執筆者:岩尾 陽 氏
(日本ブラジル中央協会理事)

 

「群馬県太田市に群馬支店開設」

名古屋支店に続いて、今や日本でも一番のブラジルタウンとして有名になった群馬県の太田市、大泉地区に群馬支店(当初は出張所)を開設しました。 正確な年次は忘れましたが、1998年の名古屋支店のすぐ後でしたから、2,000年前後だったと思います。大田にはスバルを生産している富士重工(現在の㈱スバル)がありましたし、大泉には、その頃、沢山の日系ブラジル人を雇用していた三洋電機の工場がありました。その当時の三洋電機大泉工場は冷蔵庫の生産を主とした工場で、従業員数は15,000人程でした、残念ながら、2009年にパナソニックに売却された時には、従業員は6,000人に激減していました。 当然、工場で働いていた沢山のブラジル人も職を失いました。ブラジルに帰国した人も少なくなかったようですが、残った人々は周辺の足利、伊勢崎、舘林、桐生などの都市近辺にある、より小規模の工場に職を求め、ある者はサービス産業に雇用され、あるいは自分で小さな商店やブラジル食堂を開き、日本に定着していきました。その結果として、大泉界隈は日本一のブラジルタウンとして知られるようになり、「大泉サンバ祭り」は大変有名な地元のイベントになりました。

パスポートの要らない海外旅行気分、ブラジルの雰囲気を味わうツアーが出来て、ブラジルに興味のある日本人が沢山大泉を訪れるようになりました。お洒落なシュラスコなら原宿や渋谷に幾つかありますが、ブラジルの一般家庭料理や、もう少し素朴なシュラスコ・レストランなら大泉に行けば沢山見つかります。また、近隣に住むブラジル人向けのスーパーや肉屋、ベーカリーもありますから、そうしたブラジル食品や、ブラジルの代表的な地酒カシャーサが懐かしい人にはありがたい場所です。 ところで日本全体では10万人の従業員を擁した三洋電機も、その後、パナソニックに買収され、冷蔵庫と洗濯機事業部は、間もなくさらに中国のハイアールに売却されました。 仕方のない時代の移ろいですが、寂しさを禁じえません。

話を銀行に戻すと、大田出張所の開店前から同地周辺には、東京支店の日系ブラジル人営業マンが定住し、近隣在住のブラジル人に銀行のサービスを周知、展開をしておりました。 銀行は、上記のスーバーマーケットやレストラン、旅行代理店、ブラジル人経営の美容院などに預金や送金依頼書を置いて貰っており、周辺住民はそれを使って、東京へ現金書留を送っておりました。 そうした業務が日に日に増加していきましたので、実店舗を開く価値がありと判断しましたから、開業当初から沢山のお客様が出張所での取引を始めて下さいました。

太田市は、東京や名古屋に比べると家賃も各段に安いので、銀行出張所は大田駅前の一等地に置きました。駅を降りると、ロータリーの向かいに、黄色のベースに青い文字のブラジル銀行の看板がすぐに見つりました。あの配色はとても目立ちました。 大田や大泉には仕事でも、プライベートでブラジルの友人に会うためにも、何度も訪れました。 彼らのお家の庭先で開かれたシュラスコパーティは本当に楽しかったです。 そうそう、ブラジル銀行の看板と言えば、現在は五反田にある東京の店舗の看板も、山手線五反田駅のホームからよく見えます。 時々 山手線に乗って五反田駅を通る時に、その目立つ看板が見えると何だか懐かしいです。

「BB-MOVILという巡回型移動店舗」

最近、女性専用シェアハウス「かぼちゃの馬車」を巡る投資トラブルで、多くのハウスオーナーに1,000億以上の建設資金を貸し付け、その後、ハウス運営会社の破綻が大きな問題となり、大幅な損失計上を予定しているスルガ銀行の評判が非常に悪いです。しかし、2,000年代初頭のスルガ銀行は、健全かつ時代の最先端を行くダイナミックな経営が評判で、多くの地銀の中でもトップクラスの業績と評価を得ていました。特に、プライベートバンキングにおける斬新な手法はすべての銀行のお手本でした。私達ブラジル銀行にとっても、学ぶ所が沢山ありました。 私も、そのノウハウが知りたくて当時、確か沼津にあったスルガ銀行本店にお邪魔して、経営戦略などを聞きに行きました。その一つが、銀行界でもユニークだった、移動ATMでした。 写真の通り、ヴァン車両を改造し、その車内に応接セットを置き、当時としては最先端の情報テクノロジー満載のATMやコンピュータを装備し、顧客の集まる所に銀行が移動して行き、業務を提供するものです。 BB-MOVILと名付けられました。

