に向けられていた。その点で、ブラジルでの植民事業が具体的に始まるのは、放擲していたその大地が他のヨーロッパ列強に占拠・支配される危機に晒されるようになってからである。染料となるパウ・ブラジルの採集やサトウキビ栽培に取り組み始めたポルトガル人たちはかくして、自らのイベリア文化を移植しつつ、新世界の地に新たなポルトガル熱帯文明(Luso-Tropicologia)の創出という壮大な夢の実現に挑むこととなる。彼らは来着するや否や、大西洋沿岸のトゥピー・グワラニ系の民族、例えば人食い人種のトゥピナンバー族、ジョゼー・デ・アレンカールの手になるインディアニスタ小説『イラセマ』(Iracema)の作品の中で敵対する部族として登場する、ポチグアラ族とタバジャラ族などに遭遇する。そして、これらの先住民族と接触・交流する過程で、支配する側でありながら彼らは、先住民に較べて数が圧倒的に少なかったことから、古トゥピー語を自ら使用することを余儀なくされる。
かくして“ブラジル語”、つまり古トゥピー語は、16世紀から17世紀の中葉まで共通語としての役割を果たし、導入されたアフリカの黒人奴隷たちが使用していた。しかし、17世紀の第二半期に至ると、リングア・ジェラルに取って代わられた。結果として古トゥピー語は次第に廃れてゆく。そのリングア・ジェラルさえも、1758年にマルケース・デ・ポンバルによって使用が禁じられると衰微の一途を辿り、ポルトガル語が初めて公用語として機能するようになる。すると、全盛期には広範囲に亘って話されていた南東部のリングア・ジェラル・パウリスタ(língua geral paulista)も、20世紀初頭に至ると内陸部に限定され、いつしか消滅語としての運命を辿る。
①16世紀初頭の南米におけるトゥピー・グワラニ語系の言語を話す民族集団の分布(点線内)
アマゾンにはリングア・ジェラル・パウリスタとも対置される、トゥピー語系統から派生したトゥピー・グワラニ語族に属するニェエンガツ(nheengatu)がある。これは、北部・アマゾンのリングア・ジェラル(língua geral setentrional ou amazônica)から進展して19世紀に形を成したと言われている。トゥピナンバー語が出自とも解されるそのニェエンガツの場合は、消滅した南東部のリングア・ジェラルと違って、かなり変容したものになっているが、つい最近までマデイラ川流域の部族の間では話されていた。
ところで、数は研究者によってかなりばらつきはみられるが、IBGE[ブラジル地理統計院]の2010年の国勢調査(Censo)に基づけば、ブラジルでは現在274もの異なる言葉や方言が、およそ305のインディオ民族集団の間で話されている。そうしたあまた存在する先住民族を、植民期当初のポルトガル人たちは、2つの民族、すなわちトゥピー族あるいはトゥピナンバー(Tupinambá)と、トゥピー族が“仇敵”ないしは“野蛮”の意味で称していたタプイア族(Tapuia)のみに区別して認識していた。加えて前者を、言語と慣習に類似性のある大西洋沿岸に居住する民族として、対する後者を、イエズス会士たちが“リングア・ジェラル”、あるいはジョゼー・デ・アンシエッタ神父が言う“ブラジルの沿岸でもっとも使われる言語”を話さない、他の民族集団として捉えていた。
②北東部沿岸のトゥピナンバー族
インディオの言葉を系統的に分類するのは容易いことではなさそうである。それかあらぬか、これまでなされてきた分類を巡っては、研究者の間で見解が異なる。とは言え、孤立語や分類できない言語を除いて、基本的には4つの系統の祖語、すなわちトゥピー(Tupis)、マクロ・ジェー(Macro-Jês)、カリブ(Carib)、アルアク(Aruaques)に分類するのが通説となっている。中には、多くの言語を抱える前者2つのみに分類する説があるのも事実である。大西洋沿岸一帯と一部内陸部で話される、トゥピー語系統に属するトゥピー・グワラニ語族の話し手は、ブラジル一国にとどまらない。それはコロンビア、ペルー、パラグアイといった南米の多くの国々に広く及んでいる。マクロ・ジェー系統の言語使用地域はブラジル中央高原に一点集中する。シャバンテ族やボロロ族がその代表的な話し手である。それに対して、カリブ系統の言語使用の地域分布は、スリナム、フランス領ギアナなどの南米大陸北部のギアナ高地界隈にみられる。ブラジルで言えばそれは、アマゾン州北部のロライーマ州やアマパー州域に該当する。残るアルアク系統の言葉は、中西部をも含めた、マラジョー島とアマゾンのギアナ地域で話される。
その中にあって、トゥピーを祖語とするトゥピー・グワラニ語族の場合は、他の3つの系統の言語に較べて方言にあまり大差がないと言われる。このことに加えて、トゥピーを話すインディオの居住地域と、ポルトガル人の植民活動拠点とが重なっていたことが、共通語になり得た最大の事由であると思われる。ルジタニア[ポルトガルの別称]の地で形成された、ロマンス語の一翼を担う古ポルトガル語。その言葉を話す支配者たるポルトガル人植民者たちが植民事業を開始するに当たって、自国語ではなく被支配者(インディオ)の言葉を双方の日常のコミュニケーションの道具として用いたことに、前述の事由があるにせよ、怪訝な印象を覚えるのは筆者のみであろうか。何故なら、支配する側の者は通常、被支配者に対して自国語を押し付けるのが普通だからである。
翻って、19世紀後葉から20世紀の初葉の時代にかけて、傑出した知識人の一人にアフロ系のテオドーロ・サンパイオがいる。その彼の手になる重要な著作の一つに、ブラジルの社会形成、わけてもトゥピー語について論じた『ナショナル・ジオグラフィーにおけるトゥピー』(Tupi na Geografia Nacional)がある。この書で著者は、マメルーコ(mameluco)[インディオとポルトガル人の混血]にして、インディオ狩りと金・ダイヤモンド探索の目的で内陸部へ出向いた、バンデイランテ[奥地探検隊員]の存在に括目する。そして、トゥピー語とリングア・ジェラル、とりわけ後者を広域に流布した彼らの役割について特筆大書している。著者の言説を借りれば、普段はポルトガル語を使うことのなかったマメルーコたちこそが、出向いた先々でリングア・ジェラルを広める立役者であった。結果として、彼らを介してポルトガル人の間でもリングア・ジェラルが定着することとなった。ちなみに、ポルトガル人の子弟たちはそのこともあってか、母国語は学校で習ったとのこと。
このように、リングア・ジェラルは18世紀になって支配者の言語に取って代わるまで、いわば植民地ブラジルの公用語的な役割を果たした。従って、植民当初から布教目的で来着したイエズス会の神父は当然のこと、植民地開拓者までもがインディオの言葉を習得することに励んだ。1562年のトレント宗教会議に則って礼拝活動ではラテン語の使用が義務づけられていた。にもかかわらず、神父たちは布教のためにトゥピー語の使用を断念することはなかったようだ。それどころか、伝道者で詩人でもあったジョゼー・デ・アンシエッタ神父の場合は、布教に向けての必要性からインディオの言語を習得することの重要性を痛感して、『ブラジルの沿岸でもっとも使われる文法術』(Arte de Gramática da Língua mais usada na Costa do Brasil)さえ刊行している。他方、アズピルクエッタ・ナヴァーロ神父は、古トゥピー語で最初の宗教歌を作曲している。
≫ 連載107:ブラジル理解の一助となるインディオの言葉=トゥピー語(tupi) ―後編―