会報『ブラジル特報』 2010年11月号掲載 エッセイ 徳江 陽子(ピアニスト、協会々員)
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今、自分の命を絶とうとした人でも、ふと聞こえた音楽でまた生き返ろうと思い止まる力が音楽にはあるといわれます。そこで大層なことではなくとも音楽には言葉も国境も要りません。つくづく音楽の文化交流は手っ取り早い直接的世界平和の手立ての一つではないかと思います。
さて、この11月中旬から、私は3回目のピアノコンサートツアーのためにブラジルを訪問します。パリ国立音楽院で学んだ私は、ブラジルに留学した訳でも、生活した訳でも、ポルトガル語が堪能な訳でもありませんが、10数年前から行っているユネスコを冠にしたエイズ研究予防財団のためのチャリティコンサートを聴いたサンパウロの日系の方から、是非ブラジルでもコンサートをして欲しいと誘われたのが最初のきっかけでした。その翌年2008年のブラジル日本人移住100周年記念の年に、外務省の認定事業としてクラシックのピアノリサイタルを行うにあたり、プログラムを作るまで、私はブラジルのクラシック音楽についてほとんど知りませんでした。ヴィラ・ロボスのようにブラジルという国際的知名度の高い作曲家は別として、ミニョーネ、ナザレ、フェルナンデス等ブラジル作曲家の名曲は聴衆の心を鷲掴みにして揺らし琴線に触れて、20世紀の新しい宝石箱の中で輝いていました。 私の1回目のツアーは、皇太子殿下もご訪問された交流年の年の5月から6月にかけての40日間。サンパウロではMASP(サンパウロ美術館)や、普段一般ブラジル人には閉鎖していてユダヤ2万人の会員制ヘブライカ・クラブが1世紀に一度の日本ブラジル交流年記念コンサートならと、特別に企画して下さったクラブ内の歴史あるA. ルビンシュタイン劇場。ここでのコンサートの前日にこんなことがありました。事務局からホテルに電話があり、「テロ防止のため、来賓全員のパスポートと車の番号を明朝までに知らせて」とのこと。一瞬驚きましたが、そこでSim(はい)とはいえません。「日本から皇室離脱されブラジルへ永住された明治天皇の御孫様や、移民100周年祭の祝辞のために東京から駆けつけて下さったJR東日本顧問、サンパウロの文協の方々、日本国総領事のパスポート番号を私は聞くことが出来ません、我々は両国のお祝いに来ているのです」。すると「分かった。但し入り口で必ずコンサートの切符を提示して下さい」。当日半分以上大勢のユダヤ会員の方々が来られ、持っていったCDは完売してしまいました。 翌日、音楽会が無事終了した御礼メールが事務局から届きました。「成功おめでとう!ヘブライカ・クラブはいつでも貴女の次のコンサートに門扉を開けて待っています」。ブラジリアでの島内大使が主催して下さった大使館内での各国大使とのプレコンサートでは、ブラジル女性が草月流活花でレセプション会場を美しく飾って下さり、私は生まれて初めて着物で演奏しました。翌日、ブラジル銀行文化センターでのセンテナリオコンサートでは、日本側として島内大使から、ブラジル側として銀行代表から祝辞を頂き、演奏は夜9時半から始まり11時半に終わりました。マナウスでは、夢かしらと自分の頬を抓ったアマゾナス劇場でのリサイタル。これもセンテナリオということで、当時の山岸アマゾナス日系商工会議所会頭が動いて下さり、州知事が美しいオペラハウスを開けて下さいました。瀬川総領事が「今や邦楽だけが日本の音楽文化ではありません」と仰ったのが印象的でした。オペラハウスのピアノはもちろん大型スタインウェイでしたが、余り使用されていないのとアマゾン河の湿気で数鍵沈んでいてショック! 即サンパウロのヤマハムジカ・ド・ブラジルの松代社長に調律師がいないと泣きつくと、ヤマハのトップ調律師を泊まり込みでサンパウロから送って下さい、お陰様でもうこの場で死んでもよいと思うほど、思い出深いリサイタルとなりました。2回目は昨秋。今年はベレン、クリチバ、カンポ・グランデへも行く予定です。後援して頂いた当協会に大感謝。
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