残念ながら個人的には、その後間もなく、ブラジル銀行を退職し、日本企業のブラジル現地法人に勤務する事になりましたので、実際のBBMOVILの導入には立ち会うことが出来ませんでしたが、移動式巡回型車両の導入により、サービス地域の大幅拡大や、群馬、そして後で触れます長野、茨城、岐阜の拠点の運営コストを大幅に圧縮する事も可能となりました。 日本中に散らばるブラジル人労働者へのサービス提供に、お客様の来店を待つのではなく、こちらから移動ATM車で出かけて行くという、今までになかったサービスを提供することにより、それまで預金や送金のサービスの行き届かなかった場所でもブラジル銀行が利用できるようになり、新たな顧客獲得に繋がりました。 パーソナルバンキングにおける在日ブラジル銀行の成功は、こうした様々な手段を講じて、まさに地べたを這うようなキメの細かいサービスを色々と提供する事が出来たことだと思います。

BB MOVIL,や、地球の反対側のサンパウロに設置した日本の顧客向けの24時間電話カスタマーサービス、各店舗での週末営業などなど、出来る限り顧客第一主義を心掛けた結果でした。それを支えてくれた現場の従業員の皆様の努力には頭が下がります。 それにしても、そうした時代の先端を走る業務の先生であったスルガ銀行が、前述の不祥事でその評価を大きく貶めているのは、個人的にもとても残念で悲しいことです。

「長野、茨城、岐阜の3拠点同時申請」

前述の、BBMOVILと話は前後しますが、群馬県進出の後、長野県、岐阜県、茨城県に同時3カ所の出張所をオープンすることになります。 都市名で言うとそれぞれ上田市、美濃加茂市、水海道市です。 以前から、上記の3県には大勢のブラジル人が働いていることは知っておりました。 拠点を開くのはやはり県庁所在地あるいはそれに準ずるような大きな都市が良いだろうと、当初はぼんやりと長野市、岐阜市、土浦市辺りを思い浮かべていました。 しかし、よく考えるまでもなく、大半のブラジル人が働いている工場は、大都市の内側にはなく、むしろ広い土地が確保できる周辺都市にある訳です。 そこで、もう少し詳しくブラジル住民の分布を調べてみたくなりました。具体的には、その3県から届く沢山の現金書留が、いったいどの町の郵便局から発送されているかをチェックしてみました。 その結果が、上田、美濃加茂、水海道の郵便局からの現金書留が多いことが分かったのです。

さて、浜松支店開設の所で書いたと思いますが、大蔵省への「新拠点開設のお願い」は、私が初めてプロジェクトの先頭に立ち、大蔵省との折衝に当たりました。そして、その後の名古屋、群馬の支店、出張所開設依頼の交渉も同様でした。そのお陰で、「支店開設お願い」の書類に書く、開設に至る理由から、数年先までの事業、収益計画などの必要書類を含め、大袈裟ではなく、目をつぶってでも書ける位の経験を積みました。最初は大蔵省、その後は金融庁に監督官庁は変わりました。 大蔵省は、現在は財務省と名前は変わりましたが、今でも建物は変わっていないと思います。

古い石造りの建物で、うす暗い廊下に、ちょっとくたびれた赤い絨毯が敷かれていました。おそらくどの部署も同じようだったと推測しますが、私が通った銀行局銀行課も、狭いスペースに机を並べた担当者の机の上、そして机の下やスチールキャビネットの中や上にも書類の山が見えました。職員の殆どの方はスリッパを履いており、如何にも役所然としていました。雰囲気だけでは、ここで日本の財政、金融を管理しているとはとても思えない感じでした。時々、ブラジル銀行の総裁や取締役を大蔵省に連れて行きましたが、そのような雑然とした事務室を見られるのが、正直少し恥ずかしい思いでした。 銀行課に受付などはありませんし、職員によるお茶のサービスもありません。ですから、自分でドアを開けて部屋に入り、直接担当職員のデスクまで歩いて行き、訪問を告げるのですが、担当職員が何かの仕事に没頭していたり、同僚と打ち合わせをされている時などは、そこに割って入るタイミングを掴むのがなかなか大変だった記憶があります。

