会報『ブラジル特報』 2010年11月号掲載
文化評論

                        岸和田 仁(協会理事)


ジルベルト・フレイレ(1900−1987)の自伝的回想録が、彼の死後23年を経た今年7月に出版された。そのタイトルは『De Menino a Homem(少年から大人へ)』。出版社はサンパウロのGlobal出版だ。何故20年以上も未刊のまま放置されていたのか。それはその告白的内容に”公序良俗”に反するものがあるからだろうと推測する次第だが、9月のブラジル出張を利用してレシーフェの本屋で購入し、早速眼を通してみた。

ブラジルの社会科学・人文科学の歴史における分水嶺をなすとみなされる主著『大邸宅と奴隷小屋』(初版1933年)をもってブラジル社会論を革新し、ブラジル国民の混血性をポジティブにとらえる視点を確立した社会人類学者フレイレは、今日でも様々な批判や再評価が国の内外で継続されている。その意味では、つとめて同時代人である。

 1930年代から50年代は、それまでの欧州を仰ぎ見る後進国コンプレックスを覆し、自国の混血文化を肯定し、ナチス的純血人種主義へのアンチテーゼを提示した革新派とみなされたフレイレも、1960-70年代に入ると、軍事政権を積極的に支持し、「人種デモクラシー」神話を喧伝する御用学者にして、ポルトガル植民地主義を理論的に擁護する反動派だ、と左派から激しく批判されるようになる。彼の両義性や先駆性(例えば、彼はエコロジーという用語の創始者だ)について、批判派の牙城サンパウロでも積極的に再評価されるようになるのは1990年代後半からである。

 さて、米国留学から帰国後、当時のペルナンブーコ州知事の秘書官を拝命したフレイレ青年は1930年のヴァルガス革命で一時亡命を余儀なくされ、バイーア、アフリカ(セネガル)を経て、ポルトガルに滞在する。懐は極端に寂しく経済的には切り詰め生活だったが、図書館や文書館・博物館で史料を読み込んだおかげで、主著の構想がなされていく。1931年、米国のスタンフォード大学に招聘され、客員教員として1年弱講義を行った時、多くの知的刺激を得たことがこの回想録に書かれているが、『大邸宅と奴隷小屋』の執筆を開始したのは、この時期であることも、この自伝的著書で確認できる。というように、フレイレの知的成長、学問的成果が結実するまでのプロセスが読み取れる。

 という”知的”プロセスと並行して、いや、それ以上に今回活字化された回想録が一般読者の注目を集めるのは、もう一つのチテキ(“痴的”)体験が書かれているからだろう。

 同性愛志向もあったフレイレ青年の最初の体験はドイツであった(1920年代のベルリンで少年男娼と関係した)ことはさらっと書かれているが、ブラジル王室直系の皇族女性(当時の年齢70歳以上)とのリオにおける秘められた関係については、なかなか小説的な叙述だ(彼女が、自分の豊かな胸部が張りを失っていないことをフレイレの両手で実感させた、という部分は読者をドキドキさせる)。あるいは、地元レシーフェでの、親族による出版記念パーティーにおける乱痴気騒ぎぶりとか、ブラジル人の大好きな話題が記載されている。

 ブラジル社会が植民地時代から性に開放的であったが故に、人種間の混交が進んだことを論証した著作をものにした著者自身も、「理論と実践の一致」を自ら具現していたことが、今回の回想本で明らかになった、ともいえるかもしれない。

 ちなみに、彼の青年期の日記は、壮年期のフレイレが添削を施して『Tempo morto(ロスタイム)』として1975年に発刊されており、その対象期間は1915年から1930年までなので、今回出版されたのは、その続き、すなわち1930年以降の回想である。この回想録第一弾には、彼が英米文学、ロシア文学やスペンサー進化哲学に感化されたことが記されているが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の諸作品にも影響を受けたことも読み取れる。今回の回想録第二弾に、多くの「ヰタ・セクスアリス」を期待していた筆者としては、いささか物足りなさが残ったと告白する次第であるが、「ブラジルとは何か」を真剣に追究した一人の知識人のチテキ(知的&痴的)軌跡を確認出来る作品であることは間違いない。

 この著書のすぐ横に、シルヴィア・コルテス『大邸宅の時代』という強烈なフレイレ批判本が平積みされていた。これはサンパウロ大学への博士論文であるが、このレシーフェの書店の風景がまさにポレミックな学者フレイレを象徴しているようであった。