やはり「上記諸事情ご賢察の上、何卒ご許可賜りたく、宜しくお願い申し上げます。」 などと申請書に書くような許可を頂きに行っているのですし、かつ、前述の通り、暗いおどろおどろしい廊下を通っているうちに、自然に「お代官になにかのお願いをする町民」のような気分になるのを禁じえませんでした。 1998年以降は金融庁に監督官庁が変わりました。 金融庁の建物は近代的なビルでしたが、やはり、この町民気分は少なからずありました。 大蔵省、金融庁職員の皆様の名誉の為に付け加えると、特に彼らから威圧的な応対をされたということではなく、あくまで私の勝手な思いです。 やはり官庁の中の官庁として強大な権力を持つお役所のイメージが私の中でも強かったのだと思います。 しかし、それでも時間と共に担当者とは親しくなり、信頼関係も生まれてきますので、やはり、何事においても、良き人間関係の確立が大ことなことだと思います。

長野、岐阜、茨城の開設許可申請を担当した職員にもとても親切にして頂きました。 勿論、開設許可はそう簡単には下りません。何度も追加の書類を持って行ったり、口頭での説明を要求されたりします。担当は銀行課の係長と、その補佐クラスの方でした。 補佐の方とは、あくまでも事務的なやりとりであり、彼も立場上、許可が出るとか出ないとか、出るならいつ頃出るのかなどは訊いても教えてくれません。教えてくれませんと言うよりは、立場上、結果がはっきりするまでは何も言えないということだと思います。 しかし、審査が想像以上に長引くと、我々はやはり心配になってきます。ある日、新しい3拠点の申請を出してからかなり時間も立ちましたので、補佐の方に何時頃許可が下りるか、大体の見通しを訊きましたが、案の定はっきりした返答は頂けませんでした。 そして私は銀行課の部屋を出て、廊下の先にあるホールでエレベーターを待っていましたら、その階に到着したエレベーターの中から、偶然にも担当係長が下りて来ました。 私の顔を見ると、係長は、「アッ、岩尾さん。 例の許可は来週出ますよ。」と挨拶代わりに声を掛けてくれました。 これはホントに嬉しかったです。心の中で、小さくガッツポーズ!でした。

「田中康夫長野県知事」

浜松支店をオープンした時には、地元の知人達に沢山協力してもらいましたので、その縁で、市長に挨拶に行ったりしましたが、基本的に拠点開設にはあまり地元の行政は関係がありません。 ですから、名古屋や群馬では知事や市長のところには挨拶に行きませんでした。 しかし、長野だけはちょっと別でした。1980年に大学生だった時に発表した小説、「なんとなくクリスタル」で100万部を売った田中康夫氏が、その頃県知事になっており、当時、政治家としても大ブームを起こしていた時でした。ヤッシーというニックネームを今でも覚えています。 「行政の見える化!」をスローガンにした知事は、その実践のシンボルとして、知事室を一階に置き、何処からでも見えるガラス張りにし、賛否両論大きな反響を呼びました。 県知事を訪問することと銀行業務は直接には関係ないのですが、ブラジル銀行の長野における知名度アップを兼ねて、田中知事を、そのガラスの知事室に訪問しました。 長野県に於ける最初の、そして恐らく最後の外資系銀行として、上田市に拠点を設けるということに就いて、田中ヤッシー知事も大変に喜び、結果的に、長野でのブラジル銀行スタートを効果的に演出出来ました。

余談ですが、1980年に書かれた「なんとなくクリスタル」に、出生率のデータを用い、将来の少子高齢化問題を提起し、右肩上がりでバブルに突入しつつあった80年代を前にして、いずれ右肩上がりも終わりを告げるかもしれないと、当時既に「終わりの始まり」を見通していた彼の未来への先見能力や、本の半分を占める400以上にも及ぶ注釈を使った斬新な作風ももっと評価されて良いと思います。

このエッセイも6回目となり、あと一回で終わります。次回は、「ブラジル向け送金の2億ドル証券化」のお話や、勤務時間内のブラジル銀行ならではの面白話などを纏めて見たいと思います。

続く